林檎にくちづけて、さよなら - 3


 シャリがシャロンの方を見た。……そして心底面倒くさそうにため息をついた。
「やんなっちゃうよね、ホント。どいつもこいつも物騒でさ。それに、そもそも君って誰?」

 まだ、思い出さないの……私のことを、本当に、忘れて――!
 そう思った瞬間、シャロンの頭がかっと熱くなった。

 気がついた時には剣を振りかぶり、踊りかかっていた。

 シャリは馬鹿にするように目を細め、――かと思うと、次の瞬間にはシャリの手にあの、砕け散ったはずの剣が出現していた。
 剣と剣がぶつかり、澄んだ高い音を奏でる。いつかの再現のように。
 けれど、それでもシャリは表情一つ変えなかった。シャロンは急に世界の終わりが来たような不思議な気分になったが、次にはそれを振り払い、声を上げて再び斬りかかった。

 だが、気がついた時には、シャロンの目の前が真っ暗になり、次いで――
「う……あ、い、――!」
 全身を引き裂かれるような、感じたこともない激痛がシャロンを襲った。今にも意識が飛びそうだった。
 ……で、もぉ! いま、ここで――倒れるわけに、いかない――!
 唇をかみ締めて、シャロンは声を漏らすまいとする。
 何秒経っただろうか。永遠とも思える時間が流れた後、ようやく痛みが絶えて視界が開ける。
「う……」
 シャロンは無様にも地面に膝をつき、それでも足らずに倒れ込んだ。死ぬほど悔しくて涙がこぼれそうになる。

「これで満足した? じゃあ、僕は――」
 シャロンは皆まで言わせずに、歪む視界に薄っすらと入り込んだシャリの足に手をのばした。動くたびに激痛が走る。
「まっ……て……、おもい、だしてくれないの……? おねがい、だから、……わ、たしのこと……わすれ……で」
 まだ言いたいことがあるのに、シャロンの唇はもう動かず、目の前がゆっくりと――……

 闇がそこにはあった。

 シャロンは悟った――ここは自分がいてはいけない場所だと。
 しかし、それが分かっていても、自ら去ろうというつもりにはなれなかった。
 だからシャロンは、ただ流れに任せ、闇の中をたゆたう。

 何かとても悲しいことがあったような気がしたが、おぼろげで、それを思い出すことはできなかった。それに思い出そうとも思えない。

 これじゃあ……、私こそ人形みたい。……だって……
 ――人形?
 シャロンは、はっとなった。
「そうだ、シャリ……!」
 くす、くすくす……
 シャロンが叫ぶと、闇のどこかから、笑い声が聞こえた。

 いつの間にか目の前にシャリがふわふわと浮いていた。
「くすっ、これで分かったでしょ? あの時の、質問の答え」

 シャロンが困惑して目を瞬いていると、シャリはゆっくりとこちらに手を差し出した。
「僕はね、人の願いから生まれた。前にも話したよね? そして君は、世界を守って欲しいという人々の願いが生んだんだよ」
「なんですって……? 私が……?」
「そうさ。だから僕は願いだけを救い続ける。君は世界を守るために戦う。フフ、僕たちはね、絶対に相容れない存在同士なんだよ。分かってくれた?」
「……私は……」

 もしそれが本当なら、いや、本当なのだろう。違っていても、実際、シャリと私は……決して馴れ合えない。それは私だって分かってる。でも……それで、本当に?

 シャリはシャロンの苦悩を感じ取ったかのように笑みを深めた。

 シャロンは、この少年は月のようだと思う。何を求めるでもなく、強く主張するでもなく、ただ静かにそこにあって、しかし、しっかりとそこに在る。
 それが、自分との違いをより明確にしているように思えて、シャロンは苦しかった。

 ――苦しい? なんで私が……

 シャリは突然、暗い表情をした。まさしく虚無の象徴のように、どこまでも深淵でどこまでも大きな英知を感じさせる、そんな顔を。

「……君が愛しいよ、シャロン。もし僕たちが愛し合える場所があるとすれば、それは血と怨嗟にまみれた戦場だけ。睦言を交わす時があるとすれば、それはどちらかに死の顎が迫った時だけ。さぁシャロン、僕に剣を向けたら? 僕たちが同じ時を共有できるのは、刃を重ねたその時だけなんだから」

 どっと汗が噴出すのを感じた。言われたことのあまりの内容に、シャロンの頭は爆発しそうだった。
 私は……私はどうなの? 私はシャリのことをどう思ってるの? ――ううん、好意を持っていなければ、こんなところまで追いかけてきたりはしない。私は、シャリを――
 だけどそれは、絶対に許されないことだ。だけど、本当は――本当に本当は、そうすることでしか、シャリと関われないということも分かってたのよ。だから私は、剣だけを持って宿を飛び出してきたんだ。最愛の人であるはずのレムオンすら置いて。
 もう戻れないかもと思ってたのに。それでもここに来たのは、シャリと戦いたかったからだ。答えなんて最初から出ていたのよ。私は、ずっとそれから目を背けて――

 シャロンは愕然と頭を垂れた。

 だって、シャリを、そうよ、好きになったって幸せになんかなれるはず、ない。それに、私は……二人の人を同時に好きになったりは、できないのよ!
 シャリはシャロンが懊悩する間、じっと暗い目でシャロンを見つめていた。シャロンはその目をじっと見つめる。
 じゃあ、どっちか選ばなきゃいけない。どっちへの思いを取るのか、私は選ばなきゃいけない……だったら私は……

 シャロンはシャリの目を見据えたまま、ゆっくりと鞘走りの音を響かせつつ剣を抜いた。二つの剣。私の、牙。
「決心はついたみたいだね」
 シャリが淡々と言うが、シャロンは首を横に振った。
「私は……今、あなたと戦う。――でも、それが私たちの運命だというのなら、いつか絶対に断ち切ってみせる」
 静かに告げると、シャリは一瞬、失礼にもきょとんとした。
 そしてその後、声を上げて笑った。
「あはははは! ホントに往生際が悪いね! ネメアじゃあるまいし。でもそれでこそシャロンだよ」

 シャロンは牙を構えた。
「行くわよ、シャリ――!」
 


「っ……!?」
 軽く爆発が起きたような音を立てて、シャロンは飛び起きた。

 ここは……どこ?
 シャロンはベッドに寝ていたようだった。見回すと、どこか宿の一室だと分かる。
「え……」

 今の、全部、夢? 
 シャロンはよろよろとベッドから立ち上がると、軋む床を踏みしめながらベランダに向かった。太陽のまぶしい、朝である。

 ……とその時、背後の扉から――造りからして、おそらく廊下に続いているであろう扉から――軽い足音が響いた。
 まさか、レルラとかが「おはようシャロン」とか言って入ってきたりしないでしょうね……?

 しかし、やはり軋む扉が開いた先に立っていたのは、――ジュサプブロスだった。
「……」
「……」
 お互いに目を合わせ、奇妙な沈黙が落ちる。どうでもいいが、彼のような男性が戸口に立っていると、言い知れない威圧感がある。

 シャロンは思わず、
「あなた、誰」
 とつぶやいていた。

 ジュサプブロスはそれを聞くや手で目を覆い、天を仰いだ。
「シャリに続いて君もか。これから俺は、いったいどうすればいいんだ?」
「どうもしなくていいわ。一生何もしなくていいから」
「釣れないねぇ。これでも労わってるのってのに」
「余計なお世話よ。ええと、――確か、シャリに負けた、のよね私」
 ジュサプブロスはこの世の終わりだという顔をして見せた。終わらせる張本人が何を白々しい。
「そうだよ。……まさか、覚えてないのかい?」
 ジュサプブロスは今度はニヤニヤ笑いながら、部屋に入って扉を後ろ手に閉めた。
「覚えてるわ。覚えてるに決まってるでしょ。……シャリは、あれから……私はどうして生きてるの……?」
 ジュサプブロスが、何を勘違いしたのかイスに座ろうとするので、シャロンは足で引っ掛けてそのイスをこちらに引き寄せた。
「おっと、危ないな。おいおい、俺はこれでも、ずっと君の看病をしてたんだぜ?」
 さすがに転びはしなかったものの体制を崩し、黒の祈りは眼鏡を押し上げた。

「看病? ……監視の間違いじゃなくて?」
「さぁて、どうだろうねぇ」
「そんなことどうでもいいの。……シャリはどうしたの?」
「結局そこか。それが、君が意識を失った後、シャリもまたもとの人形みたいになっちまってね」
「――なんですって!?」
 シャロンはさっとジュサプブロスに詰め寄り、肩を掴んで揺さぶった。
 シャロンは己の愚挙を許せずに歯噛みした。
「……シャリ……」
「はぁ〜い、呼んだ?」

 シャロンは一瞬、時が止まったように錯覚した。
 そこに響くはずのない声がしたからだ。
「……シャリっ!」
 目を一杯に開いて振り返ると、シャリがいつものように軽く浮き上がって、扉の前に出現していた。
「ご声援ありがとね。でも、残念ながら、今日はあんまり暇じゃないんだ」
「私のこと……思い出した、の?」
「アハハ、まぁね。シャロンがあんまりがんばるからさ、僕もがんばっちゃったよ、クスっ」
 シャロンの体から一気に力が抜けた。床に座り込み、シャロンはシャリを見上げる。
「どうして……」
「ひっどいなぁ。くすっ。何も、そんな悲しそうな顔しなくたっていいじゃない。せっかく、いい知らせを持ってきてあげたんだからさぁ」
「……知らせ……?」
 シャロンはぴくりと身を震わせて、ゆっくりと立ち上がった。
 シャリは相変わらず、悪意なのか善意なのか分からない顔でそこにいる。

 ……そこにいる。
「シャロン、さっきの夢のこと、覚えてる?」
 不意に、シャリが言った。
「……え?」
「君の言ったことはね、シャロン。至聖神への反逆なんだよ。あはは! シャロン、そのうち消されるかもよ」
「……それでも、私は諦めない」

 シャロンは決然とした面持ちでそう言い放った。
 シャリはそれを見るやいなや、おかしそうに笑い出す。一しきり笑った後、シャリは首を傾けた。
「本当にシャロンらしいね。じゃあ、その熱意に敬意を表して、ふさわしい舞台で待ってるよ。……僕もこれからネメアを探すので忙しいんだ。じゃあね、シャロン」
 言うなり、シャリは突如出現した黒い影と共に消えた。
「まっ……」
 シャロンが何か言葉を返す間もない。

「じゃあ、シャリも戻ったことだし、俺もこれで消えるとするか」
 唖然としていると、ジュサプブロスが言った。顎に触れ、遠くを見るようにシャロンを見る。
「それにしても、君も物好きだね。くくく、まぁ、せいぜい頑張るんだな……まぁ、シャリの顔を立てて、手は出さないでおくとしよう」
 ジュサプブロス……
 ジュサプブロスも黒い影に包まれ、消えたと思った時には彼の姿もなかった。

 シャロンはつぶやいた。
「ふさわしい、ぶたい……」
 そして、そっと目を伏せた。

 私は、シャリと戦う。それしか、方法がないから。……そしてきっと、私はシャリを殺すのだろう。そういう予感があった。
 だけれども、その一方で私は、シャリを……、好き、なんだ。
 ……だから、私は……シャリと戦うんだ。

 ……でもね、シャリ。約束は守るわ。……私は、絶対に、何百年かかっても、この因果を……
「断ち切って、見せる」


 刺すような雨が降っていた。何かの涙のように絶え間なく、切なく降り注ぐ雨は、そのまま見る者の心を映し出すのだと、シャロンは思った。
 相変わらず外套も羽織らず、シャロンはエンシェントの門をくぐる。傍らを通り過ぎた子どもが、ぎょっとしたようにシャロンを見て足を止めた。
「お姉さん、大丈夫? なんか、今にも死にそうな顔してるけど」
「……ええ。ありがとう」
 シャロンはゆっくりと答え、歩みを再開した。
 やがて宿が見えてきた。いつもシャロンたちが使う、馴染みの宿。近づくと、軒下に一人の少年――いや、少女が立っているのが目に入った。
 シャロンが夢うつつのままエステルに声をかけると、彼女はすぐさま宿の中に入って行き、しばらくしてレムオンとレルラ=ロントンを連れて戻ってきた。
 次々と温かい言葉をかけてくる三人に、シャロンは微笑みを返した。だが、その微笑みを見た三人は、なぜか言葉を止めて、心配そうな顔になった。
 シャロンは大丈夫と何度も繰り返し、言った。
「さぁ……行きましょう、闇の門の島へ」
 三人ははっとしたように頷いた。
 それを見守って、シャロンはゆっくりと空を仰ぐ。
 雨は、すべてを押し流し、やはり止もうとはしない。



END

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読んでいただいてありがとうございます!
短編のつもりで書いていたのですが、気がつくと70枚って、コレ中編ですよね。
おかしいなぁ……まぁいいか。とにかく、シャリ、ゴメン。もう君の台詞は愛しいけど分からないよ……