肌を焦がす夏の光が、容赦なく照りつける。何かを隠すように鬱蒼と生い茂った木々が見渡す限り広がり、まだらな光が地面に落ちていた。
シャロンはそんな中を、獲物を狙う獣さながらの足取りで進んでいた。
ふと立ち止まって、袖で汗をぬぐう。
冷たい氷のような色の髪が、肩の辺りで鋭く切りそろえられている。肌は火照って疲労の色を強く示しているが、瞳は激しい気性を示すように前を見据えて動かない。
彼女――シャロンは緑のクロースの上に、まだ新品同様のブレストプレートを装備していた。腰にぶら下がった剣も何となく頼りなさげに揺れている。
その鍔元を無意味にいじりながら、シャロンは再び歩き出した。
暑い。喉が渇く。来るんじゃなかった……
これから分け入ろうとしている山は、強力なモンスターが出る事で有名で、ロストールの軍ですら入るのを渋るほど御しがたい地だ。
そんなところになぜシャロンがいるのかと言えば、兄のレムオンに『新月草』とやらの採取を頼まれたからだった。何でも、知り合いが病気で、その草がどうしても必要らしい。
実際、シャロンに頼むのは苦肉の策だったようで、兄の眉間にはいつも以上に深い皺が刻まれていた。それにしても、すでにあの皺は顔の一部と化しているような気がするのだが気のせいか。
その真偽はともかくとしても、そう頼まれればシャロンとて引き受けるのにやぶさかでない。まぁロストールから歩いて三日ほどのところにある山だし、わざわざ仲間を呼ぶ必要もないだろうと思って一人で来たのだが、この暑さは予想外だった。
無事に終わればいいが、とシャロンは自分の腰ほどにもある草を切り落として、ため息を落とした。
そして見事に迷った。
シャロンは足元に落ちる影が突然暗くなったのを見て、日が完全に沈んだ事を悟った。空では闇が不気味にうごめき、周りの樹木はしんと静まり返ってシャロンを包囲している。
すでにどっちが北か南か、それすらシャロンは見失っていた。
だが、まぁ、どうにかなるだろう。
シャロンは楽天的にそう考えて、疲労の濃い頭を振った。枯れて落ちた枝を拾い集め、火をつける。ぼおっとした明かりが夜闇を照らした。
シャロンは手をこすり合わせて暖を取ると、やがてウトウトと船をこぎ出した。白い顔が炎に照らされる。
だが、事態はシャロンを寝かせてなどくれなかった。どこかから、鼓膜を引っかくようなけたたましい音が響いてくる。はっと息を呑んで、シャロンは剣に手をのばした。
この、何度も鉄に鉄をぶつけるような音は――
誰かが、この近くで戦っている。
ようやくその事実に思い至ったシャロンはさっと立ち上がる。敵の気配をうかがう獣のように息をひそめ、微動だにしない。
――あっちか!
シャロンは悲鳴と爆音の轟いた方向に見当をつけ、駆け出した。
むっとするような血の臭気が漂っている。濃密な殺気に、思わずシャロンの足はすくんだ。
できるだけ茂みを揺らさないように近づき、闇の中、目をこらす。シャロンは手のひらに生温かいものを感じて、ふと足元を見た。
血だ。
思わず悲鳴を上げそうになったシャロンは、慌ててもう片方の手で自分の口をふさいだ。表情が凍りつき、息が荒い。
そして息を整えると、音をたてないように剣を抜いた。鞘走りの音がやけに大きく聞こえる。
静かに目をこらし、四方に気を配りながら、茂みから出る。歩いていくばくも行かないところで、盛り上がった何かが倒れていた。
思わず腰が引けそうになるのをぐっと我慢して影に顔を近づける。
男だった。白目を剥いて、体中から血を流して死んでいる。野卑な顔立ち。髭が顔中を覆って、すでに顎の位置もどこなのかよく分からない。腰に下がった剣と言い、どう見ても山賊か何かだった。
「いったい、誰が……」
恐る恐る手をのばして傷口を確かめるが、何か鋭い刃のようなもので全身を切り刻まれており、どれが致命傷とも言えない。剣を抜く暇もなかったらしい。
シャロンは顔を上げた。そこかしこに、同じような有様の死体がゴロゴロしている。明日の朝になれば、ここは蝿の餌場になるに違いない。こんなに血の匂いがしていては、モンスターだってやってくるだろう。
シャロンはその様子を想像して、少し死体を哀れんだ。
しかし、それにしてもいったい誰がこんなことをしたのだろう。……いや、それよりもむしろ、どうやって? ここに転がっている男達は武装しているし、ガタイだっていい。そう簡単にやられるわけがない。それも、こんなにあっけなく。
それにこの残酷さはどうだろう? こんなことができるのは、人外の化物か、それとも冷酷な――
とその時、草を踏みしめる音が響いた。
ハッと顔を上げ、シャロンは追い詰められた兎のように素早く立ち上がると、じりじりと後じさった。
「生き残りがいたのかと思えば……」
白い顔が闇に浮かび上がった。
シャロンは身の凍る思いでそれを見て、――いや、見覚えがある。この声といい……顔といい……
だが喉の奥に何かが詰まったように、名前が出て来ない。シャロンは訳の分からない声を上げて剣の鍔を握り締めた。
もう一歩、影が近づいてきて、シャロンはようやく声を出した。
「しゃ……シャリ!?」
「覚えててくれて、嬉しいよ」
シャリは蝋細工のように白い手を口元に添えて、小さな笑い声を上げた。
細い体に黒い布をまとって、頭の上にちょこんと帽子を乗せている。完璧すぎて作られたような印象しかない輪郭を縁取る髪は、塗りつぶしたように黒かった。
シャロンは夢か幻に会ったような顔で口を開け閉めし、剣を収めていいのか向ければいいのか分からずに顔をしかめる。
この少年は、シャロンの仲間のエステルをさらった。あの時以来、シャロンは勝手にこの少年を最悪の敵と見定めている。
「そんなに怖い顔しないでよ。今にも襲いかかってきそうだよ?」
「今、その件で迷ってたところ」
シャロンはすぐに答えて、無意味に剣の先を辺りの惨状に向けた。
「これ、あなたがやったの?」
探るような目を向けると、シャリはおどけるように肩をすくめた。
「そうだって言ったら?」
だんだん闇に目が慣れてくると、シャリが返り血一つ浴びていないのに気づいた。以前に会った時と変わらず、澄ました顔でこっちを見ている。
シャロンの背筋をぞっと冷たいものが這った。
「……何のために?」
「僕は何で君がこんなところにいるのかの方が不思議だけどね」
シャリは親しみすら感じさせる声で聞く。
シャロンは色々な事が馬鹿馬鹿しくなり、疲れたように剣を収めた。どうせあっちが殺す気なら、とっくに殺されていてもおかしくはない。
何せ、この惨状を――
シャロンは辺りに目を走らせた。まさしく死屍累々と言った景色。
――返り血一つ浴びずに作ってのけるような奴だ。
だからシャロンはシャリのことを捨て置いて、焚き火まで戻ろうと歩き出した。
まさか無視されるとは思っていなかったのか、シャリは慌てたように追いかけてくる。
「ちょっと、ねぇ、どこに行くの?」
「どこに行こうと、私の勝手でしょう?」
シャロンは茂みをかき分けながら、半ばヤケになって答えた。
「あなたに話さなきゃいけない理由なんてないし。しかもタダで」
「……うっわ、クールだなぁ」
シャロンは茂みをかき分ける手を止めて、むっと振り返る。
「そもそも、何でついて来るのよ。あなたには関係ないでしょ?」
「夜道の一人歩きは、危ないよ。ほら」
シャロンはシャリの指差した方向を見た。低い羽音と共に、一匹のクィーンワイプが向かってくる。シャロンは小さく悲鳴を上げた。
その瞬間、渦巻く雲を引き裂いて一筋の雷光がほとばしる。ほんの刹那、周囲が昼間のように明るく照らされた。
「……っ」
シャロンはひきつけを起こしたように身を強張らせ、恐る恐る、ぶすぶす煙を上げる何かを覗きこんだ。さっきのクィーンワイプが、太った下半身を痙攣させて、転がっている。
髪の毛の焼けるような、鼻が曲がりそうな匂いが鼻腔を突く。
シャロンは思わず鼻を押さえ、シャリを振り返る。彼は素知らぬ顔でシャロンを見ていた。
目が合う。
「……嫌がらせ?」
「……助けたつもりなんだけどな、これでも」
シャロンは迷惑だと言わんばかりに腕を振って、ずんずん先へ進み、――背後から次々立ち上がる羽音に青ざめた。
おっかなびっくりもう一度背後を見ると、今の閃光ですっかり目が覚めたのか、クィーンワイプの大群がこっちを目指して迫ってくる。羽音が次第に大きくなっていった。
シャロンは大きく息を吸い込んだ。
「やっぱり嫌がらせじゃない!」
「あ、アハハ……」
「責任取って全部撃ち落としなさいよ! バカバカバカ!」
シャロンは目に涙を浮かべて走り出した。
「どうして追いかけてくるのよっ……!」
「その匂いで分かるんじゃない?」
シャロンが後ろを振り向きつつ嘆くと、なぜかまだ隣を走ろうとするシャリが、悪びれもせずに言った。
慌てて自分の服に鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、……確かにさっきの強烈な匂いがしっかり染みついている。シャロンは叫んだ。
「やっぱりあんたのせいじゃないっ!!」
シャロンは肺が焼き切れそうになるほど走って、走って、走りまくった。
――そして。
シャロンはズズズと鼻をすすって、恨みがましく、隣を歩くシャリを睨んでいた。
木立の合間から月明かりが覗く。虫食いだらけの落ち葉の上に、服からぽたぽたと雫が落ちた。
シャロンはもう一度、これ見よがしに鼻をすすった。
「あ、でもさ」
取り繕うような明るい声に目を向けると、シャリが名案を思いついたような顔でにっこりした。
「まさか水の中に飛び込んで匂いを消すなんて、考えたよね。感心しちゃうな僕」
「心にもないこと言ってないで、とっととどっかへ消えなさいよ、この疫病神」
シャロンはずぶ濡れになった髪をしきりに梳かしながら愚痴った。服が肌に張り付いて、気持ち悪いったらない。まぁこの季節は夜でもあまり冷え込まないので、すぐに乾くだろうが。
「どこまでついて来る気よ。何? 今度は熊の大群でも呼んで来てくれるの?」
痛烈な嫌味を言ってやるが、シャリは全く応えた様子もなくうなずいた。
「危ないよ。こんなところを一人で。さっきも聞いたけど、何をしにこんなとこまで来たの?」
シャロンは内心、よっぽどシャリと居た方が危険だと思ったが、口には出さなかった。もう抗弁するのも面倒だったので、適当に「探し物」と返しておく。
シャリは気のない相槌を打って、問うような視線を向けてきた。
シャロンはあまり気が進まないどころか全く気が進まなかったが、後がうるさそうなので渋々口を開いた。
「薬草を取って来いって頼まれたの。新月草」
シャリは不思議そうに薬草の名前を繰り返し、眉根を寄せた。
「そんなもの、いったい何に……ああ。君のお兄さんに頼まれたんだね?」
「そうよ。それが何?」
「で、見つかった?」
シャロンは蛇に脅された女のように身を強張らせ、視線で人が殺せるものなら三十回は殺せるような目でシャリを見た。
「……見つかったら、こんなところほっつき歩いてないでとっとと帰るわよ」
「だろうね」
「ふざけてるの?」
「そんなわけないじゃないか」
シャロンはフンと鼻を鳴らして、とっとと焚き火のところまで戻ろうと足を進め――ようとして、腕を掴まれた。ひんやりした感触に身震いし、胡乱な目でシャリを見やる。
彼はいつになくいたずらっぽい目でシャロンを見上げている。
「何?」
「君が望むなら、連れて行ってあげるよ。新月草のところまで」
シャロンはハッとして、しげしげとシャリの白い顔を見た。
「知ってるの?」
「うん、まぁね。で、どう?」
シャロンはちょっと考えて、首を横に振った。
「こんな夜遅くに遠くまで行けないわ」
シャリは小さく笑みをもらし、シャロンの腕を掴んだまま頭上を指差した。
「たまには月明かりの下を散歩っていうのも、いいもんだよ」
シャロンはそれを見上げながら戸惑って、押し黙った。
実際、最初っから迷っていたわけだし、薬草の手がかりもない。あんまり遅くなったりしたら、心配のあまり兄は一人でここに乗り込んでくるかも知れない。彼はそういう気性の人だった。
そんなことになったら、困る。盛大に困る。
結局、受け入れるしかないのか。
シャロンは絶望的な吐息をもらした。
「……分かった。案内してくれる?」
明らかに渋々、と言ったニュアンスを込めて言ったのにも関わらず、シャリは普段と全く変わらない笑みを浮かべて、前を歩き出した。シャロンはその後について歩きながら、少し目を伏せる。
シャリの目的はいったい、何なのだろう。
「で、最近はどう? 少しは強くなった?」
シャロンは物思いから顔を上げて、シャリの背を眺めた。足取りには危なげというものが全くなく、まるで芝居を見ているような気さえする。
「……少しは」
少し自嘲気味に答えると、シャリの笑い声が茂みをかき分ける音に混じった。
「何がおかしいの?」
「別に」
ジロリと睨んでやるが、シャリは何事もなかったかのように、ぴたりと笑いを止める。
シャロンは溜まっていたものを吐き出すように息を吐いて、うつむいた。
何となく、シャリは自分を敵だと思っているような気がする。別にとげとげしい言葉を使うわけでもないし、そうしばしば攻撃を仕掛けてくるわけでもないが、やはり敵扱いされていると思う。
シャリの態度の裏には、自分への埋まらない溝があるような気がするのだった。だから彼は、シャロンに対してああもあっけらかんとした態度を取るのではないか。
そしてシャロンがシャリを敵と思うのも、同じ理由な気がする。立場以上に、何かが二人の間に横たわっているような。
そこまで考えて、シャロンは馬鹿馬鹿しいと考えを振り払った。
でも。
でも、もしも、敵でなくなる時が来たのなら――
「シャロン」
弾かれたように顔を上げると、シャリが手を差し出していた。
風を受けた髪が、さらさらとなびいている。彼は微動だにしなかった。
「……なに?」
弱弱しい声で答える。シャロンはそんな声を出した自分がどうしても許せず、顔を背けた。
「心配しなくても、転んだりしないわ」
「違うよ。はぐれたら大変でしょ?」
シャロンは地面に転がっている、やたらと角ばった石を眺めていたが、突然手の平を掴まれて息を呑んだ。
「ねぇ、一緒に歩くなら、手はつながなきゃ駄目だよ。そうじゃないと、別々に歩いてるのと変わらない。でしょ?」
「……シャリ」
シャロンは思わずその名を呼んだが、その声は掠れたように細く、風と一緒に掻き消えてしまった。
「さて、もう少しかな?」
顔を上げると、シャリは微笑んでいた。
「行こう」
促されて、シャロンはようやく歩き出したが、その心臓は音が外に聞こえるのではと思えるほど高鳴っていた。
「こんな風に居られればいいのにね。ずっと……」
シャロンはひっそりとつぶやいた。
樹木の影から覗くと、闇の下にひっそりと小さな花が咲いていた。色は純白で、今にも風に吹き飛びそうな華奢さだった。
「あれが君の探していた、新月草さ」
シャロンはむっつりと押し黙ったまま、険しい顔でソレを見ていた。
「どうしたの? もうちょっと、嬉しそうな顔をしたらどう? フフッ」
かなり寒い。びしょ濡れのまま来たせいで、予想以上に冷える。これは明日、風邪をひくかも知れないなとシャロンは思った。
「取りに行かないの?」
シャロンはようやく、隣の木にもたれかかるシャリに視線を飛ばして唇を噛んだ。
「あのね、行けるわけ、ないでしょ……!」
声をひそめて、シャロンはソレの方に顎をしゃくる。
すなわち――花を守るように横たわっている、ロックスリンガーの方に。今は眠ってるのか死んだみたいに動かないが、時折寝返りのように動くので、そのたびにシャロンは身を引こうとしていた。
ロックスリンガー……
主に洞窟の奥などを根城にする凶悪極まりないモンスターだが、何でこんな山の中にいるのかがそもそも分からない。誰かの陰謀としか思えない。
シャロンは地団太を踏みたくてたまらなかったが、それをして相手を起こしてしまう危険を冒してまで自分の苛々を解消しようとは思わなかった。
「どうすればいいのよ……」
爪を噛んで言うが、シャリはのん気に「さぁ?」と肩をすくめるばかり。
シャロンはきっと顔を上げた。
「もういいわ。明日、朝になったらまた来ればいいだけだし――」
「道、覚えてるの?」
「……じゃ、じゃあここで野営して、」
「モンスターの目の前で? 言っておくけど、僕は残念ながら付き合えないよ」
言葉の内容と裏腹に、そっけないシャリの声。シャロンは胸のムカつきを抑えて、ゆっくりと深呼吸した。
落ち着いて考えれば、何か解決策が浮かぶハズだ。解決……
が、大した考えは思い浮かばなかったので、シャロンは肩を落とした。
今、ここで何とかするしかない……か。
決断してしまえば、後は早かった。
シャロンはそろりそろりと、地面に落ちている石を広い上げ、両手に抱え持った。ひんやりしている。
「どうするの? それ」
シャリが大して興味もなさそうに首を傾げるが、シャロンはきっぱりはっきり無視して、それをロックスリンガーの向こう側に投げた。石は樹木にぶつかり、跳ね返ってロックスリンガーの頭に直撃する。
すごく痛そうな音が響いた。
「お、見事命中したね! で、これからどうするの? 怒ってるよ〜」
シャリに言われるまでもない。ロックスリンガーは立ち上がるなり憤慨したように唸り声を上げ、辺り構わず、手に持った岩で殴打し始めた。ドスンドスンと大きな音が響き渡り、鳥でも落ちたのか何かの落ちるような音が断続的に響き渡る。
シャロンは木の影にそっと身を隠し、少し震えながら音が終わるのを待っていた。
しばらくするとロックスリンガーは気が済んだのか、再び横たわって寝入り始めた。
「……何でどかないのよ。場所を変えようとか、犯人を探そうとか、思わないわけ?」
シャロンは意味もなく文句を言って、足元の石を蹴飛ばした。
『あ』
シャリとシャロンの声が重なる。石は運悪くロックスリンガーの頭にぶつかった。
シャロンは慌てて身を隠し、ロックスリンガーが怒り狂って辺りの木々をなぎ倒そうとする無駄な試みが終わるのを待った。
しばらくすると、ロックスリンガーは気が済んだのか以下略。
シャロンは苛々と舌打ちして、「やっぱり朝まで待った方が良さそうね」とつぶやいた。シャリがすぐさま食いついてくる。
「帰り道も、戻る道も分からないのに? 言っておくけど、新月草が生えてるのはここだけだからね。さぁ、どうする? シャロン」
「さっきから、うるさいわよ。ちょっと、黙ってて」
シャロンは身を低く落として、茂みの影からロックスリンガーの様子をうかがった。
餌で釣るとか……駄目。ロックスリンガーの好物って人間だもん。
おとり作戦……シャリが引き受けるわけない。
戦って倒す……論外。今のシャロンじゃ自殺行為。
……駄目だ。何も思いつかない。
シャロンが頭をかきむしっていると、横から声が飛んだ。
「聞かないんだね?」
シャリがいつの間にか隣に来て、茂みの前で腹ばいになっている。そのくつろいだ様子に、シャロンは乾いた笑みを浮かべた。
「何が? どうしてあなたを追い払わないのかって事? それは――」
「そうじゃなくて、」
シャリはくだらない話を一蹴するように、ヒラヒラと手を振った。
「さっきの死体のこと」
「山賊退治のこと? いい事じゃない」
シャロンは何気なく答えた。冒険者をして数ヶ月もすれば、死体だってそう珍しいものじゃない。
……シャロンはそこで初めて、自分の感性が歪みつつあるのを自覚した。でも仕方がない。冒険者でいる限りは。
シャリはそんなシャロンの思考など意に介さず、明るい笑みをたたえた。
「……そうかな。何か別の目的があったのかも」
「関係ないわ。私には」
そっけなく答える。本当にどうでも良かった。シャリとは対立する時が来るのかも知れないが、それは恐らく今ではない。それが分かる。
シャリの抑えた笑い声が響き渡った。無邪気、としか形容できない、年相応の(少なくとも外見上の年相応の)笑い声。シャロンは思わず眉尻を下げた。
「君のそういうところ、好きだよ」
「嬉しくない」
「そうだろうね。そう言うと思ったよ」
ぶっきらぼうな声を出しても、シャリの明るい声に変わりはなかった。シャリはいつでもそうだ。感情を乱した場面など見た事がない。
「追い払ってあげようか」
シャロンはそう言われて初めて、正面からシャリの視線を受け止めた。虚を突かれたような顔で、
「本当?」
「うん。でも、一つだけ約束して欲しい事があるんだけど」
シャロンは用心深く、それは何かと尋ねた。
「僕達は敵同士だよね?」
「そうね」
「僕を殺したい?」
「……別に」
「おかしいよね。戦う理由がなければ、こうやって並んでられるのにさ」
「そうね……」
シャロンは思わず、顔を背けた。
「じゃあ、戦う理由がなくなったら、」
シャリは珍しく、言いよどむように一度口を閉じた。
「なくなったら?」
シャロンが静かに促すと、彼は首を横に振った。
「……フフッ、今日は楽しかったよ。シャロン」
シャリはゆっくり立ち上がった。自然、見下ろされる形になる。
「次に会った時は敵だろうけどね」
シャリはふと視線を月にやって、冷たい声でそう言った。
「……じゃあね、シャロン。またね」
シャロンが止める間もなく、シャリは素早く茂みから出て、一つ指を立てた。夜空を切り裂いて、ロックスリンガーのもとに稲妻がはじけた。
悲鳴が虚空を揺らし、次の瞬間、ロックスリンガーは怒りの雄たけびと共にシャリの姿に向かって岩を放った。
シャリはのらりくらりとそれをかわし、笑みを絶やしもせずにからかうような声をもらしている。
ロックスリンガーは言葉が分かったわけでもなかろうが、馬鹿にされているのは感じ取ったらしく、ますますいきり立って、少しずつ後退するシャリの後を追い始めた。岩を投げ、落ちた鳥を投げ、終いには倒れた木々を持ち上げてぶつけると言った離れ業を披露し、だんだんと遠くなって行く。
やがてその音も遠くへ消え、シャロンは一人取り残される。
気味が悪いほど静まり返った中、シャロンはそろりと立ち上がって、辺りを素早く確認しながら花に駆け寄った。まるで大事に守られる姫にも似た、小さな白い花。もしかしたら、あのロックスリンガーは風や鳥からこの花を守っていたのかも知れない。
そう思うと少し良心がとがめたが、シャロンは思い切ってそれを周りの土ごと引っこ抜き、袋の中に詰めた。下山するまで保てばいいが。
立ち上がる。シャロンはしばらくその場で待ったが、いつまで経ってもシャリは戻って来なかった。
……まさか、やられたりはしていないだろうが……
シャロンは少し不安になって、結局朝までそこに突っ立っていたが、結局、それも無駄に終わった。
次にシャリと再開した時、彼はこの時の話を一言も口に出そうとはしなかったし、シャロンもそれは同じだった。
二人は、敵同士だったから。
ちなみにその翌日、シャロンは風邪をひいて兄にこっぴどく叱られた。
◆◆◆◆◆
ありふれた小屋が建っている。ところどころ染みがつき、蔦が絡みついている。それは何てこともないただの山小屋で、せいぜい旅人にとっての中継地点といった役割しか持ってはいなかった。
屋根に小鳥がとまって憩う事もあったが、決して目的地にはなり得ない場所だった。
あれから、何年が経っただろう。
陽光の差し込む、その小屋の中に腰掛けて、シャロンは自分の剣を布でぬぐっていた。曇りのない刃。多くの闇の怪物を切り払い、世界を、何より主人であるシャロンの命を守った。
そう考えるシャロンの顔つきも、幾分か変化していた。目は鋭く周囲をうかがい、物腰には隙がない。だがそこはかとない余裕が漂っていて、日の光が良く似合った。
何度も死線をくぐりぬけ、刃を重ねてきた。昔のことを思い出すのも、久しぶりだった。
「どうして、今さら……」
ふっと遠い目をして、シャロンは窓の外を見た。澄んだ青い空に、まぶしいほど白い雲が溶けている。
シャロンは剣の手入れを続けるうち、うとうとと眠りに落ちた。
扉を開けて入って来たのは、一人の少年だった。
意志を感じさせない黒瞳。すっと通った鼻梁。彼は何かを探すように、夕暮れに染まる小屋の中を見渡して、見知った顔に近づく。
シャロンは気配を感じてふと目を開き、その名を呼んだ。
少年は嬉しそうに微笑む。
「約束を――」
シャリはシャロンに近づいてきて、隣に腰掛けた。
シャロンは思わず刃を向けそうになって、それを押し留める。
「――果たしてもらいに来たんだ」
柔らかい微笑み。
シャロンはその作り物めいた微笑に懐かしさを感じ、首を傾けた。
シャリは答えず、ただそっと目を閉じた。
夕暮れが終わる。夜が迫っている。
「シャロン、夜が来るまでは……今だけは」
彼女は何も言わずに、――ただその手に自分の手のひらを重ねた。
いずれ夜が来て、この思いすら闇の呑み込まれてしまっても、今このときのことを自分は忘れないだろうと思った。
ほんの刹那の、約束を。
END