キィンと耳鳴りがする。それも徐々に遠くなって行く。
気がつくと、あたしは野原に立っていた。あたしの身長程にもあるススキに囲まれている。むせ返るような麦わらの匂いがした。夏の匂いだった。
ああ、ここは、静岡のお婆ちゃんのところだ。
幼い頃、あたしはよく近くの山や野原を探検して回った。見た事もない虫や景色を見るのが楽しくて楽しくて、気がつけば日が暮れていることなどザラだった。
遅くに帰って来たあたしを、お婆ちゃんはそのしわしわな手で撫でてくれた。鍵なんて掛かってない玄関口で出迎えてくれたお婆ちゃんが、困ったように微笑む。メイは本当に好奇心が強いんどぅねぇ。あたしはお婆ちゃんにへへへ、と照れ笑いを返した。あの時は褒められたような気がして自分の性質が誇らしく、これはあたしの勲章なのだと思っていた。
すると突然、お婆ちゃんのしわくちゃな顔が、闇の中に沈んだ。
次に見えたのは、父さんの困惑した顔だった。東京の中学校に行きたい、だって? 低くて静かな、あたしの大好きだった声。
胸の中でぐるぐると感情が巡る。分かってもらえない苛立ちと、父さんに対して溜まった日頃の鬱憤が吹き出す。
気がつくと叫んでいた。
「ママを殺したくせに! ママを返してよ!」
父さんの凍りついた表情が、闇に沈む。そして今度は、見知らぬ男の顔が現れた。無精ひげの生えた顔と、日に焼けた肌。あたしの視界はぴくりとも動かず、男を凝視して止まっている。男は唾を飛ばして何かを叫んでいた。ひどい耳鳴りがして、何も聞こえなくなった。
しばらくすると、その場面も消えた。
は、ハハ、は……これ、走馬灯って奴?
ぼんやりとした暗闇の中、あたしは思考した。走馬灯。死ぬ前に見るって言う、アレ。
……あたし、死ぬの?
……そっかぁ、死ぬのか。
そう考えると、その事実がすとんと心に収まった。それはとても自然なことに感じられた。
そうしていると、何かに引き上げられるように、ぐーんと視界が高くなって行く。まるで背中に翼がついているかのように、急激な上昇感が続いた。目の前が再び、真っ白に染まって行く。意識が焼き切れるように途切れがちになり、思考が続かなくなる。
さらに昇って行く中で、あたしは目を閉じた。
……こんな最後も、悪くないよね……あたし、じゅうぶん頑張ったもん。みんな、きっと許してくれるよね。
――メイ
……?
――メイ。
たおやかな声が響いた。声はあたしの閉じかけていた心の扉を優しく叩く。
あたしは全てを慰撫するようなその声に、扉を開いて、そっと顔を覗かせた。温かな光が、あたしの中に流れ込んで来る。
懐かしい、悲しい、気配だった。
――まだ、あなたがこちらに来るのは早すぎますよ。
……でも辛いよ。苦しいし、痛いし、どうしてこっちにいなきゃいけないのか、分かんない。あたしなんていたって、しょうがないのに。
それよりそっちに行きたいよ。ねぇ、連れて行って。
――それはいけません。メイ、あなたにはまだやるべきことと、やれることが残っています。
……でも、痛すぎて、もう体が動かないよ。
――私に残された力を、あなたにあげましょう。だから、絶望しないで。
メイ――私の明。世界を照らす薄明り、その申し子。あなたの生きる世界がどうぞ明るく色鮮やかな物でありますよう――
温かな気配があたしの中で消える。
さしのばした手が触れたのは、別の光だった。
――メイ。
今度はだれ。どうしてあたしを眠らせてくれないの。
――メイ、こんなことを言えた義理じゃないのは分かってる。だが言わせて欲しい。頼むから生きてくれ。
……何で、あなたがここにいるの?
あたしが憎いでしょ!? あたしはあんたを殺したのよ!!
――生きてくれ。そして、お前がもっと年を取って、親になった後、こちらに来たら、一緒に話そう。何時間でも話そう。言えなかったことも、言いたかったことも全て。
父さん……
――愛してる、私のメイ。色々、本当に色々なことがお前と私の間にはあったな。だが、私は、お前の父親になれたことを後悔してはいないんだ。
あたしは、もっとあなたと話したかった! 生きてるうちに、一緒に、居たかった……の、に……
声が遠ざかり、それとは逆に光はあたしに引き寄せられ、一体となる。
あたしは声を上げて泣いた。少なくとも、泣いたつもりになった。
――メイ。
泣き顔のまま振り向くと、そこには真っ白な、小さな光が浮かんでいた。
――メイ。泣かないで。悲しまないで。あなたの悲しみは、私たちの悲しみだから。
思い切り彼女の名前を叫んだ。もう二度と手放してなるものかと、光を強く抱き締める。けれども、そこに感触はなく、光は虚しくもあたしの指をすり抜けた。
――ねぇ、メイ。力を持っていたのが貴方でなければ、私たちはきっとこんなに働こうとは思わなかった。あなたと一緒に笑って、泣いて、戦った日々が、本当に懐かしいの。また、あなたの隣で眠りにつきたいわ。
あたしも、あたしだって!!
叫んだ声は、掻き消えた。声にならない声が、光に吸い込まれて行く。
――もう少しだけ、メイと一緒に居たい。……ねぇ、いいかしら?
いいに決まってるでしょ……? あなたは、私の、たった一人の、相棒なんだから。
白い光が、嬉しそうにあたしと一つになる。涙がぽろぽろとこぼれた。嬉しいやら悲しいやらで、胸が張り裂けそうだった。
あたしの中に入った皆が言っている。死ぬな、生きろ、って。早く戻れと、ひっきりなしに急かしている。
――そうだ。あたしは何を勘違いしてたんだろう。
あたし一人の命ぐらいで、あたしの罪が償えるはずもないのに。何を思いあがっていたのだろう。
まだ死ねない。まだ楽になるわけに行かない。まだやらなきゃいけないことが残ってる。
死にたくない。死ねない。
強くそう思った。
そのとたんあたしの体は、一転して底のない奈落に向けて落下を始めた。ひゅるるる、くるくると回転しながら落ちていく。心地良い消滅から、地獄のような現実へと。
堕ちる、落ちる、オチル――
流れ落ちた一滴の雫が泉に波紋を広げるように、あたしの胸に言葉が降って来る。
――戻っておいで、メイ。
退場にはまだ早すぎるよ。
まだ、僕は痛感してないよ。
開き直った君がどんなに厄介なのか、思い知らせてくれるんでしょ?
言葉に腕を引っ張られ、あたしは降り立った。
目を、開けた。