石造りの古びた部屋だった。天上が低く、黒ずんだ石に囲まれて、同じく石製の寝台がある。その上に一人の少女が横たわっていた。
彼女は、小さく吐息をついた。
まどろみの中から浮上して、薄く目を開く。
目の前に、真っ黒な髪をした少年が立っていた。
彼はうやうやしく膝をつくと、彼女に手を差し出す。
「お目覚めをお待ち申し上げておりました。薔薇の姫」
ローズ・シュバリエ。彼はそう口にして、命令を待つように目を閉じた。
彼女は、彼の言葉の意味が分からなかった。
いや、言葉は分かるのだが、なぜ自分がそのような呼ばれ方をするのか分からなかった。
ふと、疑問が湧きあがる。そもそも自分は何者なのだろう。
何気なく自分の服を見下ろすと、真紅のドレスを着ていた。血のように赤かった。
冷たい感触に身震いして手首を見ると、なぜか枷がはめられている。邪魔だと思って引っ張ったけれど、びくともしなかった。
諦めて顔に触れると、すべすべした感触が返ってくる。
最後に髪に触れて目の前に引っ張ってくると、赤い艶やかな髪が生えていると分かった。
そうやって何度自分の体を調べても、やはり自分が何なのかは分からなかった。
それで彼女は、次に少年の方を観察した。
黒くて長い髪が、冷たく光っている。十七歳くらいの年だと思われた。顔はきれいなのだけれども、切れ長の瞳がどこか冷たい。真っ黒い服を着てはいたが、あまり似合っていないと彼女は思った。
彼は彼女が観察している間も、微動だにせず手を差し伸べている。
彼女は首を傾げた。
「ここは、どこ?」
「あなた様の寝室にございます」
少年は年に見合わない、とても慇懃な口調で答えた。
「私は、誰?」
「存じ上げません。あなたは薔薇の姫です」
「でも、名前がないのは困るわ」
「でしたらローズと名乗られてはいかがでしょう。あなたは薔薇の姫でいらっしゃいますから」
彼女――ローズは小さく首を振った。
「薔薇の姫って、誰?」
「あなたさまにございます」
「違うわ。私は、薔薇の姫なんてものになった覚えはないもの」
少年はそこで初めて、顔を上げてローズの顔をまともに見た。
意外なことに、彼の瞳には好奇心めいたものがひらめいている。が、それはすぐに消えて、すぐに冷たい、心を閉ざしたものに変わった。
「あなたさまからも、記憶が失われたようですね。他の姫も幾名か、御記憶をなくされた方がいらっしゃいます」
「記憶がなかったら、困るわね」
「お困りでいらっしゃいますね。あなたは現に」
「他の姫って、誰?」
「さぁ。存じ上げません」
「でも、今他の姫の話をしたでしょう?」
「はい。その事でお話が」
彼は言葉を切ると、飽くまで慇懃に続けた。
「恐縮ですが、御記憶をなくされたとのことで、私から説明申し上げます。あなたさまに残された選択肢は三つです。お時間はあまり残されていません」
「どうして?」
「存じ上げません。私には必要な機能しか備わっておりませんので」
「でも、納得できないわ」
「御納得くださいませ。でなければ、お命を落とされます」
ローズはゆっくりと首を傾げた。手にはまった枷が音をたてる。
「なぜ?」
「我が偉大なる主人は、花嫁を求めておいでだからです」
そう言って、彼は語り出した。
「この城の主である我が主人は、三十年に一度、花嫁候補――薔薇の姫を招きます。人間の間から美しい者だけを。その中から強く賢い者を后とするため、姫たちはこの城の最上階を目指していただくことになっておりますので。……これだけは申し上げておきますが、最初にたどり着いた一名以外は、死を賜うしきたりです」
「それって……ゆうかい、したの?」
彼女はぼんやりと、手首の枷を見た。
彼は小さな声で言った。
「そうなるやも知れません」
「……三つの選択肢って、何?」
彼は指をたてて、言い含めるように答えた。
「ひとつ。ここで花嫁になる事を拒否し、死んでいただく。ふたつ。花嫁を目指して最上階を目指す。みっつ。今回は見送って、次の時まで眠りにつく」
彼女は考えた。考えて、ぼんやりしたまま結論を導き出した。
「……見送ったら、いいことがあるの?」
彼は首を振った。
「いいえ。恐れながら、あまりございません。長生きはできますが」
「……じゃあ、私、この城を上るわ」
彼女は混乱もなく、ただ淡々と答える。死ぬのは怖かった。ただ曖昧な自我の中で、それだけがぽんと浮いている。
死にたくない。
「それがよろしいでしょう。前回担当した花嫁候補は、私を殺そうとしたものでしたが。記憶がなくなると、こうも変わるものですか」
彼もまた無表情にうなずいて、彼女の手を取った。
「では枷を外させて頂きます。しばらく身動きされませぬよう」
「あなたは?」
「我が主に仕えて、千の年月を数えた自動人形にございます。あなたさまの手助けをするよう命じられました」
「そうじゃなくて、名前は?」
彼はゆっくりと、慎重な感じで微笑みを浮かべた。それなのに、冷たい印象は薄まるどころかどんどん濃くなっていく。
「さぁ。私の記憶も、奪われておりますゆえ」
「……名前がないと、困るでしょ?」
「……ではシャリと。お姫様」
その名を口にする瞬間だけ、彼の瞳に生気が宿ったような気がした。……しかしそれも所詮一瞬の瞬きに過ぎない。
ローズが胸にチクリと傷むものを感じたその時、枷がカチャンと外れて寝台に落ちた。
最初は歩くのもぎこちなかった。螺旋上にずっと上へのびた階段を上っていた。
寝台から降り立った時、足の感覚がなかった。手を貸して欲しいと頼んでも、シャリは無表情に首を振るだけで、必死に立ち上がろうとする彼女を見下ろしているだけだった。
だからもう、彼女はシャリを頼りにしないことに決めていた。
後ろを振り向くと、淡々とした顔で、それでもゆっくりと彼女に歩調を合わせて、シャリがついてくる。
「……足が、動かないの」
「三十年、お眠りでしたから」
「そうじゃなくて、助けて」
「大変遺憾ながら、あなたさまをお助けすることはできません。決まりですので」
「助けてくれるって、言ったのに」
「試練はお一人で乗り越えていただく決まりですので」
彼女は振り向いて、きっと睨んだ。
はずむ息そのままに、目に強い光が灯る。
「分かった。あなたは、手助けするなんて言いながら、その実試験官なの。私の行動を、見張ってるんだ。そうでしょう?」
「否定はしませんが」
「ひどい」
ローズは言い捨てて、先を急いだ。
「このままでは」
だが、ちょうど歩き出そうとしたタイミングでシャリが声をかけてくる。
「なぁに?」
また茫洋とした瞳に戻ったローズは、かたんと首を傾げた。
「負けてしまわれますよ。他の姫はすでに、この無限回廊を突破しております」
「他の姫って、あと何人いるの?」
「今回は30人ほどが招かれました。そのうち生存しているのはあなたを含めて10名です」
「……死んじゃったの?」
「はい。ここには死の罠が仕掛けられておりますゆえ」
「どこにあるの?」
「さぁ。それを知る者はすでに地獄へ旅だっております」
「あなたも、半分くらいは地獄に首突っ込んでるみたい」
「そうですね。否定はいたしません」
ローズは首を振った。
「もう足が動かないわ」
「では自害なさいますか」
「……したくないわ」
そうだ、死にたくない。
ローズは自分を奮い立たせて、また一段階段を上った。
「お望みならば、足を軽くすることもできますよ」
ローズはぽつりともれた声に、三度振り返った。
少しだけ希望に目を潤ませて、シャリを見る。
「どうやって? 魔法でも使うの?」
「はい。私は魔法が使えます」
彼は大仰に礼をすると、冷たく微笑んだ。
「しかしあなたに、その代償が支払えますか?」
ローズはそれを聞いて、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
彼女が最初に失ったのは、美しさだった。
ドレスの裾が短く破け、足は赤く腫れあがっている。それでも彼女はようやく出口への扉に手をかけた。
「恐れながら、あなたさまは現在四位です」
後ろをついて来たシャリが、不意にぽつりとつぶやいた。
「……何人中、四位なの?」
「現在この城の中で生存している女性は六人だけです」
「どうして死んだの?」
「多くは、この無限回廊を抜けられませんでした。ここを抜けるには、何かを捨てることが必要ですから」
それから彼は、歪んだ微笑みを浮かべた。
「何かを捨てるというのは、人間にとってそんなに辛いことでしょうか?」
「……あなたが、捨てろって勧めたのよ。いいの? 私を手伝って?」
ローズは言いながら、返事を期待するでもなく扉を押し開けた。
しかし声は返ってきた。あまりにも小さな声だったので、危うく聞き逃してしまうところだったけれども、彼女は危ういところで聞き取って、振り向いた。
彼は暗い顔をしていた。
「果たして犠牲を払ったのは、あなたでしょうか? 私でしょうか?」
「……どうして助けてくれたの?」
その表情から何がしかを汲み取って、ローズはひそやかに問いかけた。
「さぁ。存じ上げません」
ローズは悲しそうな顔をした。
ただ呼吸しているだけで、肺が火傷しそうなほどの熱気が充満している。
ローズの目の前に、ただひたすら細長い一本道が続いていた。ちょっとでも足を踏み外せば、下で煮えたぎるマグマに転落するだろう。
彼女は痛む足を引きずって、前に進んだ。眩暈をこらえながら、一歩一歩進んで行く。
諦めたらそこで終わりだ。
「あなたは、またお捨てになろうとしている」
ローズは額の汗をぬぐって、訝しげに振り向いた。
「あなたさまは、薔薇の姫に必要なものを全て捨てようとしていらっしゃる。それではよしんばたどりついたとしても、……」
それきり、シャリは口をつぐんでしまった。
ローズは不思議そうな顔でシャリを見る。
「私が捨てようとしているものは、なに?」
「恐れながら、繊細さです。この熱気の中をお進みになるのでしたら、繊細さを捨てなければなりません」
「いらない。そんなもの」
「あなたはちっともお変わりになられない」
薔薇の姫は少しだけ微笑んだ。
「あなた、不思議ね。まるで、私の事を知っているかのような口ぶり」
彼女は必死に一本道を渡りきって、次の扉に手をかけた。辺りは熱気に包まれているのに、鉄でできているように見えるドアノブはひんやりしている。
すぅっと息を吸って、彼女は扉を開けた。
今度は何が来るのかと身構えていた彼女は、普通の廊下が広がっているのを見ると拍子抜けした。
小さくため息をついて振り返る。
……少年の姿はどこにもなかった。
「シャリ?」
彼女は不安そうに辺りを見回した。
一人になるのは怖い。いつだって。
さ迷うようにふらふらと廊下を進んでは、振り返る。
「シャリ? どこにいるの?」
呼びかけながら進む。進むことしか許されてはいないから、どんなに心が苦しくても、進む。
彼女はふと頭の痛みを覚えて、立ち止まった。
一人。孤独――いなくなってしまった人。
何か、何かひどく大切なことを忘れているような気がする。大切で、……忘れてはいけないものを。
そもそも私は何者なのだろう。
彼女は再び、その疑問を思い出した。