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一瞬、少女は自分が何をされているのか分からなかった。くちびるに押し当てられる柔らかい感触。目にうつるのは、見慣れて信頼している男の顔で――
「っ!」
俗に言う、「キス」をされているのだと気づいた彼女は、慌てて男――ゼネテスの大柄な体を突き飛ばした。
人々の寝静まった深夜。七月下旬とはいえ、やはり夜は肌寒い。王都ロストールの一画を占める貧民街……いわゆるスラムの路地裏で、一組の男女が向き合っている。
女は名をシャロンと言った。青みがかった髪と淡い紫の瞳。すらっとした体型の小柄な少女である。身につけているのは白いブレストプレートと、二本の剣。
その装備からも分かるように、彼女は華奢な外見に反して、バイアシオン大陸を縦横無尽に駆け巡る冒険者たちの一人だった。
もう一方の男の名はゼネテス・ファーロス。シャロンの仲間の一人であり、シャロンにとっては冒険者として尊敬している先輩でもあった。
なのに、とシャロンは自分の体を心細げに抱き締めた。一緒に酒場に寄った帰り道、突然路地に連れ込まれて、これだ。
どういうつもりか、の意味を込めてシャロンは目の前のふてぶてしい男を睨みつけた。
「……んでこんなことっ……!」
低い声で言うと、月明かりを背にした男は、限りない慈しみと、届かない者に対する慈しみめいたものを若い顔に浮かべている。
「悪かった。お前さんがあんまり可愛いもんでな。……なんでだろうな。お前さんは、他人の気がしない……いや、酔ってるんだ、忘れてくれ」
「忘れてくれ……って……こんなこと、して……! もし兄様に知れたらっ……んっ……!」
言葉は続けられなかった。続ける前に、再び唇を押し付けられる。
あまりのことにシャロンが呆然としていると、ゼネテスが顔を離して言った。
「こういう時に他の男の名を口にするのは反則ってもんだ、シャロン」
「勝手なこと――!」
「……悪い。俺はもしかしたらお前のことが――」
「聞きたくない! 聞きたくない……、どうして? ずっと信じてたのに」
「……好きだ、シャロン」
「……」
「返事は……まぁ、また今度でいい」
言いたいことだけ言って、ゼネテスは夜の闇に消えて行った。
シャロンはゼネテスの背中が闇に消えるまで、ずっと彼から目を離さなかった。否、離せなかった。
先の貴族の反乱で、処刑されそうになっていたところを助けてからの付き合い。
好きか嫌いかと聞かれれば、間違いなく好きだと言える。けれど……
「兄様――レムオン」
彼女の義理の兄であり、世界で一番愛しい人でもある、レムオン・リューガ。
闇の種族ダルケニスである彼は、一度闇に飲み込まれかけている。
それを命がけで救って以来、レムオンは彼女にとってかけがえのない……恋人だった。
そのことは、ゼネテスだって知っているのに。なぜ――!!
「ふふっ……みーちゃった」
何の前触れもなく、声が響いた。夜にはふさわしくない、底抜けに明るい声だ。シャロンははっと顔を上げた。
「シャリ――!」
そこにいたのは、東方の博士の異名をとるきれいな黒髪に異国の服が妙に似合う少年だ。姿かたちだけ見ればただの少年に過ぎないが、その実彼の正体は破壊神ウルグを復活させようと目論む秘密結社、システィーナの伝道師の一員。
それでなくても、ふわりと浮いた姿を見れば、只者でないのは知れる。
シャロンは鋭い目線で少年――シャリを見据えつつ、両手を剣の鍔元にかけた。
「物騒だなぁ。僕はただ、ちょっとした挨拶に来ただけだっていうのに。くすっ……」
「……」
シャロンはシャリのふざけたセリフを無視して、返事の代わりに唇を噛み締めて睨んだ。最悪な場面を見られた。
「――わざわざ、こんなところまで出歯亀しにくるなんてシスティーナの伝道師はよっぽど暇みたいね」
「くすくすっ。そんなこと言っていいの? シャロン。この間は失敗しちゃったけど、君が他の男と通じてるって知ったら、レムオンはどう思うかなぁ。また闇に落ちちゃったりして。アハハ!」
言葉の内容とは裏腹に無邪気なシャリの声に、シャロンは眉を寄せた。
あり得ないことではないと知っていたからだ。
レムオンがシャロンに強く執着していることは事実だった。
もうレムオンの苦悩する姿なんて見たくない。闇には落とさせない……そんなことをさせるわけにはいかない。
だからシャロンは、針を含んだ視線でシャリを射抜いた。
「レムオンに何かするなら――許さない」
「怖いなぁ。フフっ。でも、君ひとりで僕を殺せるかな? 四人がかりでも僕を殺せなかったのに?」
シャリはいたずらっぽく言う。シャロンは小さく舌打ちした。
以前ラドラスでシャリと刃を重ねた時、仲間とともに四対一で戦ったのにも関わらず、結果は……敗北だったのだ。一対一で勝てるとは思えない。
ややあって、シャロンはゆるゆると剣の鍔から手を離す。
「……お願い、レムオンには……黙ってて」
「どうしよっかな?」
「……っ! 何が、望みなの……なんでもする。だからレムオンだけは……」
ほとんど苦虫を噛み潰したような顔で、シャロンはなおも食い下がった。
「ウフフアハハ! いわなかったっけ? 僕に望みなんてないよ」
シャリは笑いながら空中でクルリと回った。その人形めいた面に浮かぶのは、あどけない外見からは想像もできないような艶然とした微笑みだ。
シャロンはぎゅっと目をつむった。
「シャリ――」
「ふふっ、仕方ないなぁ。じゃ、世界を救う勇者様に依頼でもしよっかな」
「……?」
「赤い髪のダークエルフ……オイフェっていったっけ。シャロン、知り合いだよね?」
「彼女が……なに」
「さらってきてよ。そしたらレムオンには黙っててあげる」
シャロンは息を呑んだ。……オイフェをさらう? そんなことが――
「――そんなこと、できるわけない!」
あまりにも無茶な内容に、反射的に言ってしまってからシャロンははっとして口をおさえた。
「ふぅん……じゃ、フフフ、レムオンのことはいいんだね?」
「そ、れは……」
「まぁいいや。別に僕が困るわけじゃないからね」
「待っ――!」
その姿を引きとめようとした時には、すでに闇の中へ消えた後だった。
次の日の、夜。
シャロンはとぼとぼと宿の廊下を歩いていた。
レムオンを再び闇に落とすようなことがあってはならない。もう二度と、私は彼を離さない。
シャロンは思った。
だけれども、だからと言って……オイフェをさらうなんてできるわけがない。
シャリにオイフェを差し出すのは、悪魔に生贄を捧げるに等しい。
……シャリは、シャロンに魂を売れと言っているのだ。
それもこれも、ゼネテスがあんなことをするからだ――と思いかけても、それはすぐにしぼむ。自分だって、レムオンのためなら……
そんな次第で半ば夢うつつに歩いていると、ふと誰かの話し声が聞こえた。シャロンらパーティーが滞在している部屋からである。
「……が……で……」
「……んな……れない……」
とっさに不吉な予感がして、シャロンはそっとかがむと扉に耳を当てた。
『クスクス、僕も嫌われたもんだね。でも、今日は君に素敵なお知らせを持ってきたんだよ? ちょっとは歓迎してくれてもいいんじゃない?』
『誰がお前のいうことなど聞くものか!』
『あーあ。兄妹そろって喧嘩っ早いなぁ。貴族とは思えないね』
『黙れ! 俺は……俺はもう、貴族などではない』
『フフ、そうだったね。シャロンに助けられて、良かったねぇ。でも、その大好きなシャロンが――』
黙って聞いていられるのはそこまでだった。シャロンは勢いよく扉を開けて、中に踏み込んだ。予想通り、レムオンと――シャリが対峙している。
心臓が早鐘のように鳴っていた。シャロンは驚いて目を見開いているレムオンに駆け寄ってシャリの前に出ると、腰の双剣をすばやく引き抜く。涼しげな鞘走りの音が平和な宿屋にこだました。
まさか、こんなに早く来るなんて……!!
シャロンは焦燥感に唇を噛んだ。
レムオンを後ろにかばったシャロンを見て、シャリがふざけた調子でぺこりと一礼する。
「こんばんはシャロン。くすっ。今夜の主役の登場だね。何なら再現してあげようか? 闇の王のための、血の晩餐会をさ!」
「シャロン、いったい――?」
レムオンの怪訝そうな声には振り向かず、シャロンはただシャリを睨む。すると、シャリは何を思ったのか、自分の作品、それも最高のできの作品を見るような視線を向けてくる。
――馬鹿にして……!
「ほら、観客もちょうどそろったみたいだよ」
シャリの言葉に答えるようにして、パタパタという足音が響いた。
いったい誰が、と思う間もなく、戸が大きな音をたてて開く。
「シャロンっ? それに、キミは――シャリ! いったい何があったの!?」
エステルだった。シャロンは胸中で舌打ちする。
背後のレムオンと、エステル、相変わらず不気味に微笑んでいるシャリを見て――シャロンはゆっくりと剣をおさめた。
私は……、レムオンのためなら、なんだってする。本当に、なんだってできる。
「……分かったから。もう、分かったから、シャリ。帰って」
シャロンは頼りなさげな顔で床に視線を落として、今にも死にそうな声でそうつぶやいた。
「……ふ~ん。まぁいいや。今日は勇者様に免じて退くとしよっかな。じゃね、シャロン。約束、忘れないでね!」
アハハ、と心底楽しそうに笑うなり、シャリは黒い影の中に消えた。
「シャロンっ、大丈夫!? ……なんか、昨日から変だよ?」
駆け寄ってきたエステルが心配そうに言った。
シャロンは、ゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「……大丈夫。心配しないで」
優しいふたり。
……レムオン、安心して。絶対に、シャリから守ってみせる。どんなことをしても……
翌日――夜が明けるなり、シャロンたちはロストールを出立した。向かう先はエンシャントである。
オイフェはディンガル帝国に属する人間だ。あそこに行けば、手がかりが見つかるかも、知れないと考えたのである。
ロストールからエンシャント間の街道を行く間、パーティーのリーダーであるシャロンは終始無言だ。
彼女はレルラ=ロントンが詩を詠おうと、レムオンが眉間に皺を寄せようと、エステルが泣きそうな顔で理由を聞き出そうとしても、その時だけ曖昧に微笑んで、すっと無表情に戻るのだった。
エステルは困っていた。シャロンは確かに無口な方だが、こうもあからさまに元気がないのは滅多にないことである。
それに、と彼女は思う。
昨日の夜、シャリと相対したシャロンの様子は、巫女である彼女の心をざわつかせるに十分なだけの危うさを孕んでいた。
嫌な、予感がする――
エステルは隣を歩くシャロンの、まるで今から自殺でもしに行くところのような横顔に目をやりながら、ぎゅっと手のひらを握った。
シャロン……キミは、どこにも行かないよね?
胸が痛い。シャロンがいなくなったら、と思うと、エステルの胸はなおいっそう強く痛んだ。
数日後の昼下がり、エンシャントの巨大な門前にたどりついた。
これから、私は――オイフェを、……
……いや、レムオンのためだし、それに……それに、もしかしたらオイフェは見つからないかもしれない。そしたらまた、何日か時間が稼げる。
とシャロンは自分に言い聞かせて、跳ね上がりそうになる鼓動をおさえる。そうしなければ、もう――。
「――ロン……シャロン、聞いてる?」
はっとなって、シャロンは頭を振った。思考に没頭しすぎていて、話し掛けられているのに気づかなかったらしい。
「もう、聞いてるの? 宿はぼくが取っておくから、シャロンはゆっくり休んでね?」
声がずいぶん下の方からするなと思ったら、リルビーのレルラ=ロントンだった。シャロンはやんわりと微笑んで、「ありがとう」とだけ答える。
隣を見ると、レムオンの眉間の皺が三本くらい増えていた。
「あ、じゃ、じゃあ、解散ね。また後で――」
慌てて言いつくろって背を向けるシャロンだったが、低い声に呼び止められる。シャロンは傍目にも分かるほどビクっと体を震わせた。
「シャロン。……何かあれば、すぐに言え」
……レムオン。
シャロンは顔を伏せた。
「うん……、ありがとう、レムオン」
ゆっくり言って、シャロンは駆けだした。
後ろは振り向かない――振り向けない。
シャロンは自分が最低な生き物になった気がした。いくらレムオンのためと言ったって、これからしようとしているのは……。
シャリなんかの言うことを聞いて……どうなるかなんて全く保障はできないのに。
シャロンは自分の思考が恐ろしくなった。自分はレムオンのためと言って、取り返しのつかないことをしているのでは――?
ため息をついて、歩く――やがて広場のソリアス像の前で、シャロンは足を止めた。
無言で偉大な像を見上げ、無意識に剣の鍔をいじる。
そうだ、みんなに相談しよう――レムオンには言えなくても、エステルやレルラに話せば、きっと知恵を貸してくれるはずだ。
どうかしていたんだ、きっと。
決意した、ちょうどその時だった。
「シャロン、聞きたいことがある!」
冷や水を浴びせかけられたような気がした。
はっと振り向くと、そこには赤い髪のすらっとしたダークエルフ……オイフェが佇んでいるではないか。
「オイフェ――?」
その背後から、ドワーフ――ドルドラムが呆れ顔でゆっくりとやってくる。
「やれやれ。それが人にものを尋ねるときの態度かのう」
「ネメア様のことよ。知らないとは言わせない。あなたの知ってることを教えて」
いさめるようなドルドラムの声にかぶせるように、オイフェは言い募る。
ネメア――先の戦いの折、ゼグナでシャロンをかばい、闇のはざまに落ちたディンガル帝王の名だった。
「…じゃあ、ネメア様は、ゼグナで次元のはざまに落とされたというのね?」
シャロンが一部始終を話して聞かせると、オイフェは真剣な顔でしばらく考え込んで、
「……いいわ、シャロン。突然だけど私の護衛をしてもらえる? どうしてもエルズのエアに会いたいの。どう? 引き受けてもらえる?」
とシャロンに迫った。
天地千年を見通す巫女、エアであれば、ネメアの行方を知っていると踏んだらしい。
シャロンは唇を噛んだ。
できすぎでいる。まるで、シャリが――
「でも、私は……」
「あなたしかいないの」
「……」
「シャロン、お願い」
シャロンは一瞬だけソリアス像に不機嫌な視線をやって、不承不承うなずいた。
これでは、まるで。
「ありがとう。じゃあ、さっそく出発よ。町を出るときに――」
「……待って。その前に、一緒に来てほしいところ……があるの」
オイフェの言葉を遮ってシャロンが言うと、彼女はほんの刹那だけ訝しげに眉を寄せたが、すぐに……うなずいた。
「いいわ。どこへ?」
「……うん、ついてきて」
――これではまるで、誰かに踊らされているようだ。
エンシャント、スラム。
シャロンはなるべく振り向かず、黙々と一軒のあばら家に入った。
かつて、妖術宰相ゾフォルが暮らしていたその小さな家。この家が今や、帰ってくる予定もない主を待ち続けるばかりであることを、シャロンはずいぶん前から知っていた。
「シャロン、いったいこんなところで何を――うぐっ」
オイフェがシャロンに続いて入ったのを確認するや否や、シャロンは目にもとまらぬ速さで歩み寄り、剣の柄で鳩尾を突いた。
「シャ……ろ……ん……」
オイフェとは幸いにして視線が合わなかった。シャロンは――、一生、この、全くの予想外だと示す声が忘れられないのではないかという予感に身震いする。
……私はいったい……何を……?
「ウフフアハハ! ホントに連れてきてくれたんだ」
ほとんど自失しているシャロン。そんな彼女をあざ笑うかのように、室内に立ち込めた闇の空気が濃くなる。闇が晴れたとき、シャロンの予想通り――黒衣の少年が目の前にいた。
「まさかホントにさらってくるとは思わなかったよ。アリガトね、シャロン……フフフ、あはははは!」
「……」
浮かび上がり、額がくっつくほど顔を近づけてくるシャリにたまらず、シャロンは目を逸らした。
「それにしても、世界を救う勇者様が……ふふっ、人さらいだなんて。あ~あ、矛盾しちゃうよねぇ。正義の味方なのにさ。許せないよねぇ。ね、その辺りどう思う? そこの王子様としては」
シャリが暗い瞳をシャロンの背後に向ける。後ろ――?
――!?
「シャロン――!? お前は――」
「レムオン!!」
青ざめて、シャロンは振り返った先に佇むレムオンを見つめた。彼の赤い瞳が疑うように揺らいでいる。
「フフフっ……」
シャリが笑う。
「さてと。後は若い御両人にお任せするとして。僕は彼女をもらってとっととお暇させてもらおうかな~」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、オイフェの体が闇に包まれて消える。シャリが連れ去ったのだ。
……シャリが消えたら、もう――!
焦ったシャロンは思わず振り返って――シャリの怪訝そうな顔と出会った。自分の様子はそんなにも必死なのだろうか?
一瞬が永遠のように思われた。少年の眼差しがすっと細まる。咎めるように? いや、呆れるようにかもしれない。
「……あ、そうそう。勇者様に報酬を忘れてたっけ。じゃ、失礼して……」
シャリが何やら術をかけると、小さなうめき声をもらして、レムオンがばったりと倒れた。
「レムオン!」
「心配しなくても、眠ってるだけだよん。こんなの今回だけだからね。……今度こそじゃあねシャロン」
慌ててレムオンを助け起こしたシャロンは、シャリが闇に消えるのをじっと見送っていた。