ロストールの復興のためアトレイアを手伝って各地を周りながら、ふとシャロンは切ない思いに駆られることがある。
――どうしてこんな所にいるんだろう。
――すごく会いたい人がいるのに。
首を振ってその思いをやり過ごす。いつもそうだ。
◆◆◆
その日は満月だった。薄明かりの中、ざわざわと風が吹いている。
目の前にした焚き火が風に煽られて、シャロンの顔をぼぉっと照らした。
膝を抱えて座り、ため息を落とす。自分でも暗いなぁと思って苦笑したけれども、ある意味仕方の無いことではあった。
ずきり、と背中の火傷が痛んだ。この間、シャリとの戦いでついた傷だった。
シャロンには分からない。
シャリの企みが費え、竜王が死に、世界は平和になったと言うのに、どうしてシャリは飽きもせず、シャロンに会いに来るのだろう。
シャロンが和やかに話を進めようとしたことは、一度や二度ではない。もう何度も何度も、喉が枯れて魂まで尽き果ててしまうくらいにシャリと戦いたくないと訴えたのに、彼は全く聞こうとしなかった。そしていつも最後にはこちらへと剣を向け――
『死んでよ、シャロン』
そう口にするのだ。その言葉を告げられるたび、こちらがどんなに傷ついているかも知らないで……
ううん、
とシャロンは首を振り、強く唇を噛んだ。
あの人は他人の痛みを知ることが出来る。シャロンの痛みだって知っているはず。世界中の誰よりもシャロンの痛みを正確に理解できるのは、彼なのだから。
それなのにどうして……
その時だった。
風が、まるで泣き声のようにうなる。辺りに沈殿した闇が、その濃度を増す。
「――シャロン、どうしたの? 辛気臭い顔しちゃってさ」
からかうような声に、はっと顔を上げる。
そこに立っていたのは、今丁度考えていた人物だった。
「シャリ……」
その名前を呼ぶにだけで、シャロンの胸に鈍い痛みが走った。顔を歪めて胸に手をやり、シャロンは立ち上がる。
シャロンは相手がいたずらっぽく笑っているうちに、言葉を切り出した。
「どうして来たの」
「会いたかったから……じゃ理由にならない? シャロンって結構おセンチだよね。特別な理由が欲しいんだ?」
「――バカにしないで!」
シャロンはカッとなって、シャリを睨みつけた。モンスターも逃げ出す苛烈な視線にもシャリは全く痛痒を感じないらしい。クスリと小さく笑って、右手にどこからか取り出した剣を握った。
「――ウフフアハハ! やっぱりシャロンは怒った時の顔が一番イイよ」
シャリからにじみ出る空気が、歪に歪んだ。その空気はシャロンを押し潰し、からめとって身動きを奪う危険なものだ。
シャロンは冒険者としての反射で、つい腰の双剣を抜き放ってしまった。意思で止めようとしても、吹き付けてくる殺気に体は自然と戦闘態勢を取る。
胸を貫かれたような心地がした。とても立っていられないほどの痛みがシャロンの胸を巡る。
それを感じ取ったのか否か、シャリはわずかに目を細めた。人形のような顔が歪む。
「不満そうだね? 僕と戦うのは」
それでもどこかおかしげに。シャリは、言った。
「……どうしてこんな事続けなきゃならないの」
シャロンは自分の意思で武器を下ろそうと気を込めながら、シャリをねめつけた。彼を取り巻く殺気の渦がさらに強みを増す。いつ襲い掛かって来ても、おかしくはない。
「僕たちが争うのに理由が必要?」
「今は何の理由もないわ!」
シャロンは叩き付けるように言った。胸から込み上げる寂寥感が、目から雫となって零れ落ちそうになる。
今泣き喚いて懇願することは――そんな惨めな真似は出来なくて、シャロンはそれをぐっとこらえた。
「今は……ようやく戦う理由が無くなったのよ、どうして私たちが争わなきゃいけないの? 何の理由もないわ。私は――シャリと戦いたくない!」
何度も、何度も繰り返した言葉を、それでも口にする。
その様がシャリには滑稽に映ったのだろう。彼は少年のような笑い声を上げた。まるで何の穢れも知らない、無邪気な少年のような。
「分かってないねシャロン。これを望んだのは君だってのにさ!」
「望んだ……? 私は、こんなこと一度だって――」
「だってシャロンは、僕に会いたいんでしょう?」
――抜き身のナイフを、飲み込んだような心地がした。ヒヤリとしたものが背筋を駆け上り、シャロンは一瞬何も考えられなくなった。
会いたい、……その思いを否定するつもりはない。確かにシャロンは、シャリと会うことを望んではいた。
けれども心の奥底で本当に願っていたのは、こんな邂逅ではなかったはず。
こんな、苦痛をもたらすような邂逅では。
「本当に何も分かってないんだね。ふふ、あははは」
シャリは静かに笑った。その声は笑っていると言うにはあまりにも静かで空ろだった。
「……あなたに会いたくなかった、訳じゃない。でも、こんな風に会って戦いたいと望んでいたわけじゃない!」
シャロンは震える声で怒鳴りつけた。ただそれは怒りによるものではなく、混乱と恐怖によるものだった。思わぬ事を聞かされてすっかり心が乱れていたのだ。
彼は、そんなシャロンを見て同情するように――あるいは侮蔑するように唇を歪める。
「じゃあ、他にどんな交わり方があるの――? ねぇシャロン、教えてよ。その肩を抱いて子守唄を歌う? 口付けを交わして愛を囁く?」
シャロンは、ふざけるようなシャリの言葉に、答えられなかった。そうして欲しいと望まなかったわけではない。けれども……
彼女の心情を代弁するかのように、シャリは言った。
「――どれもこれも、呆れるくらい虚しいよ。違う? ねえシャロン、今さ、僕に言われても、そうしている姿を想像出来なかったんじゃない?」
「いい加減、分かってよ。僕たちは刃を交えることでしか語り合えないって」
――……それは、ある種の真実だった。
キン、と涼しげな音をたてて剣がぶつかり合う。シャロンは身をひねるようにして再度切りつける。
――こんな。こんな事でしか交われないなんて。
シャリがおもむろに手を振り上げると、シャロンの頭上に魔力の揺らぎが集まった。咄嗟に転がってかわすと、今さっきまで立っていた場所が雷に撃たれ焼け焦げている。
――こんな風にしか、交われないのならいっそ。
「――っ、」
シャロンは連発されたシャリの魔法を避けなかった。一筋の雷が頬をかすめ、地に深い穴を作る。
自分の頬を、生暖かいものが流れているのを感じた。
……死ぬ、わけには行かない。死ねない。どうしても。
だから今まで抗って来たけれども、……
「?」
シャリが怪訝そうに動きを止める。
シャロンは彼が気を取り直すより早く、剣を持つ手を脇に垂らして俯いた。
「何のつもり?」
シャリが不思議そうに聞く。シャロンは顔を上げた。
脆弱な心が耐え切れず溢れた涙が、頬を濡らしている。どこまでも透明な視線をシャリに向け、ただ一言、聞いた。
「もし――もし私が死んだら、シャリは私のことをずっと忘れないでいてくれる?」
「――」
シャリの顔から表情が消えた。そのまま、黙り込んでしまう。
……当然か。
俯く。
バカなこと、言っちゃったな……
しかしシャリはこちらと目を合わせないまま、驚くべきことを口にした。
「忘れないでいて欲しいの?」
目を、見開く。
慌ててうかがったシャリの顔には、何の表情も浮かんではいなかった。
胸がひどく痛くて、シャロンは剣を捨てて胸の辺りをぎゅっと掴んだ。
「私は……ただ……他に、どうすればあなたと関われるのかと思って……私が死んだら……そうしたら……」
言いながら、羞恥で耳まで熱くなった。
なんて自分勝手なんだろう。
シャリが一度死んだ時――あの時、シャロンは身を切られるほど辛かったのに。それなのにどうして同じ痛みを、シャリに背負わせることが出来るだろう。
……でも。
シャロンはシャリの顔をうかがった。髪を風に吹かれるまま任せ、口元にわずかな笑みを刻んでこちらを見ている。まるで本当に人形そのものだった。
――でも、シャリには痛みがない――
シャロンは青ざめた。
今、私、何て考えた!?
シャリが哄笑を上げた。と思った瞬間、立ちすくむあたしの目の前にシャリの姿があった。転移したのだ。
シャロンはシャリが何か言う前に口を開いた。
「……殺して……」
ひそやかなつぶやきがもれる。ぽろぽろと涙がこぼれた。自分がこんなに情けない人間だったなんて信じられない。シャリに切り捨てられて当たり前だと思った。
けれどもシャリは、そうはしなかった。
「もう諦めちゃうの?」
微笑みをたたえて、そう口にする。
シャロンはシャリを抱きしめたい衝動に駆られた。けれどもそれは、今の下劣な事を考えた自分には出来ないこと。……身を引いて、掌をぎゅっと握り締める。
「遊びはもう終わりかな?」
シャリはおもむろに、剣を振り上げた。
シャロンはその時、分かった。彼は躊躇しないだろうと。ここで自分を殺す気なのだと。
けれどもシャロンは、不思議とシャリの手に掛かって死ぬのなら、それも……いいかも知れないと思い始めていた。
ただ最後に伝えたいことがあるとすれば。
シャロンは剣が突き刺さるその瞬間、つぶやいた。
「大好きだよ、シャリ」
そうして、シャロンの意識は闇に堕ちた。
◆◆◆
朝日がまぶしい。
気がつくと、シャロンはベッドに横たわっていた。寝ている間に泣いたのか、目の周りが熱くてはれぼったい。
ここは……
見回すと、どうやら近くの町の宿のようだった。
「起きたのかい?」
パタン、と扉が開き、恰幅のいい店の主人が顔を出した。
シャロンはぼーっとしたまま首肯する。
「あの……ここへは誰が運んでくれたんですか?」
「さぁねぇ。朝起きてみたら、ドアの前であんたが倒れてたんだ。お代らしきギアと一緒にね。これは訳アリだなと思って運び込んだんだが」
主人は、シャロンの顔色をうかがうような視線で見る。
「そう……迷惑を掛けてごめんなさい」
主人は鼻を鳴らし、出て行く。
シャロンは不意に胸の痛みを覚えてうずくまった。
どうして生きているのだろう。
どうしてシャリは殺さなかったのだろう……?
答えは出ない。けれどもシャロンは、意図的にシャリは自分を生かしたのだと感じていた。意図的に……あの時シャリはシャロンを殺そうとした、けれども何故か殺すのをためらった……生かした?
シャロンははっとした。
シャリは生かしてくれたんだ。
シャリはシャロンを殺さなかった。……生かされた。
ぽろぽろと、まるで昨日の痛みが全部流れ出るかのように涙がこぼれた。
シャリが生きろと、言ってくれたんだ。
胸がじわりと温かくなる。
……せっかくシャリが与えてくれた命。
シャロンのやるべきことは一つだ。
……絶対に諦めない。生き抜いて見せる。彼のためにも自分のためにも。
立ち上がる。こうしてはいられない。一分でも一秒でも無駄になんて出来ない。シャロンはベッドサイドに置かれていた検帯を腰に巻き、そこからいつもの双剣を吊るすと、部屋を飛び出した。
シャリが生かしてくれた命なら、まだ無駄にする訳に行かない。今度シャリが来ても、自分は絶対に殺されない――諦めないだろうと思った。
走り出す。
振り返ることは、しなかった。