熱風が、頬をなでる。動物か化物か、何のものともつかない遠吠えが耳をくすぐった。
その都市はウルカーンと言う。
バイアシオン大陸の北東に位置する、火の巫女を頂点とした都市国家である。
炎の精霊が多く存在していて、冬であろうと夏であろうと、変わらぬ熱さで冒険者たちを迎える。
日も暮れ、何人も寝静まるような深夜。
崖に面した細い道が蛇のようにくねって、町の方までのびている。ごつごつした岩肌は、精霊の色を映しているのか赤く染まっていた。
普段から人気もなく、まして深夜となればなおさら。
そんな道――そんな暗闇の中、ひたひたと静かな足音が響いている。
闇の中浮かび上がった人影は、まだ少女と言っても通用しそうなほどに細く、小柄だった。髪の色は漆黒で、闇の中に溶け込むようだ。あどけないとすら言える容貌だが、彼女の黒い瞳は凛と前を向き、決して逸らされることはない。
緑色のクロースの上に装着しているのは、鈍い銀色の光を放つボディアーマー。小脇にしっかりと抱えているのは、不釣合いなほどに大きな黒の槍だった。
あからさまに重そうな装備をしていても、彼女の足取りも息も乱れはしない。ぴんと背筋をのばしたままの姿は、いっそ彫像めいている。
――?
彼女はふと、産毛を逆立たせる何かの違和感に足を止め、鋭く左右に気を配った。
何か――いる。
胸の中で警鐘が鳴り、彼女――リヒトは得物を握る手に力を込めた。ひんやりとした感触が返ってくる。
その時、彼女の背後で闇が蠢いた。
彼女は殺気を受けて胸にほとばしる、歓喜とも興奮ともつかない何かに身を任せて槍を振るった。
夜の闇に金属の触れ合う高い音が弾ける。
リヒトは背後の何者かに槍が受け止められたのを感じると、甘いと胸中で罵って容赦なく槍を振り切った。力には自信があるのだ。
「っ――!」
果たして甲高い音が長く尾を引き、夜空に相手の剣が舞った。
リヒトは息を吐いて振り返り、襲撃者の正体らしい長身の男を見て――目を見開いた。
「その目――」
闇の中に浮かび上がったのは、その闇にも負けぬほど鮮やかな赤の瞳と、ぎらぎらと輝く短い銀の髪だった。
リヒトはその特徴を持つ種族を一つしか知らない。
「ダルケニス――」
ダルケニス。未だ偏見と迫害の中に存在する種族である。赤い瞳、銀色の目、そして――、人の血を吸うという邪悪な種族だ。
リヒトは純粋な驚愕に身を引く。
そのダルケニスは狼狽するようによろめいて、後ずさりをした。そして突然暗い空を見上げると、頭を抱えて――
「うぉおおおおお!」
叫び出した。
聞く者の胸を突くような切ない咆哮だった。
リヒトは思わず身を硬くして、再び槍を構えた。
だが男は襲ってくるでもなく、仰け反って――、突然精霊神殿の方へわき目もふらずに走り出した。
そしてリヒトが呆然と見る中、崖下に飛び下りる。
リヒトは遠ざかって行く重い足音に、襲撃者が去ったのを知った。
我に返り、男の消えた崖に駆け寄って下を覗く。……が、男の姿はすでになく、ただ恐ろしげな急斜面のみがそこにはあった。
一体何だったというのか。
……ややあって、リヒトは男が落として行った剣を調べてみようかと、辺りを探した。闇夜に輝くそれを拾い上げる。
と、同時に何か涼やかな音がして、小さな影が地面に落ちた。
リヒトは、再び屈んでそれを拾った。
「……これは?」
指の先でつまんでぶらさげると、それは小さな赤い宝石のついた耳飾りだった。片方しかない。
もう片方はどこにあるのかと、辺りのざらついた地面に手を這わせて探ってみる。だが、収穫もなく。
リヒトは小さく息をついた。耳飾りを懐にしまうと、空を見上げる。
「今日は、新月だったか」
月のない夜。ダルケニスは、その日にのみその正体を現すと聞いたことがある。
「……あのダルケニス」
リヒトは物思いにふけるようにゆっくりと立ち上がると、顎に手をやった。
「泣いていた」
石畳の薄暗い店内。灰色の商品棚が並び、どこからかツンと鼻を刺すような薬品臭がしていた。
謎のダルケニスに襲われてから、一日が経った朝である。
リヒトはいつものように巨大な槍を小脇に抱えて、その店内――道具屋に入る。
胡乱気な視線を投げてくる店主にそ知らぬ振りで、リヒトは元気の薬などをじっくりと眺めた。
しばらくして、リヒトはいくつかの薬を手に取ると、カウンターにそれを持って行った。
「これを包んでくれ」
「はいよ。……お嬢ちゃん、冒険者かい?」
慣れた風に包んでくれる店主に、無表情に頷き返す。そしてリヒトは思い出したように
「依頼で来たんだが、昨日モンスターに襲われて難儀した」
「へぇ。モンスターにねぇ。どんなのだい?」
「それが、私も初めて見た。……ああ、そう言えば耳飾りを片方、落としたな」
「何だって? そりゃ物騒だな、おい。その耳飾りってのは、まさか町の奴のもんじゃねぇだろうな」
リヒトは懐を探って片方だけの耳飾りを取り出すと、不安そうな顔の店主に見せた。
彼はしげしげと手に取ってそれを眺め、「あ!」と声を上げた。
「……こりゃ、鳳凰山に最近住みついた男が付けてた奴だよ」
「鳳凰山に?」
鳳凰山……、確かウルカーンの近くにある山で、鳳凰が住むという伝承があった。リヒト自身、かつて鳳凰の形をした闇の怪物と戦ったことがある。
店主は顎をさすりながら頷いた。
「最近噂になってる男で、何とあのモンスターだらけの山に何が楽しいのか住み出してねぇ。しかもその場所がてっぺんだって言うから変わってる。いや、とうとうモンスターに喰われっちまったのかねぇ……」
「そうか」
そこまで確認したところで、リヒトは何でもない風を装ってギアを払うと、踵を返した。
「あ、ちょっとアンタ! これ、薬!」
「すまないが、気が変わった」
リヒトは少し振り返ってそう告げると、詮索を避けるように足を早めた。と。
騒々しい足音が外から近づいてくる。
リヒトは立ち止まった。
「良かった、持って行く気になってくれたか。いやどうしようかと一瞬――」
「リヒトー!!!」
その時、一人の女が店に駆け込んできた。
女と言うよりも、少女と呼ぶべきほっそりとしたなりだ。長い栗色の髪を高い位置で結っている。ぱっちりした目が特徴で、はつらつとした雰囲気が漂っていたが――、身にまとっているのは鮮烈なばかりの青い鎧であり、手に持っているのは死神を思わせる禍々しい鎌だった。
彼女――今の旅の同行者であるカルラは、ズカズカと近づいてくると、眉を吊り上げる。
何かと思って見ていると、リヒトは細い指の先を突きつけられた。
「ん〜ふふふ、それで何か言いワケとかあったりしちゃう? 私、一晩中待ってたりしたんだけどなぁ」
「そうか」
リヒトは頷いた。
それを聞いたカルラは目を剥いて地団太を踏んだ後、リヒトに詰め寄ってくる。
「リヒト! どうしてあんたってばそうなのよ!」
「すまなかった」
カルラはもう一度口を開き――閉じてがっくりと肩を落とした。
「はー。リヒトってば私の配下だった時からそうだったもんね。今さら言ったって無駄か」
「仕事は完璧にこなした」
「ええそりゃもう、完璧でしたわよ。何てったって気がついたら側にいなくって、勝手にゼネテス追っかけてたもんね? あの後私がどんなに……!」
カルラはそこまで言って、「まぁ……いいわ」と改めてリヒトに向き直った。
「で、今度は何をやらかしたワケ? 昨日だって、フレアに会いに行くって言ってから帰って来なかったじゃない」
「そのことで、これから鳳凰山に向かう」
カルラは「はぁ?」と目を見開いて、鎌を担ぎ直した。
「鳳凰山? 一体なんでまたあーんな辛気臭いところに行くっての?」
「落し物を届けに行く」
リヒトはそれだけ説明すると、もういいだろうと思って外に出ようとした。
「ちょっと待って! フフフ、このカルラ様を置いて行こうなんていい度胸してるじゃない。私もついて行くわよ。いいわね?」
リヒトは振り向いた。
カルラは言葉こそ強気だが、ほんのわずかに不安そうな色を浮かべて、リヒトを見ている。
「……あなたの好きなように、したらいい」
リヒトはカルラの脇をすり抜けて、扉を開けた。
一人取り残された店主は、包んだ薬を手に呆けていた。
「これ……いらないのか?」
「……」
リヒトは後ろをついてくるカルラの苦しげな息遣いを耳にして、足を止めた。
鳳凰山は、岩の間から常に噴煙が噴出す神秘的な山である。道はお世辞にも歩き易いとは言えず、火のモンスターが跋扈する。
リヒトは今、頂上近くのくねった道にいた。崖をくり貫いたような形の道だ。頭上を見上げると、今にも崩れてきそうな岩の塊があり、その向こうは噴煙に閉ざされている。
リヒトはそのまま、おぼつかない感じの足音が近づいてくるのを、じっと待った。
「……どう……したの? ……あ、もしかして気遣ってくれてるわけ?……やっさしー……、でもカルラちゃんぜーんぜん平気だから……」
「息切れしながら言っても、説得力がない」
カルラは鎌を杖代わりにして、かろうじて立っているという風だ。
気が強くてかすみがちだが、彼女は到底、頑健な体をしているとは言いがたい。
大きく肩を震わせながら、彼女はリヒトを見上げて笑った。
「見くびらないでよ……、このくらいで音を上げるほど、カルラちゃんてばひ弱じゃないんだから」
「ここで休んでいるといい」
「……、それでアンタはどうするの?」
「頂上へ行く」
「バカ!」
リヒトはカルラに鎌を向けられたが、槍を構えることもしなかった。
「無理は良くない。体を壊す」
「そういう意味じゃないわよ! いい加減にしないと――」
「!」
リヒトは素早く目を左右に走らせた。冒険者としての勘が、そうしろと彼女に告げている。
「おい、アンタら人の寝床で何やってんだ。うるさくてかなわねぇぜ」
突然、上の方から声が降ってきた。
リヒトは何事かと思い、声のした方を振り向く。
頂上に続く道から、若い男が下りて来た。彼は頭を掻きながら、面倒くさそうにこちらを見た。
「あんたは……」
男は中肉中背で、二十歳前後に見えた。黒っぽいローブを着ている。くすんだ金髪とも、銀髪ともつかない不思議な色合いの髪。瞳の色は黒に近い。全体的にだらしがない雰囲気が漂っており、顔つきに締まりがなかった。
彼が噂の、鳳凰山に住みついた変人だろう。
男はリヒトを一瞥し――、ほんの刹那目を細くしたが、それだけだった。
リヒトは迷わず彼に近づくと、懐を探る。例の耳飾りを取り出して、男に見せた。
「これを。あなたのものだと思うのだが」
男はしげしげと耳飾りを見た後、肩をすくめて首を横に振った。
「知らないねェ」
「そうか」
リヒトはそれ以上聞こうとせず、首肯する。……が、どんなに見つめても男が何も言おうとしないので、仕方なく口を開いた。
「今日は、襲いかかって来ないのだな。私では不満か?」
「何の話か分からないんだが? 変な話ばかり続ける気なら、俺も暇じゃないんで、この辺りで失礼させてもらうが」
男は面倒くさそうに言って、そのまま去って行った。
カルラは男の方を不愉快そうに見て首を横に振った後、リヒトの方に向き直った。
「ねぇ、あの男ってリヒトの知り合い? ……じゃあないわね。何の用だったの?」
「……いや、落とし物を届けに来ただけだ。人違いらしいから、持って帰る」
「まーた説明もなしってワケね。もういいわ。慣れたから」
「そうか」
リヒトは引き返そうと数歩歩いて、立ち止まった。
「……この耳飾りはどうするか」