暗い洞窟の中、私は一人、目を閉じていた。
どうしてここにいるのかは分からない。じめじめした岩肌が、背中にぶつかって痛かった。涙がとめどなくこぼれる。
何か悲しい事があった気がしたけれども、頭に霞がかかったように思い出せない。
目を開けて見ても、吐き気はするし、暗いし体は重いしで、状況は変わらなかった。
小さなうめき声を上げながら、私は身を起こす。
何かを求めるように、手の平を闇の中に持ち上げた。また一筋、涙がこぼれた。
その時だった。視界の隅で、ちらちらと光がまたたく。誘うように温かなその光。温もりに飢えていた私は、よろめきながら光に向かって歩き出した。
光が近くなるにつれて、頭がぼんやりしてくる。温かい。このまま、この光の中に抱かれていたい。
私はそう思って近づいた。微笑みすら浮かべて。
だけど、それは果たされなかった。温かさとは対象的な冷たさが、私の手の平に触れる。
「そこから先は、」
私は驚いて、振り向いた。
立っていたのは少年だった。見覚えのある少年。意識の隅にいつもある少年。
「君の行くべきところじゃないよ」
少年はそう言って、悲しげに微笑んだ。
ああ、ああ、ああ……
嬉しい。悲しい。色々な思いが私の頭の中を過ぎった。
「どうして、こんなところにいるの?」
「どうして、って?」
少年はクスクスと笑った。
「また昔のように呼んでよ。僕の名前を」
私は微笑んだ。
変わってない。昔はずいぶん、憎たらしいと思ったのに、今ではそんなからかうような言葉にすら、温かみを感じる自分がいた。
私はその名を呼ぼうとして、……口を閉めた。戸惑ったような顔をしていたのだと思う。少年が不思議そうに、首を傾げた。
「どうしたの? 忘れちゃった?」
私は首を横に振って答えた。私にとってその名前は、忘れたりできるものではなかった。いつも心にあって、……大切な名前だったから。
ただその名前を呼ぶのが、あまりにも久しぶりで、胸がいっぱいになって、私は泣いた。
少年はその間、ただ黙って私の手を握っていてくれた。それが慰めのような気がして、私はうつむいた。感情の波が、耐え切れないくらいに私を締め付けている。
「ねぇ」
少年は私が泣き止んだのを見て、明るく言った。
「きれいな月を見せてあげるよ。行こうか」
……?
私はきょとんと少年の顔を見た。
「それとも、僕について来るのは嫌?」
からかうように、少年が言うので、私は慌てて首を振った。
/*■*■*■*/
ひたひたと、洞窟の外に向かう。外に向かっているはずなのに、進むにつれて暗くなって行く。
私はさっきの光が名残惜しくて、何度も振り返った。
少年がそんな私の手を握りながら振り返って、小さく微笑んだ。
「そんなに懐かしい? あの光が」
私は煮え切らない態度で、ううんと首をふる。
ただもう一度だけ、振り返った。もう光は見えない。私はひどく残念な思いにとらわれた。あそこにいたらきっと温かくて、涙も流れないのに。
「流れない代わりに、喜びもないよ。あれ? 君は、停滞が嫌いなんだと思っていたけど」
いつの間にか、口に出していたらしい。私はふるふると首を振って、恥ずかしそうに黙った。
/*■*■*■*/
ついに出口までたどりついた。
夜のひんやりした空気が頬をなでる。
圧倒的な闇の中に、白い月が浮かんでいた。宵闇の中で、ただ神々しい光を放つそれ。私はただ胸を打たれる。
私は自分の全てを投げ出しても、この光の中に入って行きたいと思った。うっとりと目を細める。
ああ、私はこういう光が見たい。ずっと見ていたい。できれば大好きな人と一緒に。
大好きなひと。
私は歓喜を顔いっぱいに浮かべたまま、ぱっと振り返った。
その時私は、彼の存在を思い出して嬉しくなっていたのだと思う。ずっと会いたかった人だから、何度も確かめるように振り返って、手を握って、あの月を指差すつもりだった。愛しいと告げたかった。
……だけど、気づいた。
少年は、どこにもいない。私は最初、怪訝に思って辺りを見回した――
それから思い出した。
ああ、そうだった。私は虚ろに思う。
彼は最初からどこにもいなかったのだ。
頬を冷たい涙が伝った。
私が気づいたとたん、周りの風景が歪んで行く。私は現世に呼ばれているのを感じた。
でも、帰還の道が示されるのは私にだけ。私は抗うこともできずにただ嗚咽の声をこらえて、膝をついていた。
そう、彼はずぅっと前に死んだのだった。
もう思い出せないくらい、昔に。
私はずっとずっと、彼を捜し求めて歩きまわって。そして結局、彼の姿を見つけられなくて、こんなところに来て、それでようやく彼を、見つけた。
分かっていた。彼が帰って来ないということは。もう二度と会えないということは。
だけど、それでも――
それでも彼は、私のために、こんな私のために、姿を見せてくれた。いつもと変わらないふりで、私を助けて――!!
「――ごめんね……!」
私は謝った。心の底から謝った。
「ごめんねぇ、ありがとう……シャリ」
その名を呼んだ瞬間、私の意識は薄れた。シャリが導いてくれた月の光によく似た白い道が、私の前に浮かび上がる。
導いてくれたのは彼だった。ばかみたいだ。逆に助けられて。でも、それが――
私を生かすことが彼の望みなら、私は生きなくちゃならない。
振り向く。さっきまでいた洞窟が、ぽっかりと暗い口を開けていた。
彼女はその闇の中に、彼の姿を見たような気がした。
ごめんね、……さよなら。
私はもう一度だけそう言って彼の名を呼ぶと、とても名残惜しそうに、けれどもう振り返らず歩き出した。
……目が覚めると、ベッドの上だった。私は旅のとちゅうで川に落ちて、生死の境をさ迷っていたらしい。
私はそれから、人が変わったように必死になった。彼の影を追うことをやめて、誠心誠意生きた。
自分の人生に満足していた。
けれど忘れない。
だけどそれでも、私はそう、その最後の最後の瞬間まで、彼を愛していたのだ。
……それだけが、私に残された彼の名残だから。
ハッピー・エンド