COLORs エピローグ



〜彼の願い、あたしの願い〜

「遅刻しちゃう!」
 バタバタと慌てて階段を下りると、先に座って新聞を読んでいた父さんが、苦笑しながら言った。

「そんなに急ぐと、転ぶぞ!」

「あーもう、うるさいなぁ!」

 きらきらと輝く陽光が差し込み、電気もつけていないのに室内を明るく照らしていた。勢いよく椅子を引いて腰掛けると、キッチンで目玉焼きを作っていた母さんが、ふっと顔を上げてあたしをきつく睨む。

「メイ、いけませんよ。その調子でご飯を掻っ込んでは、味なんて分かりませんよ」

「いいから早く早く!!!」
 ろくに聞かずに急かすと、母さんはしょうがないわね、と言って微笑んだ。パタパタとピンク色のスリッパで寄って来て、フライパンの中の目玉焼きをあたしの皿に落とす。じゅう、とあたしの目の前で湯気を立てる目玉焼きに噛り付き、ろくに噛まずに飲み込んだ。そしてお皿の上に乗っている冷めた食パンを引っつかみ、言葉通り口に押し込むと、ガタッと立ち上がる。

「いっへひはふ!」
 答えるように、真っ白い毛並みの家の愛犬がワンと吠える。
 その声に背を押され、今日も一日が始まった。



 ライトグリーンの新緑も眩しい並木道、あたしは全速力で駆けて行く。初夏の陽射しがじりじりと肌を焼き、弾んだ息は熱かった。

「メイちゃん!」

 ずっと前で大きく手を振っているのは、あたしの一番の友達だった。
「シャナ!!」
 名前を呼んで、ゴールのテープを切るように両腕を広げ飛び込んで行く。どん、と軽い衝撃の後、シャナがよろめいてどすんと尻餅をついた。

「痛っ! 痛いなぁ、もう!」
 ケラケラ笑いながら、シャナが立ち上がった。明るく笑い、あたしの腕を引っ張って助け起こしてくれる。
「あははッ! やーだもう。象が踏んでも壊れないケツしてるくせに大げさな」

「ちょっと。人のお尻を、どこかの筆箱みたいに言わないでよね!」

 シャナは難しい顔を作って腕組みして見せたが、三秒と続かなかった。次第に顔が笑い崩れ、五秒後にはもう二人して笑い合っている。あたし達は呼吸困難に陥りながらも、何とか歩き始めた。

「でぇ? その後どうよ。もう愛しの劉籐君にはコクったワケ?」
 うりうり、と肘で突付きながらシャナを促すと、彼女は見るからに顔を真っ赤にして狼狽し始めた。
「やめてよ、メイちゃん……! こんな所でッ」
 並木の葉をすり抜けて差し込んだ木漏れ日が、横を歩くシャナの顔にまだらな影を落とす。 
「誰も聞いてないよ! それに、あんたが劉籐を好きなことは、本人以外はみーんな気付いてるよ!」
「そ――そんなことないもの!」
 シャナがおろおろと青ざめたり赤くなったりを繰り返している。まるで信号機のようねと思ったところで、また笑いの発作がこみ上げてきた。顔を指差しながら爆笑するあたしに、御羅田が拳を振り上げて怒る真似をする。

 そんないつもの、満ち足りた通学路だった。


 そしてそんな時間が、いつまでも続いて行くようだった。授業中には青空を見上げ暇を潰し、お昼休みは友達と一緒にふざけながらご飯を食べた。そんな風にしていたから、家に帰りつく頃には体中のエネルギーを使い果たしている。
 でも、それは心地良い疲労感だった。

「ただいまー……」
 ドアを開くと、夕暮れの、鮮やかなオレンジ色が、玄関を真っ赤に染め上げる。パタパタと忙しそうに出迎えてくれた母さんが、困ったように眉を寄せた。
「あら、お帰り。早かったのですね?」
「うーん。今日は部活無かったからさぁ」
「今日はシチューですよ」
「やりィ! 母さん大好き!」

 あたしはるんるんとはしゃぎながら鞄をその辺にほっぽり出し、階段を上ってガチャリと自分の部屋のドアを開けた。電気を付けずにドアを閉めると、部屋の中は闇で満たされた。
 
 ドアに背を預け、誰にともなく、つぶやく。
「あー、あたしって幸せ者。なんて楽しいことばかり」
 単に事実を言っただけの言葉に、胸のどこかが引っかかる。

 ――何だろう。痛まないはずの胸が、とても痛い……

「幸せだなァ。母さんが居て父さんが居て。みんなニコニコしてるし。ずっとあたしの隣に居てくれる。暗い感情なんてなくて、あたしも明るくて、何て幸せなんだろう」

 体から力が抜けた。何だろう、この胸を突くような痛みは。どうしてあたしの中に、こんな痛みがあるんだろう。
 ずるずると、あたしの背が滑る。ぺたんとお尻が床についた。

「幸せだなァ……」

 つぶやきが、闇の中に溶けて、消える。
 幸せだなぁ。

 本当に幸せ。

 思う心が、軋むように痛んだ。なぜ? なぜ、こんなにもあたしは……

 幸せ?

「幸せ……、幸せ?」

 何だろう……幸福感に包まれていたはずの心が、こんなにも脆く頼りなくなるなんて。

「あれ……何? 何だろう……何か……足りな、い……?」

 胸の中に、ぽっかりと穴が開いている。そこにあるべきだったものが、消えてしまっている。
 あたしは胸を掻き毟り、喘ぐように仰け反った。

「わ、分かんないよ……何であたし、こんなに泣いてるの? 誰か教えてよ、胸が苦しくてたまらないの」

 胸の痛みをはっきりと自覚した途端、際限なしに痛みが増して行く。と同時に、色鮮やかな宝石のようにキラキラとしていた世界から、色が抜け落ちて行く。灰色の世界へと崩れ、変わって行く。

「ねぇ、何で……? こ、こんなに痛くてさ、全然、全然幸せなんかじゃないよ」

 胸を焦がすような焦燥感があった。あたしは、唇を噛み締め、ワケの分からない衝動に耐える。でも長くは続かなくて、あたしは大きく揺らぎ、床に這いつくばった。

 足りない、足りないんだよ。何か、たった一つ、他では埋められない大切なものが無い。
 でもそれが何だったのか、どうしても思い出せない。
 
「なんでこんなにあたし焦ってるの? 何でこんなに苦しいの? ねぇ、誰か教えてよ。何で? 何でなの? 何で、何で――教えてよ、誰か。教えて!! ――教えてよ、シャリ!!!」

 ぽんと名前が飛び出した瞬間、あたしの脳裏で白いものが弾けた。衝撃に何度も震え、震える指で顔を覆う。

「あ、あぁぁぁぁ」

 あたしは掻き抱くように天へと腕をのばし、何もない虚空を引っかいた。信じられない!

「お、思い出した……思い出しちゃった……どうして忘れてたの? 一分だって、一秒だって忘れられないって思ってたのに。超絶性格悪いあいつ。あたしの大好きなシャリ……」

 ドン、と両腕を床に振り下ろす。カーペットに吸収されたはずの衝撃が、あたしの胸を揺さぶった。

 あなたが居なきゃ。

「……どうしよう、シャリ? ねぇ、シャリ? 全部思い出しちゃったよ。あなた、最後の最後に、あたしの幸せなんて願ってくれちゃったの? 嘘でしょ? ……信じられないぐらい優しいね! でも無理だよ!」

 ぽろぽろと涙がこぼれた。止まらない。全然、止めらない!

「あ、あた、あたしの幸せは、あなたの隣にしか無いんだから。あなたの居ない世界じゃ、あたし、息も出来ないんだから!」

 鈍痛を訴えていた頭の痛みが最高潮に達し、目の前が真っ白になった。
 どこまでも昇って行く。あの飛翔感が、またあたしの体を押し上げていた。流れて行く景色がどんどん白く変わり、そして、やがて何もない、真っ白な世界へと――

――

 ――君の願い、

 がつん、と心に直接響くような声が、あたしの意識を揺さぶる。
 あたしの上昇が、何かに押し留められるかのように止まった。

 ――君の願いはとても強いんだね。とっても放っておけないよ。
 まぁ、いいや。最初に叶えるのは君の願いにしよう。

 時を越えて、世界を超えて、君の、一番の願いを叶えてあげる。
 僕は、望みを救う者。

 僕の名前は――








 /*■*■*/





 ……

 ……――

 ――柔らかい風が、頬を撫でている。

 ここは、どこ――

 疑問が浮かんだところで、あたしは目を開けていないことに気付いた。それじゃ、駄目だ。目を、開けて。
 あたしの意志に答え、ゆっくりと瞼が開いて行く。

 あたしの目に飛び込んで来たのは――


 そよぐ風。さらさらと流れる、川。木々が生い茂り、ひっきりなしに鳥たちの囀りが聞こえる。

「ここ――

 ぼぉっとしたまま、身を起こし、辺りをきょろきょろと見回した。

 全然、見覚えのない所だ。繁茂している木々は、知っているようで知らない種類のものだし、小川の側に咲いている花も、見たこともないような形をしていた。

 あたしはよろけながらも、何とか立ち上がり、小さく息をついた。
 ここは――一体?
 あたし、どうしたのだったっけ?

「……おや、あなたは?」

 ふっと気を抜いていたところに、突然声が降って来た。あたしは驚いてどきっとした胸を押さえ、くるりと振り返る。
 ……そこに立って居たのは、一人の……男性? 女性だろうか? 髪の長い、きれいな顔立ちの人だった。若草色の……ローブ、と言うのだろうか。映画の中で俳優さんが着ているような服がよく似合っていた。

 その人は、穏やかな笑みを浮かべ、安心させるようにゆっくりと、自分の胸に手をあてた。

「普通の人間は、こんな所まで入って来られないはずなんですけどねぇ」

「あたし……は」

 こめかみに手をやり、もどかしい記憶を引きずり出そうと苦心する。

 ――そうだ――

 シャリが居なくなって。
 あたしも今度こそ消えてしまうと思った時、声がして。そして……?

 ――駄目だ。そこから先は、どうやっても思い出せそうにない。
 あたしはぎゅっと眉間に力を入れ、つぶやいた。

「シャリ……は」

 シャリにはもう二度と、……会えない……のだ。

「シャリ? 彼なら――
 傍らで穏やかな眼差しをあたしに注いでいたあの人が、怪訝そうに首を傾げる。

「! 知ってるの? シャリを!」
 勢い込んで拳を握りながら迫る。きれいな人は穏やかな態度を崩し、ぎょっとして軽く仰け反った。

「彼なら、まだこの時代には現れていませんよ。……でも、不思議ですねぇ。あなたからは一切闇の気配などしないのに、彼のお知り合いとは」
「まだ!?」

 あたしの心に希望の灯火が光る。あたしは男の人の肩に手を掛け、揺さぶった。

「まだって言うことは、もう少ししたらシャリに会えるの!?」

「え。えぇ――先ごろ大きな戦乱もあったことですし、私もそろそろじゃないかと思ってるんですけどねぇ」

――ありがとう……!」

 あたしは心の底から礼を言った。
 信じられない。
 シャリにまた会える?

 ――また、言葉を交わせる?
 今度こそ、抱き締められる?

 じわじわと、喜びがこみ上げて来た。また会える。話せる。側に居られる。そのことが、あたしを蘇らせて行くのだ。
 きれいな人が、顎に手をあてて、何事か考えながら言った。
――ああ。あなたは、以前に生まれたシャリのお知り合いですか? でもそうすると、もしや彼はあなたのことを何も覚えていないかも知れませんよ」

 あたしは笑顔になって、コクンと頷いて見せる。

 ……それでも構わないから。
 だってそれなら、また最初から始めればいいだけの話だもの。そんなこと、全然問題じゃない。

「良かった……」

 ああ――何て幸せなんだろう!
 考えただけで、際限なく笑顔が沸いて来る。

 シャリと同じ空気を吸える。シャリと同じ場所に居られる。
 それだけのことで、こんなにも心が軽い。

 穏やかな風が、あたしの背をトン、と押す。
 あたしは、逸る気持ちを抑えきれずに、駆け出した。一刻も早くシャリに会いたい。会いたい。――会いたい!

 さわさわと風が吹き、木の葉を揺らす。あたしの目にはそれらの全てが、美しい緑や、青々と抜ける空が、きらきらと輝いて見えた。

 あたしはその中を駆けた。幼い日のように、息の続く限り、どこまでもどこまでも走った。

 太陽があたしの体をポカポカと温め、風が頬の汗を拭い去り、木々が歌うように揺れている。

 あたしはここで、この世界で、シャリともう一度出会うだろう。あたしには分かる。その時、今こんなにも輝いている世界が、きっともっと輝くだろうと。
 彼の隣に居ることさえ出来れば、あたしの世界は倍にも十倍にも、輝くのだから。

 その証拠に、周りをたゆたう、幾多もの白い光が、あたしを祝福するように輝いていた。
 巡るたくさんの色たちが、微笑みながら手を差し伸べていた。

 確信する。ここには、この場所には――

 あたしの望んだ、未来がある。

 あたしは走った。輝きの中を、どこまでもどこまでも、走り続けた。


 END

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最後は、やっぱり、めでたしめでたし、で。
長らくお付き合い頂きまして、本当にありがとうございました。
(幕)