木漏れ日が少女の顔を照らす。
うららかな春の日。太陽はすでに高く上り、さわさわと木の葉がこすれて、耳に心地よい音を奏でる。それに小鳥やリスたちが戯れるような声を合わせて、合唱しているかのようだった。
そんなさわやかな森を、一人の少女が歩いている。少女の髪は黒く、短いが光を受けて伸びやかな光を放ち、クロースから覗く手足はすらりと長く、頬は薔薇色に染まっていた。
まだあどけないところがあるのにも関わらず、その姿は凛としており、その気高さは、たとえ手に水汲み用の桶を抱えていようと、それを重そうにずるずると引きずっていようと代わりはない。
ないったらない。
彼女は名前をリヒトと言った。旅商人の父を持ち、義理の妹が一人いる。
リヒトは別れ道を迷うことなく右に進んだ。この先には湧き水がある。この辺りで野宿するたびに、世話になる。
やがてリヒトは立ち止まる。足元に、リスが水浴びできる程度の、平べったい石をいくつも並べて作ったような溝がある。その上をどこまでも澄んだ水が絶え間なく流れていた。
リヒトは顔をほころばせた。一点の曇りもない水流が大好き。かがんで桶を傾けて置くと、水が桶の中に勝手にたまっていく。
早く水を汲んで、持っていってあげなきゃ――、……?
リヒトは何か、言い知れない気配のようなものを感じて振り返った。すると、ずいぶん遠くに少年らしき姿がある。
「人……?」
何気なく口にだしてつぶやいてみる。近づくにつれその人影が、どうやらまだ年若い少年であることに気づいた。
輝かんばかりの黒い髪を長くのばし、黒を基調にした見たこともない服を着ている。顔立ちも、この辺りではなかなか見かけないものだったが、そんなことは全くなんの問題にもならないほど、その作りは整っていた。
だがリヒトの胸に冷たいものが走った。あまりにも計算されつくしてできた顔のように見えて、何か自分とは『異質』なものがあるような気がする。
しかし、そんな不気味さも、リヒトは首を少し振ってやり過ごし、自分の仕事に戻った。桶を上げて、よっこらせと持ち上げ――とちょうどその時、いつの間にか先ほどの少年がリヒトの真横を通った。
リヒトの心臓が大きく跳ねた。勝手に腕に妙な力が入り、リヒトは気がつくと桶を放り投げていて、冷たい水が迫って――
「っ……」
……こなかった。
リヒトは切れるように冷たい水の感触を想像して目をつむったのだが、その感触はいつまで経ってもおとずれなかった。リヒトは意を決してそろそろと目を開ける。すると、桶は確かにリヒトの手を離れたのにも関わらず、きちんと地面に置かれていた。
リヒトはつい、何度も目を瞬き、自分の目をゴシゴシとこすった。しかし不意に、もう一人、水をかぶりそうになっていた者がいるのを思い出して、さっと青ざめて振り返る。
すると秀麗な面立ちの少年が、後ろで手を組み、珍獣でも見るかのようにしげしげとリヒトに視線をやっていた。黒目の大きい瞳が、きょろきょろと動いている。
リヒトは顔が熱くなるのを感じた。そして、慌ててしどろもどろで口を開く。
「ご、ごめん。大丈夫……か?」
少年は、リヒトがしゃべったのに驚いた様子だった。しかし、癖なのか、すぐに多少いたずらっぽい笑顔を浮かべて小さく頷く。
リヒトは安堵のため息を吐き、それからさっと頭を深く下げた。
「すまなかった。私は、その……いや、人が来たものだからびっくりして……いや、それは言い訳だな。
とにかく、あなたには申し訳ないことをした。大事がなかったから良かったものの、風邪でもひいたら……何がおかしいんだ? 風邪は侮れないと思う。とにかく良かった」
そんな風に謝ると、少年は何を思ったのか、声を上げて笑い出した。
「アハハ、別にそんなに気にしなくってもいいよ。ねぇ、お互い無事だったんだし」
寛容な言葉だと思ったが、リヒトは強い否定でもって首を横に振った。ぐっと拳を握り、真摯に少年を見つめる。
「いや、それでは私の気がすまない。どうだろう、よければ、お詫びに食事に招待するが」
少年は、それを聞くとさっと目を丸くして、次いでやはりおかしそうに口元をゆがめた。
シャロンは断られそうなのを感じて、ひそかに少年の服のすそを握った。
「悪いけど、フフフ、僕も暇じゃなくてね。やらなきゃいけないことが山積してるんだよ。だから、悪いんだけど……」
少年はその後に続けて、何か小さくつぶやいたが、そのつぶやきは小さすぎてリヒトの耳に届かなかった。
なので、リヒトはそれを聞かなかった事にした。
「なら、このままあなたに借りを残したまま別れろと? 私の父は商人なんだ。父の口癖を教えてやろう。
いわく、『何がなんでも借りだけはすぐに返せ。つけ込まれる前につけ込め』」
リヒトが拳を握って力説すると、少年の笑顔が微妙に引きつった。
「あ、そう。……でも、ホントに、ほら、家族の間に入るのも野暮だしね?」
「困ったな。わがままな子だ。じゃあどうしろと言うんだ?」
リヒトが唇をまげて言うと、少年はさらに顔を引きつらせ、「どっちが……」とつぶやいたが、リヒトが聞き返すと慌てて否定した。
「とにかく、本当にいいから、……」
少年は立ち去るような素振りを見せるが、リヒトが服のすそを掴んでいるのに今初めて気づいたかのように自分の服を見下ろし、困惑した様子でリヒトと見比べる。
リヒトはなんとなく頷いて、大丈夫だと示した。だが、少年は別の意味に取ったのか、うんざりしたようにため息をついた。
「やれやれ、君ってホント強引だね。分かったよ。でも、食べるならここで、二人きりでにしよう。それならいいから」
「本当!?」
リヒトはようやく取れた承諾に舞い上がり、十回近くも頷いてしまった。
「ちょっと待っていて。竜王よりも早く飛んで行くから!」
「そりゃ頼もしいね」
「絶対、逃げないでね!」
「はいはい」
リヒトは全速力で駆け出した。
リヒトが野宿している場所まで戻ると、妹のルルアンタがぷーっと頬に空気をためて眉を吊り上げ、仁王立ちしていた。はっきり言って迫力はない。
「おーそーいー! どうしたの? ルルアンタ心配しちゃったよ」
「何かあったのかい?」
父が尋ねる。リヒトは大急ぎでランチセットを布に包むと、うんしょと持ち上げた。
「ど、どうしたんだ? あわただしいが……」
「すまない、借りを返そうと思ったんだ」
あまりの早業に驚嘆していた旅商人の父は、リヒトの言葉を聞くとたちまち真顔になり、全てを了承した顔で「グッジョブ」と親指を立てた。
「ありがと。じゃ、行って来ます」
リヒトは振り向きもせずにまた駆け出した。
「あ、ちょっとリヒト、リヒトってばー! もう、フリントさんの馬鹿馬鹿!」
リヒトは駆け戻りながらも、あの少年は消えてしまっているかも知れないと考えていた。なんとなくそんな雰囲気が彼にはあったのだ。蜃気楼の少年。うん。ぴったり。
リヒトが走るたびに食器がこすれて耳障りな音を立てる。息がはずむが、リヒトは気にもならない。
果たして、少年はそこにいた。彼は光に包まれているように見えた。小鳥が彼の指にとまり、何もかも、時間ですら彼の前では素通りするような気がした。彼は小鳥と何か話しているようにすら見えた。
リヒトは、はっと息を呑んで足を止め、少年の様子に見入った。
……しかし、それも長くは続かず、少年がリヒトの方を振り返り、にっこり笑う。そして近づいてきて、リヒトの抱えた包みをやはりものめずらしそうに眺めたあと、リヒトを見て微妙に申し訳なさそうな顔になった。
「悪いんだけど、これから出かけなくちゃならなくなったんだ。ごめんね、リヒト」
リヒトはがっかり肩を落として「そうか」と頷きかけ、動きを止めて目をぱちくりさせた。さっと少年の顔を見て、首を傾げる。
「え? 私の名前……」
「さっき自分で言ってたでしょ? 覚えてないの? いやだなぁ。くすっ」
リヒトはそうだったかと記憶を探ったが、有益そうな情報は見つからなかった。不可解で眉をひそめ、考え込んでいると、少年はリヒトの手元を指差し、
「せっかく用意してくれたのに、大変申し訳ないんだけど」
と続ける。
リヒトは思わずランチセットを取り落としてしまった。カシャン、と布がほどけて食器とサンドイッチが転がる。
「あ、えっと、その――」
リヒトは慌ててかがむと、手早く布の先を引っ張ってまとめ、再び立ち上がった。なにかものすごく恥ずかしくなって、その包みを体の後ろへやった。が、そんなことで隠れるはずもなく、しかも雑にまとめたのでかなりいびつだ。
「別に、一人で食べるからいい……気にしないで」
リヒトは強がった。
少年はしばらくリヒトの顔を見つめ(リヒトは思わず目を逸らしてしまった)、それから「じゃあ、ホントにごめんね」ときびすを返す。
リヒトは気配が去るまでうつむいて動かないつもりだったが、はっとあることに気づいて顔を上げた。
「あっ、ねぇ、名前っ、あなたの名前、聞いてない!」
少年は肩越しに振り返った。そして笑う。
「心配しなくても、そのうち知ることになるよ。……うんざりするほどね」
リヒトが目を丸くする中、少年の姿は、まるで最初からそこになどいなかったかのようにすっと掻き消えた。
リヒトはゆるゆるとへたり込んだ。
END