「あ、あの……本当にごめんなさい。今まで……」
闇に咲く花のような。
そういう容姿の少年が、彼女に向かって、ぺこりと頭を下げた。
余りのことに、彼女――、ラシェル・ルーは、頭の中が真っ白になった。
夕餉の香りが漂っている。ロストールの平民街だった。
今日は知り合いの夕飯にお呼ばれしていたので、足取りも軽く。
ラシェルはブレスト・プレートに赤い髪、ソードを腰にぶら下げていた。年の頃なら16、7の少女である。
目の前にいるのは――、シャリだ。彼女とは因縁がそりゃーもーたくさんありすぎるほどある邪悪極まりない少年、であったはずなのだが、突然現れて、頭を下げたかと思いきや口から飛び出したのがさっきの台詞。
あり得ん。絶対にあり得ん。
こんな風に殊勝に謝るなんて、シャリのキャラじゃない!
そりゃ頭の中も真っ白になろうというもんである。
シャリは頭を下げたまま、ちらりとラシェルを見た。
ラシェルはぐっと息を詰め、後ずさりする。
そこで彼女は、重要な違和感に気づいた。そう――、シャリの頭には、泣こうと喚こうと絶対に外そうとしないはずの、あの変な帽子がないのだ。
「シャリ……よね?」
「?」
パチモンじゃないわよねと思いつつ問いかけてみたものの、シャリは頭を上げて、不思議そうにこちらを見るのみである。何だか目つきまで変わって、生き生きとしているようにすら見える。
ひ、ひぃぃぃぃ!
ラシェルの肌がぞっと粟だった。
顔を合わせりゃ頭から水をかけられ、唐突に霊峰トール山頂に飛ばされ、と言った、思い出したくもない記憶が彼女の頭の中に次々と蘇る。
これは何かの趣向で、また何かいたずらでもするつもりなのかと、ラシェルはさらに後ずさりした。
「こ、こここ、来ないで……! 何を企んでいるのかは知らないけど、私――」
「あのっ、今までのことは……本当に申し訳なかったと思うんです、ラシェルさん……」
ひぃぃぃいっぃ!!!!
ラシェルは涙目になりながら自分の体を抱きしめた。
ナッジか!? おのれはナッジなのか!?
いや、シャリがたとえ演技であろうとこんなことを抜かすなんて、天変地異の前触れでは? おお恐ろしい……! 世界もついに破滅?
「おおお、落ち着いて話し合いましょう? いったい何が起きたっていうの? ね、お姉さんに話してごらんなさい……」
「?」
シャリは潤んだ目でラシェルの方を見た。
と、鳥肌が……
「やーっと見つけた……、シャリ!」
突然、ぼふぼふぼふと黒い煙が上がり、ああ、お馴染みのあれかと思って見ていると、中から現れたのはジュサプブロスだった。
ジュサプブロスは何か大変なことでもあったのか、顔が青白く(いつも青白いが)、こめかみには血管が浮き出ており、微妙に逝っちゃった笑いを口元に刻んでいる。服も髪もどこかほつれ、煤けたような感じだ。
彼が手に持っているのは、何と――、あのシャリの帽子だった。鶏を捕まえるカゴを構える農婦のように、ジュサプブロスはじりじりと帽子を構える。
「さぁ、今度こそおとなしく帽子をかぶるんだ!」
シャリがびくっとなった。てててとラシェルの方に駆けてくると、後ろに隠れ――
って私は壁じゃないわよ!
心の中でそう突っ込みつつも、服を握って助けを求めるように見上げて来る少年をむげにできるはずもなく。
仕方なく、ラシェルはジュサプブロスを止めようと両手を上げた。
「と、とりあえず落ち着いて」
ジュサプブロスが血走った目をラシェルに向けてくる。
彼女は恐れ戦いて身を引きそうになったが、後ろにかばっている少年を思い出して何とか踏みとどまった。
「何があったのかは知らないけど、仲間割れは――」
ちょうどその時、シュンと音がして、閃光と共に今度は救世主エルファスが現れた。
「ええ、エルファス!? ちょっとシャリ、これはいったい――」
ラシェルが思わず後ろにいるはずのシャリを振り返ると、奴は走って大通りの方に逃げて行くところだった。
「あ、ちょっと、シャリっ!?」
ラシェルは余りにもな態度に追いすがろうと駆け出し、そして服を掴まれて、したたかに顔を地面にぶつけた。
「いたっ! 何するのよ!」
ラシェルが振り仰ぐと、石膏のように美しい面立ちの少年が、シャリの消えた方を見て険しい顔を浮かべていた。
「ああ……何てことだ」
エルファスはがっくりと肩を落とした。
口すら挟めずにぼーっと見ていると、不意に二人の視線がラシェルに集まった。
「……、シャリはいったいどうしちゃったのよ。あんなの冗談じゃないわ」
ラシェルは起き上がって、クロースについた埃を払った。
「ちょっとしたゲームだったんだ……」
エルファスは鎮痛な面持ちで口を開いた。
◆◆◆
時は、一時間ほど前までさかのぼる。
定期的に集まって行われる会議――、出席者は無論、エルファス(そっぽ向いて自分の髪いじってる)、シャリ(くるくる回って楽しそう)、ジュサプブロス(眠そうに船をこぎだした)、ゾフォル(風邪ひいたのか咳してる)の四人のみである。
ゾフォルがコホンと咳払いをして、ダミ声を張り上げた。
「えー、じゃあ報告から始めるとするか。ゴホッ!」
「はーい、じゃあエルファス君からどうぞ!」
シャリが妙に明るく指名する。
エルファスは何かの妄想に夢中になっていたのか、いきなり名指しされて転びそうになった。
「あ、ああ……変わりはないよ。ラシェルにまた邪魔され――」
「はいじゃあ次!」
シャリは元気良くエルファスの声を遮って、ジュサプブロスに指を向けた。
「ん……ああ。俺の方は順調だよ。貪欲の盾のありかも調べがつきそうだしね」
ゆっくりとジュサプブロスは言う。
自然に、全員の視線がゾフォルに集まった。
「……ふぉっふぉ。闇は滞りなく深まりつつあるわ。ゲホッ」
「で、シャリはどうだい?」
ジュサプブロスが聞いた。皆どことなく期待するようなまなざしでシャリを見ている。
シャリはてへっと笑った。
「ごっめーん、ラドラス落としちゃった☆」
『何ーーーーー!?』
一同は思わず腰を浮かし、ある者は椅子からずり落ち、ある者は叫びすぎて喉を痛め血を吐いた。
「ごめんってば。いやー、ラシェルに邪魔されちゃって」
「何が『邪魔されちゃって』だ!」
苦しげな呻きを発するゾフォルの背をさすりながら、ジュサプブロスが責めるように言う。
「そうだよ。あんなに自信満々で出て行った癖に、そのザマなのか?」
シャリの目がふっと伏せられた。
突如変わった雰囲気に、一同は狼狽して辺りを見回す。
なぜか悲しげな音楽まで聞こえてきた。
「そうだね。本当に悪かったよ……、心の底からそう思ってるんだ」
「シャリ……、いや、俺たちは何もそこまで……」
「なんてねー。うっそぴょーん」
シャリはウフフアハハと笑うと、くるくる回りながら外へ出て行った。
『……』
残された三人は、絶対零度の視線で、閉まった扉を眺める。
ゾフォルが末期の声とばかりに叫んだ。
「増長したシャリに天罰を! わしはもうだめじゃ……」
『ゾフォルー!!』
ジュサプブロスががっくりと膝をついた。
「うう……、いい奴だったのに。シャリめ……!」
「ああ……仇を取ろう」
遺された二人は顔を見合わせ、頷いた。
……
……
「で、どっちがアイツに天罰を食らわせるんだ?」
「……僕は嫌だぞ」
「俺だってゴメンだね。命がいくつあっても足りやしない。天罰は救世主様のお役目じゃないのかい?」
「それを言うなら、君だって黒の祈りとか何とか言う、訳も意味も分からない二つ名を持ってるじゃないか。さあ、君の祈る神に代わって鉄槌を下せ」
『……』
二人はどちらからともなく、生温かい視線を交わし合う。
「……さて、じゃあ解散するか」
「ああ、そうだね。それがいい」
部屋を出ようとしたその時、二人の足を「ぐわっ」と掴む者があった。
「お〜ま〜え〜ら〜〜〜!」
『ヒィッ!?』
ゾフォルが青白い顔をして立ち上がった。
「この薄情者め! もしも約束を違えたら、」
「約束なんてしてな……」
「たわけ者! お主等、呪ってやるぞ!!」
というわけで。
渋々と言った調子で、ジュサプブロスは二本のこよりを握っていた。
一本は赤く塗られており、二人でそれをひいて、赤いこよりを取った方がシャリに天罰を……食らわしに行くということになったのだ。
ゾフォルは叫んだが最後、がっくりと白目を向き、倒れてしまった。
……どうでもいいが不気味である。
「……、どちらからひく?」
エルファスが横目で嫌々ジュサプブロスに尋ねる。
「君からどうぞ?」
「……、後でこよりが二本とも赤じゃないか確かめるからな」
「……………………分かってるさ」
「何だその沈黙は! もし僕だったらそれこそ呪ってやるからな」
エルファスはそう言ってこよりに手をのばすが、腰が引けている。
「……」
だが、決心したように「姉さん……」とつぶやいて、さっとこよりを引っ張った。
「! ……ふっ、また生き残ってしまったわけか……」
エルファスがひいたのは色のついていないこよりだった。
ジュサプブロスは息を呑み、恐る恐ると言った体で握った手の平を開く。
…………赤いこよりが、その手のひらに乗っているではないか。
ジュサプブロスは我が目を疑った。
「そんな馬鹿な! 確かにすり替えておいたはず……! は、まさか!?」
彼はエルファスを指差し、悔しそうに歯噛みした。
「不正だ!」
「フッ、何のことだい?」
エルファスは素知らぬ顔。
しかし最初に不正をしたのは自分である。ジュサプブロスはゆっくりと長嘆をし、恐ろしく時間を掛けて頷いた。
「分かった……シャリに天罰を喰らわせればいいんだろう?」
「ああ。そうだとも。……言っておくけど、時間稼ぎは無駄だよ。シャリはさっきからずっと外で回ってるみたいだし。それに、もしも逃がしたりしたらルール違反で呪いを掛けるからね」
ジュサプブロスはあからさまにうんざりした表情でエルファスを見た。
「……死の呪い?」
「いや、」
エルファスは意地悪そうにニヤリと笑う。
「頭がぴかぴかになる呪いを――」
「すぐに行ってくる」
◆◆◆
「というわけさ」
「馬鹿らしい」
しみじみと語るエルファスの言葉を、ラシェルは切り捨てた。
「大体、それで何だってシャリがああなっちゃうの? 話が繋がらないし」
「いや、」
ジュサプブロスはためらうように首を振った。
「天罰ってことで帽子を取り上げようとしたらいたく抵抗してね……、まぁそれでも成功したのは良かったんだが、あの始末だ」
「自業自得じゃない」
「とにかく、話を聞く限り、その帽子が原因としか思えないんだよ」
「そんなことあるわけ――」
ラシェルが反駁しようとするのを、エルファスが痛ましい顔で遮った。
「いや、とにかくあのまま放置しておくわけにも行かない。僕たちは追いかけるよ。さ、行こうジュサプブロス」
エルファスは言うなり、少し早足に歩き出した。
「あ、ちょっと待って!」
ラシェルが思わず呼びとめようとすると、エルファスは何もないところで躓いてぺたんと転んだ。
気まずい沈黙が流れる。エルファスは震えながら立ち上がると、こっちを振り向こうと――
「あ、シャリよ!」
ラシェルは目を逸らしつつ叫んで、走り出した。
一方その頃、エンシャント、城。
豪華な調度品が立ち並ぶ、やたらと広い王の寝室。二つの人影があった。
一人は勇者ネメア。彼は優雅な椅子に腰掛け、いつものように唇を一文字に結んでいる。もう一人は宰相のベルゼーヴァで、彼は先ほどからネメアのために特別仕入れた茶菓子を出して茶の用意をし、大変うきうきと忙しく動き回っていた。
ネメアは頭痛がする様子で、というか既に何も見えなくなっているのか虚ろな目線で中空を睨んでいた。
ベルゼーヴァはそんなネメアの様子に気づかないのかついに頭が逝ったのか、心なしかその"トンガリ"ですらいつも以上にピンとのびている。
と、そこに忽然と黒い髪の、少女と見紛うような美少年が現れた。
呆気に取られ口をぽかんと開ける二人を眺め、シャリは何か名案でも思いついたかのような顔で頷くと、なぜか無意味に「そーれ!」と言ってくるりと回った。
その瞬間、ネメアの内を何か並々ならぬ感情が迸る。彼は思った。
なんだ……!? この感情はいったい何なんだ! 私は今まで何と言う無礼を……!! この高貴なトンガリのお人に!
彼は気がつくと椅子をひっくり返し、立ち上がっていた。
そして感銘を受けた様子で眉をぴくぴくと震わせ、及び腰のベルゼーヴァに近づくと、心の命じるままに膝をつき、がっくりとうなだれた。
「おお、許してくれ、友よ……! 私は、私などが皇帝などとはおこがましい。ベルゼーヴァ、我が友よ。貴公こそが皇帝の座にふさわしいのだ! なぁに、私はそこらで茶でも汲んでいよう。何も気にすることはないぞ、友よ!」
ベルゼーヴァは驚きのあまり、持っていた盆を取り落とした。
ひゅるるるるー。
ばしゃっ
盆から茶器がこぼれ落ち、ネメアの頭頂にかぶさった。当然熱々の中身は彼の毛根を直撃する。
ベルゼーヴァは先ほどとは違う衝撃に震え、一歩、また一歩と後ずさりして口元を押さえた。
「あ、あのネメア様……」
彼は我に返ったのか、頭から湯気を吹きつつ、底知れない表情でゆっくりと立ち上がると、まだ頭の上に乗っていたティーカップを振り払った。
「……シャリ……」
ゴゴゴゴゴゴゴ……
ベルゼーヴァはたちまち蒼白になって辺りを見回した。どこからともなくすさまじい音が聞こえてくるのだ。
シャリはネメアが無言で愛用の槍を構え、ずんずん向かってくるのを見ると怯えたように身をすくませた。
「え? え? 何で怒ってるの? だって、そこのとんがった人が望んでたから僕……」
ベルゼーヴァはよしんば心当たりでもあったのか、顔を紙のように白くして目を剥いた。
「そ、そんなことは断じて……!」
ネメアはベルゼーヴァなど一瞥もせず、ただシャリのみを元凶と定めたのか、全くためらわずにシャリのもとへ近づく。
シャリは一瞬恐れにか顔を引きつらせ――、逃げた。
「シャリー!!」
ラシェル・ルーは寝室に飛び込むなり、とてつもない顔をしたネメアと鉢合わせて仰け反った。
エルファスのテレポートでここまで来たはいいが、いったいこの有様は?
「ちょ、ネメア、どうしたのっ! 髪がびしょびしょ……」
とその時、ラシェルはネメアの後ろで呆けているベルゼーヴァを見て後ずさりした。
「ラシェル……」
ネメアは無言で近づいてくる。
ラシェルは肩を掴まれて青くなった。
「あれの居場所を教えろ」
「あれって、シャリのこと? 私は知らな――」
「隠し立てするのか!」
一喝されて、ラシェルは身をすくめた。
「本当に知らないんだけど……私が聞きたいくらいだし!」
「ええい、隠し立てするならラシェル、お前とて私の敵だ!」
そうとう怒り心頭なのか、ネメアはラシェルの肩をいきなり離すと、槍を構えた。
怒髪、天を――
ラシェルは濡れそぼってぽたぽたと雫を滴らせている髪を見た。
――ついてない。
「……そこまで愚弄するか。行くぞ、ラシェル!」
「いや、ごめ、だって――」
とその時、ラシェルの背にした扉が大きな音をたてて開いた。
「久しぶりだね……ネメア」
のっそりと歩み寄ってくるのはエルファスである。……額が赤く腫れているのが何とも痛そうだ。
彼は右手にシャリの帽子を掴んでいた。ジュサプーはどうやら、リタイアしたらしい(こういう勘は鋭い男だし)。
「お前は、施紋院の……」
「姉さんが、世話になったね」
エルファスは妖しい笑いを浮かべた。
……額腫れてるけど。
「エルファス、エルファス!」
「なんだい、ラシェル――そこは引っ張らないでくれ!」
「ごめん……でも今はネメアより、シャリをどうにかしないと――」
とその時、窓の外で怒号がはじけた。次いで悲鳴や剣戟の音が響き渡る。なぜか大声量の歌まで聞こえてきた。
『……』
ラシェルはエルファスと生温かい視線を交わし、無言で踵を返した。
シャリだ。シャリが何かしたんだ。
「待て、お前たち――逃がさん!」
ネメアがガッチャガッチャと鎧を揺らし、槍を硬く握り締めて迫ってくる。
ラシェルは全力で硬く拳を握り――逃げた。
広場は、混乱の坩堝と化していた。
ソリアス像がエンシャントに伝わる「ネメサンバ」を踊り狂い、対抗するように墓石がディンガダンスを踊る。鳥がオペラ歌手のような声で喚き、そこらで男女が抱き合っていたが、どうやら自分の意志ではないらしくどちらかが泣き喚いていた。
冒険者と思しき二人組みが剣舞をし、そこら中で真っ白なパイが跳ねている。武器屋からありとあらゆる種類の武器が行進して、子どもが猫になってしまったと泣き喚く女が幾人か。
思わずエルファスと二人、出てきたラシェルは呆然と顎を落とした。
「……こ、この惨状は……」
「シャリだ……」
持病の頭痛でも痛むのか、それともコブが痛むのか額を押さえ(多分後者だろうと思う)、エルファスはため息をついた。
「とにかく、シャリを探しましょう!」
ラシェルはエルファスを促して、人ごみをすり抜けるようにして走った。
「待て!」
すると背後から猛烈な勢いでネメアが追いかけてくる。ラシェルは内心大汗を掻きながら走るが、エルファスは何か思いついたような顔で頷いた。
何かと思って見ていると、彼は飛び回っていたパイを引っつかむや否や、ネメアの顔面めがけて投げつけた。
べしゃっ
広場全体が静まり返る。
立ち止まり、注目を受けた人物――ネメア――の顔から、真っ白いパイがずりずりずりと落ちた。
「あああああ……」
ラシェルは恐怖のあまり声も出ない。
普段のネメアならば、軽々とよけるなり弾くなりしたハズだが、まぁ激怒していたのと、重い鎧のせいで……だろう。多分。普段はこんなんではない、ハズ。
ネメアはプルプルと震え、一瞬静かになった後、朗々と口を開けた。
「施紋院の長よ……一騎討ちを申し込む」
「望むところだ」
エルファスは無謀にも挑戦的に笑い、彼らしくもなく目の中に炎を燃やして前に進み出た。
「ちょっとエルファス――」
「黙って見ていてくれ。シャリは後で――だからそこは引っ張らないでくれ!」
エルファスは聞かず、杖を構える。
先に動いたのはエルファスだった。彼が何かつぶやくと、魔方陣のようなものが浮き出て、髪が少し舞い上がる。
その隙を逃すまいとネメアが走った。目にも留まらぬ早さで槍を突き出し――
って、あの軌道シャリの帽子に刺さる!
ラシェルはとっさにシャリがこのまま元に戻らなかったらという恐ろしい光景を思い浮かべ、飛んでいた。
『!?』
ネメアの槍がラシェルの腰に刺さるか刺さらないかというところで、ラシェルは転がりつつエルファスの腕から帽子を奪取した。
そのまま勢いを殺せず、地面をただ転がり――、
「え」
なぜか唐突に地面の感触がなくなった。慌てて体勢をたて直そうとするが、ぽっかりと開いた穴の中に吸い込まれ、内臓の浮き上がるような感覚と共にすさまじい落下感が襲う。
舌を噛まないように歯を食いしばり、そうしているとすぐに腰の辺りを衝撃が襲った。
「つッ!」
呻いて目を開くと、暗い穴の中だった。というか、どう見てもここは落とし穴の中にしか見えなかった。
「いたた……何でこんなとこに落とし穴が……」
「ラシェルさん……」
名前を呼ばれて、腰をさすりつつ顔を上げると、
「シャリ!?」
ずっと追いかけていたシャリがいるではないか。
ラシェルは思わずシャリの手を取って逃がすまいとした。
「さぁ、この帽子を被って、とっとといつものシャリに戻ってよ」
ラシェルは言うなり、早くこの騒動に決着をつけるべく帽子を差し出した。
彼はなぜか顔を赤らめてそれを受け取ると、くるくると手の中で回す。
「ねぇ……あの、えっと……」
「どうかしたの? 早くしないと、収拾がつかないわ」
シャリはいよいよタコのように顔を赤くして、口を開いた。
「ラシェルは……」
「うん」
「あの、僕が元に戻っても……好きでいてくれる?」
好きも何も、最初からシャリを好きになった覚えなんてないのだが。
とにかく何もかも面倒になって、ラシェルは頷いた。
「えー、もちろんダイスキよ」
「ホント? ……ふふ、分かった。じゃ、かぶるね」
シャリはそう言うなり、ラシェルの手を離してそぉっと自分の頭の上に帽子を持って行く。
さー、これが終わったら、シャリに頼むなり何なりして上の騒動を何とかしないと。面倒だからネメアに任せて逃げちゃおうかな? 報酬もらえるなら考えるけど……
ラシェルがそんな風に考えていると、シャリがちょっと腕を止めて、頬を林檎のように赤くして顔を近づけてきた。
「ね、ラシェル。大好きだよ」
ラシェルは思わず凍りついた。
シャリはさっと帽子を頭にかぶる。
胸がドクンドクンと強く脈打っていた。ようやくラシェルは顔を赤くしたが、シャリはもう元に戻るんだしと言い聞かせて何とか平静をたもった。
シャリはハッとなったように辺りを見回して、首を傾げた。もう元の虚ろな感じに戻っている。
「あれ? ここどこ? 何でこんなところにいるんだっけ……」
ラシェルは内心ほっと息をついたが、微妙に残念なような気もして不思議だった。
「ラシェル? ……あれ、何でこんなところに?」
「あー、別に何でもないから気にしないで世界の破滅に邁進してください」
「あっそう。何だかよく分からないけど、ありがとね」
「いえいえー」
ラシェルは生温かい笑みを浮かべ、ぱたぱたと手を振った。
シャリは踵を返そうとしたが、何か思い出したようにラシェルを振り返り、耳元に口を寄せてきた。
「まだ僕のこと、好き?」
シャリはクスクス笑いをして、今度こそ消えた。
ラシェルは、へたり込んだ。
「ど、……どこまで本気だったのよ!」
その答えはただ、はた迷惑な帽子の主の中にだけ。
追記 ちなみに、後日システィーナの伝道師にベルゼーヴァ名義の見舞金が届いたとのことである。
END