時折、薪のはぜる音が響いた。
温かく照らされた部屋の中央に、古びたロッキングチェアがある。腰掛けているのは、ゆったりと落ち着いた風情の老婆。瞳は優しい青色をしていた。
彼女は膝かけの上にそっと骨ばった手を置き、椅子を前後に揺らしている。その瞳は今、何かを思い出すように細められていた。
彼女の部屋に、ノックの硬質な音が響く。
老婆は顔を上げ、「どうぞ」と声を掛けた。その声はしわがれ、確実に老いを刻んではいたが、限りない優しさに溢れている。
「失礼します」と言って入ってきたのは、黒髪の少女だった。桜色の肌と、かわいらしい目鼻立ちをしている。
しゃんと背をのばして立っている少女に、老婆は微笑んだ。
「あら、あなたが来るなんて珍しいですね。何かありましたか?」
親切そうな声で老婆が言うと、少女はほっとしたかのように頭を下げた。
「はい、ご機嫌うるわしゅう、アトレイア女王陛下」
老婆ははんなり微笑むと、わずかに頬を染めた。
「嫌ですよ、こんなおばあちゃんを捕まえて。それに、もう女王じゃないわ。そういうものは、すっかり娘たちにあげてしまったものでねぇ」
「叔母はあなたを愛していたと、聞いています。尊敬していたとも」
少女がおずおずと言うのを、老婆は優しい顔で、聞いていた。
そして少女がすっかり言い終わると、彼女は目に光るものを浮かべて少女を招き寄せ、頬にもみじを散らす少女を抱きしめて、頬にキスをした。
「ありがとうねぇ。私のような年になると、そんなことを言われるのはとても嬉しいことなのよ。さぁさぁ、膝の上にお座り。遠慮することはないの。あなたは私にとっても、孫のようなものなのですからね。……そうそう、それでいいのよ。さぁ、あなたが何を求めてここに来たのかは分かっていますよ。遠慮せずに言ってしまいなさいな」
少女は老婆の言葉に、はっとしたようだった。そしてとても恥ずべきことをしたかのようにうつむいて、息が荒くなった。
「……っ、じゃあ、あの、教えてもらえるんですね? あの、つまり私が言っているのは、彼女のことです……叔母のことなんです」
老婆は「叔母」の言葉が出た辺りで、懐かしそうに目を細め、尊敬のまなざしで思い出を見つめていたが、少女が老婆の反応を気にして顔を振り仰いだ時には、すでにもとの微笑みをたたえていた。
「ええ、ええ、もちろんですとも! さて、どこから話しましょうかねぇ……」
老婆の老いて皺だらけの顔が、とたんに若々しくなった。彼女は十歳も若返ったように見えた。
もう、何十年前になるでしょうねぇ。私がまだ何もできない、不器用な小娘だった時の話です。
あの方は、私をそう、「アトレイア」と呼んでくださいました。それは確かに私の名前なのですが、あの方の口でつむがれると、もっと特別で、得難いもののように思えるのです。
あの方に呼ばれるたび、私は自分の名前が「アトレイア」であることを母に感謝しました。
あの方は、何者にも砕けない信念と、全ての人たちに救いを、と願う正義感と、燃えるような情熱と愛を持っていらっしゃいました。あの方がどんなにすばらしいか、どんなに私のためにさまざまなことをしてくださったか、それはそれは筆舌に尽くせないほどのことです。
あの頃……あの方と初めてお会いした頃、私は闇の中にいました。今となっては思い出すのも忌々しいことですが、はっきり言ってしまいましょう。私は盲だったのです。
それというのも、私の幼いころ、母が……いえ、それはいいでしょう。今は彼女のことなのですから。とにかく私は、そのせいで、王位を持つ身でありながら、ひどく不遇な状況にあったとだけ言っておきます。
そんな時にあの方が現れ、私を光のもとに連れ出してくれました。あの方は、わたくしがどれだけ根の暗いことを言っても決して私を見放したりはせず、何度も何度も私のもとに来て、根気よく私に色々なことを話してくれたものです。
そして、次第に私は熱心で、自由で……とても優しいあの方に心を開いていきました。
あの方の話は、鋭くさわやかで、私を決して飽きさせはしませんでした。ふふ、今でもよく思い出します。
そして、とある……、そう、悲惨な事件で、私の国、ロストールが危機に陥りました。国の主要な人物たちが次々と亡くなり、王女だった私は、表舞台に立ってロストールを建て直さねばならなくなりました。
思うように行かないことも、身を切られるほど悲しいことも、たくさんありました。けれど、あの方はそれでも私を支えてくれました。私のためにさまざまな所へ奔走し、ロストールのために働いてくれました。
それに、私が落ちこんでいる時には必ず側にいてくれて、慰めてくれました。あの方は素晴らしい方です。私は、あの方に何度頭を下げても足りないくらいの大きな優しさを与えられたのです。
そう、素晴らしい方だったのです。……けれど、なぜか時折、ふと悲しい目をしたり、ひどい怪我をして、血まみれのまま倒れていたりしました。それが始まったのは、勇者のネメア様や、お仲間と共に、魔窟と化したエンシャントで闇の勢力と戦って、世界に平和を取り戻してからのように思います。
……そういえば、あの方は私の手伝いをしてくれるようになってしばらくした頃、なぜかとても思い悩んでいる様子で屋敷を抜け出して、どこかへふらりと消えることがたびたびありました。
今思えば、それが関係していたのかもしれません。一度だけ聞いたことがあるのですが、あの方は悲しそうな顔でお笑いになって、まるで窓の向こうの人を見るような目で私を見たことがありました。
私はとても心配になって、なんとか突き止めようとしたことがあったのですが、そのたびに、あの方に悲しそうな顔をされるので、ついにやめてしまいました。
それでも、あの方はたまに血まみれで帰って来ましたし、あの方にこびりついた影は、すっかりあの方の一部になってしまっていて、周りの……私たちが気づいた時には、もうあの方は変わってしまっていました。
いえ、とは言っても、闇に落ちたというわけではありません。ただ、そう……影ができたのです。光そのものに見えたあの方に、いい知れない、悲しい影が。
……もしかしたら。本当に、ただの憶測でしかないのですが、もしかしたらあの方の悲しみには、あの方が関係しているのではないかと、私は思っています。
そうですね、私が娘と呼ばれるような年になった頃まで話はさかのぼります。あの頃、まだ闇の中にいた私は、自分をただ矮小なものと信じきって、静かに、呼吸するだけの毎日を送っていました。そんな時に、私の前に突然現れたのが、あの方……シャリ様です。
東方の博士という触れ込みで、とても丁寧で親切な方でした。言葉は真摯で、目の悪い私を、決して嘲ったりすることはありませんでした。あの方は、私の気がまぎれるようにと、さまざまな外の話を聞かせてくれました。
その話の中には、色惑の瞳というものがありました。それを使えば、私の目に光をもたらすことができるというのです。
私は、どうしても、世界をこの目で、はっきりと見えるものとして捉えたいと思いました。シャリ様の話を聞いていると、世界というものは、とても美しいように感じられたのです。
するとシャリ様は、冒険者に色惑の瞳を探してきてもらうと言って出て行かれました。その冒険者というのが、「あの方」だったのです。
あの方とシャリ様は、浅からぬ因縁があるようでした。そして、私が光を手に入れてからというもの、シャリ様は、しきりに私に質問を繰り返しました。
以前のように楽しい話をした後で、私の根幹に関わるような、とてもきわどいことをお聞きになられるのです。
私は次第に落ち込み、シャリ様の言う通り、世界が美しいとは到底思えなくなりました。そんな私を見かねてか、「あの方」の訪問は日を追うごとに、間を開けないものになっていきました。
私が闇に囚われそうになっている時、あの方はおとずれて、……いえ、それはいいでしょう。とにかくあの方は、私を救ってくださったのです。
ですが、その代わりシャリ様は私のもとからいなくなりました。シャリ様は、私を闇に落とそうとしていらしたと、その後で誰かから聞きました。
それから色々とあって、私は生涯でただ一度きり、あの方にシャリ様について尋ねました。
するとあの方は、「どこに行っていたのか」と尋ねた時と同種の、悲しそうな顔で、あいまいに言葉を濁すのです。だから私は、あの方と、シャリ様が何か関係があるのではないかと思ったのですが……
もしあの方をシャリ様が、未だに苦しめているのであれば、それはひどいことだと私は思いました。もしそうなら、直接シャリ様にお尋ねして、頬を張ってもよかったのです。
ですが、あの方はそれに頷きませんでした。それっきり、あの方とシャリ様について話したことはありません。
……たぶん、あの方は、シャリ様が好きなのではないでしょうか。あの方の様子を見ていて、なんとなくそんな気がしました。頬を染めるわけでも、切なげなため息をつくわけでもありませんが、あの方はシャリ様を愛しているのかも知れません。
一度、あの方とシャリ様が話しているのを見たことが、あるのです。それは、私が国づくりのことで悩み、あの方に助言を求めようと探していた時のことでした。
あの方は、屋敷の裏手にある丘によく行かれて、じっと月をご覧になるのですが、その日もそこで、切なそうに月を見上げておりました。声を掛けようと思った私は、その時突然、あの方の隣に誰かいるのに気づきました。
それは、本当に久しぶりに見るシャリ様でした。あの二人は寄りそうように並んで、それでもお互い別々な方向を見て、何かを真剣に話されている様子でした。
それから――、私も驚いたことに、シャリ様はあの方に剣を向けました。私はハラハラしておとなしく見守っていました。すると、あの方は、なんと剣を剣帯からはずして、放り投げられました。それから二言、三言交わして、シャリ様は消えました。
私はあの方に声を掛けようと思ったのですが、一人になったあの方は、丘の上に転がりあお向けになって、……さめざめと涙を流しているようでした。私は、あの方が泣いているところを初めて見ました。
あの方は、シャリ様が好きなのです。
そう直感すると同時に、私はシャリ様が、やはりあの方の苦悩の原因であることを悟りました。理由なんてありません。強いて言うなら、女の直感でしょうか。
もしそうなら、私にとってもシャリ様は憎い敵です。とてもひどいことをなさっていると思います。
……でも、本当にそうなのでしょうか。シャリ様の言動を思い返してみても、結果を見ても、シャリ様が私に近づいた理由が、私を闇に落とすためである、というのは本当のように思えますし、実際そうなのかもしれません。
でも、私には、どうしてもシャリ様を憎いと思えないのです。悪い方だとは……とうてい。
だって、私を慰めるシャリ様の声は、すとんと私の心に入って、私を助けてくれましたし、シャリ様は時折、とても悲しそうな顔をなさいます。まるで、葬儀に参列している真っ最中のような、そんな顔です。
あの方は本当に間違っているのでしょうか。悪なのでしょうか。私は、この老年になっても、未だにそれを考えています。そして、答えはまだ出ていないのです。
え、……あの方が、それからどうしたかと?
あの方は、今でもきっと、世界のどこかで、冒険をしているのでしょうね……あの方のことは、今でも冒険者の間で語り継がれています。英雄譚を探せば、数限りないことでしょう。あのお方こそは最高の冒険者。
永遠の冒険者なのですから。ふふっ。
老婆は語り終えた。深い感銘を受けた様子で聞き入っていた少女は、うんうんと何度も頷いて、老婆を見上げた。しかし老婆は目を瞑り、安らかな寝息をたてている。
少女は老婆の膝から丁寧に降りると、老婆に向かって低く頭を下げた。名残惜しそうに振り返り振り返り、少女は静かに扉から出て行く。
蝶番が軋んで、ドアの閉まる冷たい音が響いた。
あとには、ロッキングチェアの背もたれに身を預け、幸せそうに眠る老婆のだけがあった。
end