目と鼻に、ぬるりとした感触があった。鼻血を出したのだろう。頭がガンガンと痛い。拳で強く拭い、ぐっと膝に力を込めて立ち上がる。
驚くほど体に力が入らず、膝がガクンと崩れた。
「駄目!!!」
血を吐くように絶叫し、何とか持ち直す。
まだ、負けられない。まだ、全部が終わったわけじゃないんだ。
けれども体はまるでふやけた人形のようで、背骨にヒビでも入ったのか真っ直ぐ立つと引き裂かれるような痛みが走る。内蔵にも損傷があるのか、胃袋の辺りが鈍痛を訴えていた。
……それでも。
あたしは、モンスターも人間も力尽きて横たわる地獄絵図と貸した屋上の床を、一歩一歩、初めて立ち上がった赤子のような足取りで踏みしめた。
体を一ミリでも動かすたびに苦鳴が漏れる。あたしは荒く息を突きながら、襲い掛かる眩暈と戦った。気を抜くと、今すぐにでも倒れてしまいそうだ。
そうしながら、あたしは体を二つに分かたれたかのような喪失感を味わっていた。心にぽっかりと穴が開いたような気がする。
ずっと、ずぅっと――あたしの側に居て、あたしを包んでくれていた、暖かい力が、もうあたしの側から消えている。姿形の異なる者と心を通わせ、一目見ただけで大好きな人の感情を読み取ることの出来た、あの力が、あたしの中には残っていない。
「は、はは、ははは……!」
涙がこぼれた。一筋だけ、頬をすべり、雨と混じって地面へと落ちて行く。
もうあたしには何も残ってないんだ。
今にも挫けそうなあたしの足に、何かがまとわりつく。緩慢に振り向くと、倒れていた女の子が、歯を食いしばって掴んだ。
その隣で、もつれ合うように倒れているのは、ブラックだった。ブラックはぴくりと身じろぎしたものの、女の子を見てもあたしを助けようとはしない。
――。
あたしは、前を――あたしを呼ぶように開いている扉の方を向き、再び足を動かした。もともとほとんど力の入っていなかった手があたしの足から外れる感触がある。
――もうシャナは行ってしまっただろうか。
――まだシャリは生きているだろうか。
――まだ、あたしを見て、笑ってくれるだろうか。
あたしは、懸命に足を動かした。何度も何度も挫けながら、倒れている者たちを踏み越え、千切れるほど手を伸ばした。
――その手が、扉の淵に、届いた。
/*■*■*/
先日見た繭は、その大きさを増し、強い光を放ちながら、鎮座していた。まるで内臓のように脈動する部屋の中、シャナとリュウトウが、繭と対峙している。
シャリは――
シャリの姿は――繭の、その中心に、あった。沈み込むように深く首を曲げ、膝を抱え、半透明の膜の中で目を閉じている。
あたしは入って来た扉のすぐ側でその様子を見て、居ても立ってもいられなくなり、駆け寄ろうとした。
でも、もう走るほどの力は、あたしには残されて居なかった。瞼は重く落ちかけ、筋肉が痙攣してガクガクと力が入らない。悔しさに涙がこみ上げ、あたしは声を殺して泣いた。シャナにこの姿を見られたくなかった。
こんなボロボロで、惨めな姿を見られるぐらいなら、死んだ方がマシだ。
リュウトウが、何度も何度も繭に斬りかかった。彼にだって、もう力など残されては居ないだろう。あれだけの激戦をこなした後で、立っているだけでも驚きだと言うのに、その上まだ刀を振るう力が残っているとは。
けれども、分厚い繭が、その斬撃を全て吸収してしまっている。繭は今やその衝撃さえも吸収し、不気味な光を増しているように見えた。
シャナも、黙って見ていた訳ではない。多分、あたしが来る前から、ずっと繰り返しているのだろう。手のひらに光を集め、リュウトウの怪我だらけの体にかざしている。そうして回復した体力を使い、リュウトウは無謀な攻撃を繰り返している。体が壊れるまで続ける気だ。
そのひしひしと伝わって来る気迫に、あたしは胸が締め付けられる思いだった。
――これが、無限のソウルなんだ。
世界を、自分の信じたものを守るために、全てを賭けて戦える。
これが、あたしの敵だった者たちなのだ。
訳もなく涙がこみ上げた。あたしは気づけば、嗚咽を上げて泣いていた。でも、もはや意識も混濁しつつあるであろう二人は、気づきもせず、ただ必死に戦っている。この町を守ろうと、戦っている。
「あっ」
声を上げる。あたしのすぐ前で、リュウトウが倒れた。手から離れた刀が転がる。あたしが手を伸ばす前に、シャナが支えようと手を伸ばす。でもそのシャナも、リュウトウの体重を支えられずに、崩れ落ちる。
「……シャ――ナ、」
掠れた、まるで最後の吐息のような声で、リュウトウが相棒の名前を呼ぶ。
シャナは小刻みに痙攣しながら、やっとと言った感じで、首をリュウトウの方に向けた。
リュウトウの瞼は、もう半分、落ちている。もはや体どころか、喉にも力など入らないはずだ。こんなの人間の限界を超えている。
「シャ、ナ……こ、の……町を、お前と、この――この、町を、守るんだ」
「……いいんだよ、もう、頑張らなくって……も。ヨウジ、たくさん頑張ってくれたもの……皆のために……私のためにも……頑張ってくれたの、ずっと見てた……」
シャナの瞳から、一滴の涙がこぼれた。その涙が彼女の頬を伝い、生きた床へと吸い込まれて行く。
「大好き……あなたに会えて……良かったァ……」
シャナが微笑んだ。リュウトウの目が、その言葉を受けて光を取り戻す。その、決して動かないはずの手が、動いた。ぴくり、ぴくり、と痙攣のように動いている。
何がしたいのか――と見ていると、リュウトウの手はやがて、刀の柄に触れた。彼はそれを頼りにして、奇跡のように刀を突き立て、それを頼りに、何と――立ち上がった。
「ヨウジッ――」
「お前、は――シャナは――」
リュウトウの目が、炎のように輝く。天高く燃え上がり、雲さえも突きぬける業火のように。
「俺が――守る!」
リュウトウの体から、気炎のように、眩い光が立ち上った。こんなに離れていても、びりびりと肌を刺す圧迫感が伝わって来る。
その光は、まるで、あたしが死に掛けた時に見た天上の光のようだった。
その光は、見たこともないほど美しく、気高い光だった。
――あれは――いつか見た。ソウル、の光……と、似て。
「いけない……」
あたしはそう口走った。
「いけない! ソウルを燃やして力にしちゃったら、死んじゃうよぉ!」
喉が裂けるほどの勢いで叫んだ。
シャナが、今初めて気づいたかのようにあたしの方を向いた。
リュウトウの体から立ち上った炎が、繭を突き破ろうと迸る。
「お――おぉぉぉぉぉぉ!」
リュウトウの目がこぼれんばかりに見開かれ、額に血管が浮く。
悪しきものを浄化する光が、繭に突き刺さった。
――。
心なしか、繭の光がほんの少し翳った気がする。
けれども、破壊には至らない。全然足りない。
リュウトウの顔が、歪んだ。
見ていたシャナが、よろけながら立ち上がる。
何をするの――?
信じられない思いで見ていると、シャナはリュウトウの手に、自分の白い手を重ねた。
すると、彼女の体からも、白い炎が立ち上る。
リュウトウから迸る炎が、逆に勢いを弱めた。彼の戸惑いが、そのまま炎の勢いを殺したのだ。
言葉はなくとも、彼の視線は語っていた。
"お前まで死んではいけない、やめるんだ"
多分、あたしなんかよりずっとリュウトウの側にいたシャナには、即座に、もっと細かいところまで感じ取れたに違いない。彼女は拗ねたように唇を曲げて見せ、それから、言った。
「私、ヨウジのいない世界なんて……いらないよぉ」
涙や埃でぐちゃぐちゃの顔で、はにかむようにそう言ったシャナの顔は、綺麗だった。気高かった。
ああ、これは、もう――敵わないなぁ。
あたしは顔を手で覆った。何度拭っても、後から後から涙がこみ上げて、止まらない。自分でも何故泣いているのか、分からなかった。ただ、目の前で繰り広げられている光景が、この上なく神聖なものに見えたのだった。
光が太くなった。今までピクリともしなかった繭に、ぴしり、と亀裂が入った瞬間だった。
「まだ、足りないの――?」
ヒビは、入った。でも、破壊には至らない。その様子を見たシャナが、絶望的に呟く。文字通り命を懸けて立ち向かっていると言うのに、破壊出来ない繭。
……あたしはそこに、いつも飄々としているシャリの執念を見たような気がした。
シャリ――
あたしはむしょうにシャリを抱き締めたい衝動に駆られた。戦いの前に、そうしておけばよかった。
「……いつだって彼女はそうだった」
突然背後から声がした。
あたしが振り向くと、すぐ後ろに、榊原が佇んでいた。彼は、戦い続けるシャナとリュウトウの姿を視界に納め、ひどく遠い目をしている。杖を握り締めた手指が、白くなっていた。それほどの力を込めているのだ。
「……何よ、あたしに、トドメを刺しに来たの?」
「半死半生の君をいたぶったところで、面白くもなんともない」
榊原は――
エルファスは、言いながらあたしを追い越して、二人の背に近づいて行く。
「彼女はいつだって、他人のために身を投げ出していた」
「……」
「例え自分の身が危うくなろうと、躊躇なく」
エルファスは立ち止まった。濡れそぼった髪をかき上げ、杖を掲げた。
「僕は、そんな彼女の姿を見ながら――ずっと」
榊原の杖に、明るい色の光が集まって行く。
「"救い"を見ていたんだ」
――、
――……白い光が、禍々しい部屋一杯に広がった。
ピシリ――
シャリの築き上げた計画に、亀裂の入る音がした。
ピシ、ピシ、ピシ。
亀裂は止まらない。全てを打ち砕く光が、今、あたしやシャリの思いを呑み込んで、なぎ払って行く。
――シャリ。
あたしは、咄嗟に止めようと手をのばした。必死だった。何かを考えている余裕は無かった。
その手指の先が、砕け散った繭の残骸に触れる。
悪しき欠片たちが、全てを生み出した闇へと回帰して行く。全てがスローモーションに見えた。舞い散る欠片の一片一片まで、全て目で追える。
欠片たちの、中心に居たシャリの顔が闇へと没し、あたしの目の前から消えた。
あたしは泳ぐように闇を掻き分け、破片を掻い潜り、泣き喚きながら、手を伸ばす。ただ呼んだ。ただ求めた。ただひたすら、彼を。目の前で失われようとしている、彼だけを。
あたしの血まみれになった指先が、闇の最も深い部分に触れた――と思った瞬間、突然電気を消されたように、あたしの目の前が真っ暗になった。
――終わっちゃったよ
シャリ。
あたしたち負けちゃった