雨が、しとしとと降り注いでいる。シャロンたちがシャリに負けてから一週間が経とうとしていた。曇っていて分かり辛いが、そろそろ正午だろう。
シャロンはエンシャントの宿屋に滞在していた。無論、あの後宰相に政庁へ呼び出され、危うい場面もあるにはあったのだが、それらの出来事はあまり思い出したいものではない。
ただ、シャロンが物憂げな顔で、宿の軒先にいて壁に背を預けていることと、エンシャントを追い出されていないことが全てを語っていた。
シャロンの心を奇妙な虚脱感が襲っていた。殺されかけた、――その経験のせいで、何か緊張の糸が切れたのかも知れない。今は何をする気にもなれなかった。
だというのに、とシャロンは雨空を見上げる。
だというのに、私はこうして未練がましく空を見上げて、どこかへ行きたいと思っている。……どこへ?
その答えは出ているような気がした。心に引っ掛かって、未だ解消できる気配もないその思いに浸っていると、無意識のうちに足が歩きだしてしまう。シャロンは雨の冷たい感覚に気づくたび、また思考に沈んでいたことに気づき戻ってくる、という無意味極まりない行動を繰り返していた。
「……」
雨が降る。私はここから出られない。……出たいの? 私は。ここから出て、どこに向かおうというのだろう。
答えは出ず、シャロンはそっとため息をつくばかりだった。
「シャロン」
「レムオン……兄様」
突然かかった声に振り返ると、レムオンが険しい顔で立っていた。顔を見るだけで、胸の中に愛しさがこみ上げる。こんなにも大事な人が側にいるというのに、自分は何を迷っているのだろう。
レムオンはシャロンの顔から三十秒ほど視線を逸らさなかった。思わず顔を赤らめて俯くと、聞きなれたため息が降ってきた。
「兄様はやめろと言っただろう」
「ごめんなさい。……に、……ええっと、レムオン」
慌てて言い直すシャロン。レムオンの顔をそっとうかがうと、苦笑めいたものを浮かべてシャロンを見下ろしていた。
「全く、熊のようにウロウロウロウロと。そんなにあの道化が気になるか?」
シャロンの頭がかっと熱くなった。
「シャリを道化と言うのはやめて!」
思わず叫んでいた。
「あ、えっと……私、」
自分が何を言ったのかに気づき、シャロンは青くなった。
何を怒っているのだろう。……シャリのことなんてどうでもいいのに。私はレムオンの方が大事なのに。
――でも、
と、不意に湧いた疑問にシャロンははっとなった。
――でも、もしレムオンとシャリとどちらかが死にそうになっていたとして、そしてどちらかしか助けられないとしたら……私はどちらを助けるのだろう。
「……好きなのか、奴が」
「違うっ……私は、あんなヤツのことなんて、ううん、むしろ、嫌いよ」
シャロンは思う間もなく、レムオンの問いを否定していた。
この混乱の元凶も、シャリだ。それに、彼は世界を滅ぼそうとしているのだ。シャロンは普通に考えれば、無論彼を憎んでしかるべきなのだ。
……けれども、
「でも……だけど、ただアイツは……」
だが、悪と言ってしまうには、彼は無邪気に過ぎた。シャリと相対するたびに、シャロンは思う。……彼は本当に悪なのか、どうしても戦わなければならないのか? と。
「……アイツは、強い願いを叶えてる。……それだけでしかない。本当に戦わなくちゃいけないのは、むしろアイツを創る悲しみの方なんじゃないのかって……思ってしまったの」
それからだ。シャリと戦うのが苦痛になったのは、それからだった。だからシャロンはシャリを殺そうとできなかったし、ラドラスにエステルたちを助けに行った時だって、竜王の蔑みの言葉に「否」と叫んでしまったのだ。
シャロンはうなだれた。
「私が、あの時シャリについて行ったのはきっと、そういう思いが心にあったからよ。敵なのに、憎み切れない自分がいたせいなの。でもそれも終わり。私は、アイツを殺して、……闇を絶つわ。次に戦う時は、迷ったりしない」
「――それでお前はいいのか? 世界はそれで救われるだろう。……だが、お前はそれで救われるのか」
レムオンから返ってきたのは思いの他優しい声だった。一喝されると思い込んでいたシャロンは、おずおずと顔を上げる。
「だって、……じゃあ私はどうすればいいの? 教えてレムオン、私はどうすればいいのよ! アイツは敵なのよ。そして私は、アイツに加担して人を殺すことは、どうしてもできないっ……! だから――」
シャロンはそこまで一気に言って、はっと息を呑んだ。
『――でもそんな質問、全然君らしくないよ。僕を憎むのに理由が必要?――』
「だから、私は、シャリと戦わなきゃいけないんだ……」
シャロンは目を逸らし、雨の中霞んで見える町並みを見るともなく見た。
道が交わることがないなら、……剣を交えることでしか、私たちは関わり合えない。
「シャリ……」
ぽつりとシャロンはつぶやく。
それでも、私は……
「シャロン……」
物思いに浸っていたシャロンは、慌ててレムオンを見た。
「そんなに気になるなら、行け――奴を探しに」
「レムオン……」
「勘違いするな。お前を手放すと言っているわけではない。……迷いを断ち切って、戻って来い。この場所に。俺のもとにな」
「……」
「シャロン、俺はいつまでもお前を待っている。必ず帰って来い」
力強く言われた言葉に、シャロンは目が潤むのを感じた。ああ、この人だけは、自分をいつでも受け入れてくれる。深い愛情でもって接してくれる。シャロンはそれを感じて、――しかし目を逸らした。予感があったのだ。冒険者としての経験がもたらす予感だった。
――私は、
「ありがとう。……ごめんなさい、レムオン」
――もう戻れないかもしれない。
シャロンは振り向かず、雨の中へ走り出した。
それでも私は、シャリに会いたい。
雨の中に消えて行く愛しい女の背を見ながら、レムオンは嘆息した。不意に襲った頭痛に、こめかみを押さえる。
「俺は……バカか」
空を仰ぎ、レムオンは自嘲気味に笑った。何が悲しくてシャロンの背を自分が見送らねばならないというのか。
レムオンが自分の愚かさを嘆いていると、背後で扉の開く音がした。
「すっごくカッコよかったよ、レムオン」
レルラ=ロントン――リルビーだ――がレムオンを見上げて笑う。
「お前に慰められてもな……」
レムオンはあらゆる意味で力が抜け、ため息と共につぶやいた。
「でも……、帰ってくるかな、シャロン。ボク心配だよ。またあんなことになったらって思うと……」
不安そうに身じろぎしたのはエステルだ。
レムオンは、否とも是とも答えられぬまま沈黙を保つ。
「帰ってくるよ。だって、今度だっていろいろあったけど、戻ってきたじゃない」
その沈黙を破ったのは、明るいレルラ=ロントンの声だ。
レムオンは――彼女の消え去った後へ目をやって、そっと拳を握った。
帰って来い、シャロン。
雨は当分止みそうになかった。
一方シャロンは、町を出たはいいものの、特に当てがあるわけでもなく、一人ブラブラと街道を歩いていた。外套も持たずに飛び出してきたせいで、すでに髪と言わず服と言わず濡れそぼっている。
シャロンは唯一持ち出してきた剣が腰にかかっているのを見て、眉をひそめた。全く、何をしに出てきたのか分からない。
シャロンは思いつつ、何か違和感に気づいてふと足を止めた。無意識に剣へと手をのばし、辺りの気配を探る。――すると、木の影がこそりとゆれた。
「誰!?」
シャロンが誰何の声を上げると、低い笑い声が響く。
「……いや、お互い雨には苦労するねぇ。シャリのお気に入りが台無しだ」
飄々とした風情で現れたのは、暗い金髪の丸眼鏡をかけた――
「ジュサプブロスっ!?」
ダークエルフで、システィーナの伝道師にその名を連ねる、シャロンの敵だ。ゆっくりと剣を抜き、シャロンはいつでも応戦できるよう、身を低くして備えた。
すると何がおかしいのか、ジュサプブロスは肩を震わせて哄笑を上げた。
「……! 何がおかしいのよ」
「いやぁね、ただ滑稽だと思っただけさ。よくよく、君はダークエルフに縁があり、俺も君には縁があるらしい。こんなところまで君を探しに出向かなきゃならなかったんだからな」
シャロンはダークエルフのくだりで胸が締め付けられるように痛むのを感じたが、表情には出さなかった。
代わりに油断なく見据えながら、尋ねる。
「……私を?」
「そうだ。まぁ、手っ取り早く行こうじゃないか。お互い暇な身じゃないだろう?」
「そうね。私もあなたに用があるわ。そちらから先にどうぞ?」
「そりゃありがたいな。――シャリの居場所を教えるんだ」
シャロンは大きく目を見開いた。とたんに心臓が早鐘のように鳴りだして、さっと血の気が引いて行くのが自分でも分かった。
「シャリは行方不明なの!?」
「とぼけても無駄だよ、お嬢さん。……吐かないなら、力づくで聞きだすしかないな」
言うなり、ジュサプブロスは細長い剣を抜いた。
「待って、本当にシャリは――」
「問答無用と行こうじゃないか」
言葉と共に忽然とジュサプブロスの姿が掻き消えた。次の瞬間、シャロンの目前にまで迫っているのを見て、反射的に剣で攻撃を受け止める。
高い音が街道に響き渡った。
「くっ――」
シャロンはあまりの鋭い斬撃に顔を歪め、一気に跳ね返した。その勢いで後方へ一旦跳躍し、強く地面を蹴った。
声を上げて剣を振りかぶり、再び剣を合わせる。シャロンは弾かれる前に相手の剣を受け流し、すぐさま強烈なハイキックでジュサプブロスの顎を蹴り上げた。
「ぐっ!」
一瞬よろける相手の胸にブーツの先を乗せ、一気に体重をかけて蹴り倒す。地面に押し付けられたジュサプブロスを見下ろしながら、シャロンは喉もとに剣先を突きつけた。
「……それで、シャリはどこにいるの? 行方不明って本当?」
シャロンは軽く頭を振って雨露を払い――しかしあまり効果はなかった――、眉をしかめた。
「なんだって……? 俺をはめようとしてるのか? いや、この状況でそんなことをしても無意味か。ということは、本当にシャリの居場所を知らないのか……」
「だから、さっきからそう言ってるじゃない」
苦しげにつぶやくジュサプブロスに、シャロンは苛々と切り返した。
「く、くくく……!」
古い木造の家が軋むような不気味な笑いを漏らし、何かと思ってシャロンが見ていると、もったいぶった様子でこちらに目を合わせた。
「こりゃ参った、降参だ。……どうだ、見たところ君もシャリを探してるようだな。なぁに、実は俺も君が最後の手がかりだったんだ。分かるかい? 困ってるんだよ。困った者同士、助け合いと行こうじゃないか」
シャロンは目を細めた。
何を考えている? この男は油断がならない。
「それで私に、何かメリットでもあるの?」
「君だって、俺の話が聞きたいんじゃないのかい? 協力者は多い方がいい。お仲間のところは出てきたんだろう。悪い話じゃないと思うけどね」
シャロンは踏みつける足に力を込めた。
「自分の立場、分かってる? なんならここで拷問してもいいのよ?」
「へぇ、じゃあ俺を殺すのかい。また無抵抗の奴を殺すんだな」
「無抵抗ね。……そのよく回る口を切り裂いてやったら、本当に無抵抗になるでしょうね」
「言うね。切り札だと思ったんだが」
その時、ジュサプブロスの口元がかすかに動いた。何かする気だと気づいたシャロンは、何気ない動作で彼の唇に剣の先をぴたりと押し付ける。
「たとえそうだとしても、敵に悟らせるようなマネはしないわ」
ゆっくりと剣を離し、しゃべれるようにする。次にこんなことがあれば殺す、の意味を込めてシャロンは強く睨んだ。
「こりゃ驚いた。……シャリの前とはずいぶん違うんだな」
シャロンは唇を震わせた。
「……どこから覗き見していたのか知らないけど、それは近くにレムオンがいたからよ。……そんなことはどうでもいいでしょう? なんとか隙を探ろうとしてるのかもしれないけど、私はあなたの前で二度と隙を作ったりしない」
シャロンの脳裏に、あるシーンが蘇っていた。……ネメアが、自分のせいで次元のはざまに落ちるところだ。そしてそれは、目の前の男の奸智によってもたらされた。
「こりゃ本当に参ったな。……じゃあ、お嬢さんにお聞きしよう。これから俺をどうするつもりなんだ? まさか、このまま解放してくれるなんてことはないだろう? 殺す? 俺に聞きたいことがあるんだろう? 俺は舌を噛んで自殺してもいい。よく考えることだね」
ジュサプブロスは淡々と言った。視線は雨空に向き、運命を天に任せるような雰囲気が漂った。
シャロンは考えた。何かの罠かも知れないが、シャリの居場所はシャロンにも分からない。確かに情報を得ることは大事だった。しかし、別に逃げられたところで害があるわけでもないのだし、隙を見せなければいいだけだ。
シャロンはゆっくりと剣を収め、足をどかした。
「いいわ、協力しましょう。シャリが見つかるまではね」
ジュサプブロスは億劫そうに立ち上がると、服の汚れを軽く払い、ずれた眼鏡を直した。
「乱暴なお嬢さんだ」
「先に手を出したのはあなたでしょ?……裏切ったら、ひどいわよ」
「はいはい……分かってますって」
シャロンはジュサプブロスをきっと睨み付けると、顔を背けた。
「まぁ立ち話もなんだ……」
つぶやいて、ジュサプブロスは何かをブツブツと唱えだす。
テレポートとエスケープの詠唱に少し似ていた。攻撃魔法ではなさそうだと見てとって、シャロンはじっと待った、
「それじゃあ、あなたも結局、シャリの行方の手がかりは持ってないのね」
シャロンはため息と共につぶやいた。
テレポートした先はリベルダムだった。スラムの酒場までやってきたシャロンと、――ジュサプブロスは、向かい合って座っている。
気を使ったのか、シャロンに茶を、ジュサプブロスにワインを持ってきた後は、店主も奥へ引っ込んでしまった。
「ああ。まったく、奴と君のせいで、こっちは大あらわだよ」
落胆するでもなく、ふざけるようにジュサプブロスは言った。
シャロンは茶に口をつけず、スプーンでグルグルとかき混ぜながらうなだれる。
「……そうだ、あなたの方が、シャリには詳しいんじゃないの? シャリが行きそうなところを知らない?」
シャロンが身を乗り出すと、ジュサプブロスはワインの入ったコップを傾けてあざ笑うように唇を曲げた。
「さぁねぇ。……俺に聞かれても、ね。奴に深入りするほど、俺も命知らずじゃないさ」
「あなた、さっきからやる気あるの!?」
テーブルに手のひらを叩き付け、シャロンはジュサプブロスを睨んだ。
「もちろんだよ、お嬢さん。……シャリは約束に遅れることはなかったからな……ちょっと頼みたいこともあるし、俺としては是が非でも奴を見つけたいってわけだ」
ジュサプブロスは眼鏡を押し上げる。すると、強すぎて、何もかも巻き込んでしまう飲み込んでいくような、底の知れない光が彼の目に灯る。
「そこで君だよ。俺の知る限り、シャリが一番こだわってるのは君なんだからね」
「そんなこと……」
「いいや、そうだ。現に、君に追いかけて来いなんて台詞を残して行ったんだろう? どこか因縁の場所とか、心当たりがあるんじゃないのかい?」
シャロンは視線をさまよわせ、小さく息を吐いた。
因縁……シャリが私を待っているとするなら、やはりあそこだろうか。
「……砂虫の……残骸」
「へぇ。どうしてそこだと?」
シャロンは問われ、どぎまぎと手を組み合わせて、口を開いた。
「……何度か、あそこでシャリに会ったことがあるの」
砂虫の残骸――巨大な魚の骸でできた洞窟である。その奥には洞窟があり、さらに進むと最奥に祭壇のような場所がある。シャリと前に会ったのは、その場所だ。
あの時、シャロンはレムオンに拒絶されたショックを抱えて身動きすらできなかった。そこに現れたシャリに手を引かれたシャロンは、光明を求めるようにしてシャリの手を取ったのだ。
シャロンはため息をついた。暗い洞窟の中を進む間、シャロンは終始無言で通している。しゃべる気になれなかったというのもあるが、ここにシャリがいるかも知れないと思い出すと、どうにも胸が騒いで仕方がない。
ジュサプブロスは、先ほどからシャロンの戦いを手伝うでもなく、洞窟の中を興味深そうに見渡しているばかりだ。
シャロンは襲いかかってきたロックスリンガーを一太刀のもとに切り伏せ、汗をぬぐって剣を収めた。
シャロンは首を横に振って、さらに奥を目指した。記憶が確かなら、もうすぐ……
「あ、ここ……」
シャロンは神秘的な光を放つ地底湖の前で、足を止めた。古びた橋がある。この橋を渡れば、例の祭壇だ。
「ここか……?」
ジュサプブロスが軽い身のこなしで岩の間を飛び越え、シャロンの隣まで来た。
ジュサプブロスを振り返り、シャロンは小さく頷く。
「この橋を渡った先。……ここはきれいね。私は好きだわ」
シャロンは何気ない足取りで、岩から橋に飛び降りた。大きなクリスタルの柱が、地底湖に林立している。この大陸に数ある秘境の中でも、ここはシャロンに一際、哀切の思いを抱かせる場所だ。
「……あ……? あれ、見て!」
シャロンは難なくシャロンに続いて橋に降り立ったジュサプブロスを振り返り、前方を指差した。
黒い人影が倒れているのである。遠目なので分かりづらいが、シャロンにはそれが、シャリに見えた。
「あれは……シャリか?」
なぜか心もとない様子でジュサプブロスが言う。シャロンはそれを訝しく思いながらも頷き、険しい顔でそっと剣を抜いた。
「おい、俺はここに残る。……対面を邪魔しちゃ悪いだろうしね」
シャロンは憤然と心中で舌を出し、表情を意識して引き締めた。何かの罠ではないという保障はどこにもないのだ。
シャロンが少しずつ近づいて行こうとすると、背後から無責任な声が聞こえた。
「その剣でどうするつもりなんだ? ……意識がないみたいだ。剣をしまっても罰は当たらないと思うがね」
シャロンは少し迷った末、おずおずと双剣を収めた。鋭い音がもれる。
そして、なおも警戒しつつ近づいて行くと、やはりそれはシャリだった。しかし、なぜか目をつむり、仰向けに倒れてぴくりとも動かない。傍らには、いつも持っている紫色の直剣らしきものの――残骸が散らばっている。それは粉々に砕けてしまっていた。
辛うじてあの剣だと判別できたのは、特徴的な柄の部分が寂しげに転がっていたからである。
「シャリ……?」
シャロンはさすがに何かおかしいと感じ、シャリの名を呼んだ。その声はシャロンの意図に反して心細げにゆれている。
忌々しさに、シャロンは唇をかみ締めた。
再びシャリを見る。シャロンの声にも全く反応せず、まるで死んだように動かない。
――糸の切れた人形。
その姿に、シャロンはついその単語を思い浮かべてしまった。一層強く唇を噛み、シャロンはシャリに近づくと、傍らに膝をつく。
『シャリは人形じゃない!』
かつて朦朧とする意識の中で叫んだ言葉が鮮やかに蘇る。シャロンはそれを再び口の中でつぶやいて、彼の肩に手をかけた。
「シャリ――シャリってば……!」
シャロンが揺すってみても、返事は返らない。絹糸のような黒髪がさらりと顔にかかるだけだ。
「シャリ……」
シャロンはそっとシャリを抱き起こして、再び名を呼んだ。なぜだか知らないが、目が潤んだ。
……その時、シャロンは不意に襲った頭痛に頭を押さえた。割れそうなほど頭が痛い。
『……その虚無の子は、』
痛い、痛い――
シャロンの思考に割り込むように、何か――声もないのに意志だけがシャロンの心に入り込んでいるようなそれが、聞こえた。それは、自分の部屋をいきなり入ってきた誰かに荒らされるような感覚。
『その虚無の子は――大いなる意志に見捨てられ、虚無にも見放された』
――虚無の子、ってシャリの――いったいどうして……!
シャロンが思うと、口に出す前に再び心をかき乱される感触があった。
『汝を殺さなかったからだ。汝を殺せぬ、虚無の子などただの道化に過ぎぬ……』
――私を殺せなかった……? あの時、エンシャントの広場の時ね? そんな……
『あの虚無の子は、虚無より力を得る法を失った』
――そんな、勝手な! それじゃあ、シャリはどうなるの? シャリの意志は……
『虚無の子に本来、意志など不要なり……されどあの子は……』
――答えて……シャリはどうなるの?
『汝にとって虚無の子は、本来敵であるはず。……それを、なぜ汝が怒る? 無限のソウルよ……』
――それは……
『意志なき力に意味はなく、また力なき意志にも意味はない。よく考えることだ……』
「まっ――!」
シャロンが叫ぼうとした時、シャロンの腕の中で何かが動くような感触があった。
――と思った時には、シャロンの腕からシャリの姿は消えていた。
「えっ……?」
気配を感じて振り返ると、ジュサプブロスの脇にシャリが現れている。……瞬間移動したらしい。
シャロンはまんじりともせず、立ち上がった。
「シャリ!」
シャリはシャロンの方を見て、カタンを首を傾げた。
「……あっれー? 君誰? 知り合いだったっけ。ねぇジュサプー、この子知ってる?」
「なっ……」
シャロンは頭を思いっきり殴られたような気がした。
何を、馬鹿な……
心臓がひっくり返ったようだ。
シャロンが言葉もなく枯れ木のように突っ立っていると、ジュサプブロスが口を開いた。
「シャリ……お嬢さんのことは覚えてないのか?」
「何の話? ボケるには早いんじゃない? ジュサプブロス」
シャリは首を傾げるばかりである。
シャロンはそれを信じられない思いで見守っていた。
ジュサプブロスは心なしか哀れむような目でシャロンを見て、
「俺のことは覚えてるみたいだな」
「まぁね。……ところでジュサプー、僕に何か用だったんでしょ?」
「ああ……まぁ、俺を覚えてるんなら、エルファスやゾフォルのことも覚えてるんだな?」
「しつこいなぁ。ばっちりだって」
「そうか。ならいい」
どうしよう。どうすればいいの? ここまでシャリを探しに来たのに……そもそも、私はシャリを探してどうするつもりだったの? それすら分からないのに、それを知りたくて会いに来たのに、シャリは私のことを覚えていないって言う……
ジュサプブロスがシャロンを見る。よっぽどひどい顔をしているのか、似合いもしない同情を顔に浮かべていた。
私は、そんな風に見られる筋合いなんてないのに。どうして私はこんなにも衝撃を受けてるの? ……そうよ、敵なのに……だけどそれでも……
「問題がないなら、シャリを連れて行かせてもらう。おっと、そうそう、今回の依頼料代わりに、今は見逃しておいてやろう。……じゃあ、」
「待って!」
きびすを返そうとしたジュサプブロスの背に、シャロンは慌てて声をかけた。
律儀に足を止めた二人に、シャロンは駆け寄る。足がもつれて転びそうになったし、半ば無意識に柄にやった手は震えて使い物にならない。
「……シャリ、私と……私と戦いなさい!」
悲しいことに……、シャロンとシャリの記憶といえば、すべてが戦いそのものだった。
だから……戦えば、何か思い出す、かも知れない……!
シャロンは剣を抜いた。