あたしを助けてくれていたものは、全て消えてしまった。
気の遠くなるような闇の中、あたしを支えてくれたパールはもう無く、色々なことを教えてくれた、あの直感ももう消えて、あたしは、ただの、普通の女の子だった。
あたしは無力だ。無力な人間だ。
何も持たず、たいした力もない、ただの人間だ。
あたしは気がつけば、闇の中をただ一人、歩いていた。
気付けば、あれほど辛かった痛みはもう無く、眩暈も襲っては来なかった。
……あたしは心に傷を持ってる。
だから弱い。世界をそのまま鮮やかに見れないほど、弱い。
いつもいつも、それを世界そのもののせいにして、自分は悪くないと逃げていた。
誰も信じられないと思っていた。
何もかも信じられないと、目を背けていた。誰にもあたしは救えないと、幼い怒りをくすぶらせて。
そんなあたしを、たった一人救ってくれた人がいた。
彼の姿が、あたしには救世主に見えたんだ。
彼が例え、生きている人間を誰一人救わなかったとしても。例え人間と言う生き物を蔑んでいたとしても。この町を滅びに導く存在であったとしても。
そんなことは、どうでもいい。
あたしを最初に救ってくれたのは、あたしに本当の世界を取り戻させてくれたのは、シャリだった。
でも、今はそれだけじゃない。
確かにシャリは、あたしにとって、恩人だった。精神的な意味でも肉体的な意味でも、彼の存在にどれだけ救われたか分からない。
でも、今は、決してそれだけではない。
この手を血に染めても、掛け替えの無い肉親を殺すことになっても、大事な友達を殺されても、それでも、彼の元を離れなかったのは、あたしが、彼を――愛しているからだ。
……返して。
「必要なのよ――ッ!」
どこまで続くとも知れない闇に向けて叫んだ。
例え――
例え世界中の全てが彼の存在を疎み、滅ぼそうと望んだって……あたしは……きっと、彼を好きでいるだろう。
あたしには、居なくちゃ、ならない存在なのだ。
あたしは胸を掻き毟り、泣き叫んだ。
「返してよっ――大好きなの! 必要なの! 居なくちゃ、生きてる意味が……分かんないの……!」
そう訴えた瞬間、パリン、と何かの砕けるような音が響き渡った。と同時に、あたしの前を風が吹き通る。
思わず膝をつきそうになっていたあたしは、ハッと姿勢を立て直し、視線を飛ばし、そして、見つけた。
あたしの大好きな人。
あたしの恩人。
あたしが――命を懸けて守ろうとした人。
ようやく会えた――
/*■*■*/
虚無の子は、力無くその場に横たわっていた。目を閉じ、生きているのか死んでいるのか分からない様子は、榊原の家で獣に襲われていた時と似ているけれども、違った。
シャリの顔には、まるで陶器に入るそれのように、一筋の亀裂が走っている。
あたしは立ちすくんだ。
――今度こそ――
死んでしまったのではないか。
せっかく会えたのに、もう言葉を交わすことは叶わないのではないか。
どすん、と肩の辺りに黒いものがのしかかったような気がした。目の前が暗くなり、闇の中に立ち消えて行く――
「……メイ?」
か細い声に、ふと我に返る。シャリがほんの少し目を開き、あたしを見上げて、不思議そうにしていた。
い――
「生きてた……」
安堵のあまり腰が抜け、座り込む。壊れ物を扱うようにそっと抱き起こすと、彼は微かな微笑みを浮かべた。
「失敗しちゃったよ――きっとあの子に怒られちゃうね」
それが誰を示すのかすぐに悟り、あたしは口を開いた。こみ上げそうになる涙を、何とかこらえ、嗚咽の混じらないようにぐっとお腹に力を入れて、喋った。
「……大丈夫よ。シャナのご同類が、こんなに頑張ったのに、シャリを怒るわけないでしょ?」
返事は一拍遅れて返った。
「……そうだね。そうかもね」
シャリは驚くほど邪気のない様子で、フフッと笑う。そして、ゆっくりと右手を上げると、何を思ったのか、あたしの頬に手を触れた。
その動作だけで、ぴしり、と彼の手の甲に亀裂が走る。
シャリの顔から、笑みが消えた。
あたしは気が気で無かったが、シャリの顔から目を離せないでいる。その一挙一動、浮かぶ表情の全てを頭に焼き付けておきたいと言う強い衝動が沸き上がった。
「ぼくはここで朽ち果てる」
息が止まった。あたしは目を見開く。
「はやく、ここをでないと。君も崩壊に巻き込まれてしんじゃうよ」
シャリの声は、どこか舌ったらずだった。見れば、首筋から一本のびた亀裂が、口元まで達しているのだ。あたしはその痛々しさに眉をしかめ、シャリの手に自分の手を重ねた。いつものように、彼の手は、ひんやりと気持ち良かった。
「あたしは……ずっと、シャリの側に……居るから」
気を抜くと、泣いてしまいそうで、それだけはしたくなくて、だから言葉は切れ切れになってしまう。それがまた悲しくて、あたしは眉をぎゅっと寄せた。
「側に……居るから」
シャリは、首を傾げる。その仕草すらも辛そうで、上手く出来ないようだった。
「そう……言えば、きみは、最初から最後まで、ずー……っと」
シャリの手から力が抜け、ぱたりと落ちる。
「ずっと、僕の味方だったっけ」
胸が詰まって、言葉を返せない。口を開けば、何か別の言葉が飛び出して来そうで、あたしはただ頷くことしか出来なかった。
するとシャリは何故かあたしから顔を背け、何かを考えるように、もどかしげな顔をした。
「あ――れ……? なぜ……?」
シャリが独り言のように、言った。不可解そうに目線を下げる。
「……何か、少し……う、れ、し……い?」
「え?」
「……」
思わず聞き返しても、返事は無い。シャリは顔を背けたまま、何かを考えているようだった。
あたしはその静かな時を、ぴくりとも動かずに待っていた。そうすることが正しいのだと、何故か愚直に信じ込んでいた。
ややあって、シャリは再びあたしに顔を向けてくれた。その拍子に、ピシリ、と新しい亀裂が入る。でもシャリの顔から悩むような表情は消え、ただ、少し、眠そうだった。
「叶えてあげるよ……きみの、願い。最後に一つだけ」
シャリが言うには、信じられないほど意外な言葉だ。でも……
あたしは首を傾げた。何を、分かりきったことを聞いて来るのだろう。
あたしの願い?
そんなもの――
「十分だよ。あたしの願いなんて、一つだけだもん」
あたしは微笑んだ。微笑んで、胸の奥にしまった、もう一つの願いを注意深く隠した。
「あたしは――、シャリの願いを救いたい」
軽く見開かれた目に向かって、静かに声を投げる。
「この世で、一人ぐらい、あなた自身の望みを叶える者が居ても、いいでしょう? ……でも、今のあたしには大したことは出来ないと思うけど……"力"も無いし、あたしって意外と泣き虫だし。でも、一生懸命頑張るから」
シャリが今度こそ、本当にびっくりしたかのように、大きく目を見開いて、あたしの言葉を繰り返した。
「僕の――願い?」
ピシリ。どんどん亀裂が広がって行く。あたしの世界にも、同時に亀裂が広がるようだった。あたしは混乱しそうになる頭を必死に抑えつけ、うんと頷いた。
すると、シャリは微笑んだ。
「え――?」
あたしがびっくりして悲しみを忘れてしまうぐらい、優しい微笑みだった。
それは、夜明けを迎える時の微笑みであり、母親が、生まれたばかりの子どもを迎えるために浮かべるようなそれであり、戦い疲れた戦士が、誰かの腕の中で眠る時のような微笑みだった。
ピシリ――
「僕の、望み、は――」
シャリの口が、何かを表して動く。でもあたしは、その声を聞くことが出来ない。もうシャリの声は聞こえて来ない。シャリの体がどんどん薄らいで行き、重力から逃れて浮かび上がる。
「……シャリ?」
シャリはもう、答えない。あたしの方を向きもしない。そのどんどん薄くなって行く体に、手を伸ばした。
「あっ――」
求めて伸ばした指先が、虚ろにすり抜けてその体の向こうまで突き抜ける。
バランスを崩して倒れ込み、そして、再び顔を上げたその時、あたしの愛した少年の姿は、どこにも無かった。
彼は幸せだったのだろうか
あたしは彼の後を追おうとする意識の中、思う。
幸せだったのだろうか。
満ち足りていたのだろうか。
それとも心残りだったのだろうか。
あたしにはどれも分からない。それに、答えが出る前に、あたしは居なくなるだろう。
だからその前に――
あたしはシャリの寝ていた場所に手を伸ばし、虚無だけの広がるそこを、抱き締める。
最後まで、一緒だから――
抱き締めたまま、あたしの意識は消えた。