とりあえずウルカーンに戻るより他なかった。
それにしても……
リヒトは前を見据えたまま、ウルカーンへの道のりを黙々と歩いていた。
あの男こそが、十中八九昨日のダルケニスだろう。しかし一体、なぜ耳飾りを受け取らなかったのか。
それはともかくとしても、あの飄々とした態度はどうだ? ダルケニスであるということをばらすまいとして、あんな辺鄙な場所に住んでいるのだと思う。だが正体を知る私が目の前に現れても、たいして反応も見せない。
……それにもう一つ妙なのは、あの男が最初、現れる前に殺気を放っていたことだ。
いや、それそのものは自然な反応とも取れるが、その後にそれを消してしまったのはなぜか。
静かに考えながら歩いていると、すぐ前方に、ウルカーンの門が見えてきた。
長くのびた階段の手前にそびえるその門は、迎え入れるようにぽっかりと口を開けている。
そこまで来たところで、リヒトはふと思い出して後ろを見た。
カルラはかなり遅れてついてくる。かなり苦しそうだ。
……彼女にしても、無理をして私についてくることなどないというのに。それほどまでに私が気になるのか。救いたいか。ならばいい、私に向かってくるがいい。私を救って見せるがいい。だが私は高みへ昇る。誰にも到達できないような高みへ昇り、力を手にするのだ。
身を焦がすようなその情熱を思い、彼女はいっそう強く黒槍の柄を握り締めた。
「カルラ、無理ならついて来ることはない」
追いついてきたカルラに言う。……ぎらぎらした目で彼女に睨まれた。
荒い息を吐きながら、震える唇を無視するように言葉を紡ぐ彼女は、いっそ凄絶だ。
「ねぇ、あんたさぁ、何か勘違いしてない?」
「勘違い?」
「そうよ。私は、好きであんたについてってるの。無理だと思ったら、とっくにやめてるしやめるの。つまり、これは義務でも同情でもなく完全に不純物なしで私の意志ってワケ。お分かり?」
小首を傾げるカルラ。引きつったような笑みを浮かべている。
「好きにするといい」
リヒトは前を向いた。
守れるだけの力を、私に。祈っていても手に入らないなら、自分で手に入れるまで――
リヒトは、歩き出して間もなく立ち止まった。
「ぶっ!」
後ろでカルラがぶつかってきて、くぐもった声を上げた。
リヒトは小揺るぎもしない。
「いたた……、ちょっと、急に止まらないでよ……って、あれは……」
門の影に、いつの間にか小柄な影が立っていた。
気配も音もなく現れたその姿に、体がほとんど反射で緊張する。
いつでも飛びかかれるように、体を意識的に熱くする。そしてリヒトは門に近づいた。
「やぁ、久しぶりだね?」
リヒトが目の前に行っても、彼は驚いた様子もなく、クスリと笑った。
その少年は門にもたれるようにして立っている。どこかゆったりした、異国風の黒い服で、髪の色はリヒトと同系色。だがずっと暗く、濡れたようで、長い。顔立ちは端整そのものと言った感じだ。が、髪と同色の瞳は人形めいていて、全体的に見て虚ろですら、あった。
「シャリ……」
その少年は、リヒトとは常に敵対してきた闇の勢力の者だ。名をシャリと言う。
彼はリヒトが名を呼ぶと、何がおかしいのかフフフと口元を押さえて笑う。そして首をちょこんと傾げた。さらさらとした髪が肩をすべる。
「どうしたの? 今日はあんまり物騒じゃないんだね」
「……」
「前は、僕の顔を見ただけで武器を構えたのに。一体どういう心境の変化かな」
リヒトが答えようと口を開いたその時、後ろからカルラが駆け寄って来て、大鎌をシャリに向けた。
「あ〜らお久しぶりね? でもとっても残念だけど、確かあんたってば――」
リヒトは無言にカルラの鎌に手をかけると、無理やり下ろさせた。
カルラは少しよろめく。鎌は引いたものの、憤然と仁王立ちした。
「……ねぇ、あんたがおかしいのは前から知ってたけどさ、最近はちょーっとひどすぎない?」
リヒトは答えず、じっとシャリに視線を注ぐ。
「何か用があるのだろう。私に」
「さっすが、勇者君は話が早いねぇ。クスッ」
彼は小さく笑って、カルラの方に目をやる。
「でも、そのお友達はご不満みたいだよ?」
「不満なんぞあろうとなかろうと、お前は自分の目的に従うだけだろう。気にする振りなど見苦しいだけだ」
「うっわ、何か僕って盛大に嫌われてない?」
シャリは一人でそう言う。そして大げさに悲しそうな顔を作ると、すぐにおどけたような笑みに戻った。
「まぁいいや。確かにその通りだしね」
リヒトは小さく頷いて、次の言葉を待った。
「あのね、今日は君に依頼があって来たんだよ。冒険者さん」
「依頼?」
カルラが胡乱気な視線をシャリに飛ばした。
シャリはその視線を受けたのがよっぽど楽しかったらしい。その証拠にまたも含み笑いをして、「そうだよ」と頷いた。
「実はね、最近鳳凰山に住みついた若い男が、本当はダルケニスだっていう噂があるんだよ」
「……」
「もしそうだったら大変でしょ? だから、腕利きの冒険者である君たちに調査と討伐をお願いしようってことになったんだ」
カルラが隣で何か言おうとするのを、リヒトは無言で押し留めた。
「フフッ、どう? ちゃんと報酬は払うよ?」
シャリはそう言って、リヒトの言葉を待つように口を閉じた。目がいたずらっぽく輝いて、まるでリヒトたちが、今どこに行った帰りなのかを知っている風でもある。
……実際知っているのかもしれない。
リヒトはあまり間を置かずに口を開いた。
「ことわ――」
「これはウルカーンの総意だ」
町に続く階段の上から、杖を持った一人の老人が下りてきた。
彼は真っ赤なローブを身にまとっている。垂れ下がらんばかりに長い白髭を生やしていて、頭髪はなかった。
リヒトが無言で見守っていると、老人はすっかり下りてきて、シャリの隣に並んだ。
隣でカルラが身を硬くした。
あれは……
リヒトは、その老人の髭の下に隠されて、何か赤いものが首にかかっているのを、見て取った。
老人はシャリに目配せした。そしてこちらに向き直り、理知的な黒い瞳を向ける。
「私はこのウルカーンの長老だ。一年ほど前にシェムハザ殿の後を継いだ。ドゥルガーという」
リヒトは多少意外に思い、目を瞬いた。
もう次が決まっていたのか。ウルカーンはディンガル帝国の属領となっていたはずだが……、ネメア死すの噂がこんな所にも影響を及ぼしていたらしい。
リヒトは数年前、自分が殺した悲しい長老のことを思い出した。
落ち着いた雰囲気の老人――ドゥルガーに、リヒトは背をぴんとのばしたまま、会釈する。
「私は、リヒト。石火のフリントの娘で、冒険者だ」
「竜殺しのリヒト、か」
ドゥルガーは、リヒトの名をどこかで聞いたことがあるのだろうか。しかし口調は吐き捨てるようなものだ。
彼はシャリに確認するような目を向ける。
シャリは小さく笑って、頷いた。
「そう。彼女がかの有名な竜殺しのリヒト。この大陸の人なら、一度くらいは名前を聞いたことがあるはずさ」
カルラが声を上げた。
「ちょーっと待ってくれる?」
三人がカルラの方を向くと、彼女は頭を掻いて腰に手をやった。
「一体、何でシャリがその長老さんと親しくなっちゃってるワケ? それに……、何でリヒトに頼もうとするのよ、そんなこと」
「それはね、」
ドゥルガーが答える前に、シャリが一歩前に進み出た。
「僕が新しい長老さんのお手伝いをしてるからだよ」
「そうだ。東方の博士殿には何かと手伝って頂いている。失礼なことは許さんぞ、娘」
ドゥルガーはさっと険しい表情になって、カルラを見た。
カルラはそれにひるむでもない。あっけらかんと「あっそう」と言って、
「じゃ、わざわざ待ち伏せしてまで、リヒトに頼もうとするのは何で?」
「クスッ、ひっどーい。せっかく竜殺しがウルカーンにいるって言うから、待っててあげたのにさ」
シャリは言葉の端々でおどけたり、笑ったりと忙しくしながらカルラに言う。
それまで静観していたリヒトは口を開いた。
「ウルカーンの総意であろうとなかろうと、私は人殺しまがいのことなど絶対にしない」
ドゥルガーが驚いたように目を大きくした。探るようにリヒトを見る。
リヒトはその視線を真っ向から受け止めていた。
何秒かが過ぎた後、思い出したようにシャリが口を開いた。
「ねぇ、まだそんなきれいごとに見苦しくしがみついてるつもり? でも、君は竜殺し」
「……」
「強くなるために竜を殺したんでしょ? だったら、ダルケニスだって同じ理由で殺せばいい。何の気兼ねもいらないよ」
「……」
「ねぇ、君みたいな人間は大好きなんじゃない? 『命はみんな平等』とか、『僕らはみんな生きている』とか、そういうおためごかしがさ」
「……」
「だったらさ、みんなのためにちょっとぐらい、力を貸してくれたっていいんじゃない?」
「私は、」
そこでようやくリヒトは言葉を返した。
シャリは興味深そうな顔で、リヒトの言葉を待っている。
「お前が私をどう考えているのかは知らない。だが私は、ただ強くなりたいだけだ。……お前の言う倫理観念など知ったことではない」
「じゃあ見捨てるんだ?」
即座に切り返され、リヒトはシャリに鋭い視線を向けた。
彼は無表情だ。ますます人形めいた趣が強くなる。
「君が断っても、また誰か別の冒険者に頼むだけだよ。そうしたら、いずれそのダルケニスも討たれちゃうよね? それでも全く心は痛まないって訳? わー、さすが勇者君だね」
痛烈な皮肉だった。
リヒトはやや目を険しくして、シャリを見る。
「それは――」
「まぁ、別にいいよ。君が断るなら、別の誰かに頼めばいいだけだし」
シャリは長老と共に背を向けた。
「あ、でも――」
肩越しに振り返り、シャリは笑う。
「気が変わったらいつでも言ってね。……フフ、ちゃんと報酬は払うからさ」
「待ってくれ」
リヒトは去ろうとしたシャリに――、と言うよりは一緒に背を向けた長老に声をかけて、近寄った。
「これは、あなたのものだと思う。受け取って欲しい」
リヒトは懐から例の耳飾りを取り出して、ドゥルガーの前に差し出す。
老人は狼狽したように顔を青くし、唇を震わせる。そして髭の下に隠された何かに手をやった。
おそらく首飾りか何かだろう。薄っすらとしか見えないその赤は、今リヒトの手の中にある耳飾りの赤と、同じ色だ。おそらくは。
「そ、それは――」
「きれいな耳飾りだね」
リヒトが見守る中、出し抜けにシャリが言った。
シャリはリヒトに接近してくると、耳飾りを手に取る。
リヒトは抵抗しなかった。
「何で長老様のものだと思ったの? ……フフッ」
「首から提げている首飾りは、同じ石でできたものだろう」
「いい目だね。でも、勘違いじゃないかな」
深い疑念のようなものを感じさせる目で、シャリがリヒトの方を見た。
一体何を疑っているのかは分からない。……昔から、この少年の思うことが分かった試しなんてないのだが。
「そうだ!」
ようやく我を取り戻したのか、ドゥルガーが青い顔のまま言う。
「お前さんの勘違いだ……そんなもの、わしは知らん」
「なら、その首飾りを見せて欲しい」
「無礼な! たかが冒険者にそんなことをしてやる義務などないわ!」
後ろでカルラが、かなりムッとしたのが気配で分かった。
リヒトは何も答えずに、ただ老人の青い顔を見つめていた。黒い目を。耐えるように顰められた眉を。
「……まぁまぁ、そんなに怒ると、血管切れちゃうよ」
シャリは前に進み出ると、大げさにドゥルガーを気遣うような素振りをした。リヒトを見て、
「とりあえず、この耳飾りは僕が預かっておくけど、それでいい? 勇者君」
リヒトはわずかに眉を寄せた。
何か挑戦的な響きの言葉だ。何の挑戦だと言うのか。
……自分を信じるのか、ということか? 敵であるシャリを信じられるのかと、そう言うことだろう。
「好きにしろ」
「リヒト!」
カルラが思わず、と言った調子で声を上げた。
リヒトは小さく首を横に振った。
「お前の好きにするがいい。私は拒まない」
「……」
シャリはまた、疑うようにリヒトを見る。だが、何かに納得したように一つ頷いて笑った。
「じゃ、これのことは任せてよ。ちゃんとホントの持ち主だって……アハハ! 探してあげるからさ」
「頼んだ」
リヒトは無表情に答えた。
「んで、リヒトってばどうするの?」
ソーセージにフォークを突き立て、向かいに座ったカルラは言った。
リヒトは静かに朝のルーマティーをすすると、「依頼は受けない」と答える。
宿の一室である。とりあえず帰還し、十分に休養を取った二人は――特にカルラは筋肉痛で一晩中呻いていた――、夜が明けた後、運ばれてきた食事で腹を満たしていた。
パンの香ばしい匂いが食欲を誘う。
「あ、ソーセージがいつもより一本多いわね。……さっすが竜殺しは違うってワケ?」
カルラはソーセージを頬張りながら喋った。
リヒトは心もち、目を逸らしてカップを置いた。茶が熱すぎて、長く持っていられない。
「カルラ……、喋りながら食べるのは止めろ」
「へ? あ、ごめんごめん」
カルラはフォークを置くと、口元をナプキンでぬぐった。
「……って、依頼受けないの?」
初めて気づいたかのように目を丸くして聞き返してくる旅の連れ。
リヒトは小さくため息を落とした。
「じゃ、あのお兄ちゃんがダルケニスってのはガセ? ……ん〜、でもシャリだっけ? あのガキ。あいつの口ぶりからして、そんな風には見えなかったんだけどなぁ」
「あいつはダルケニスだ」
「えっ? じゃあ、退治されちゃうじゃん。……本当に見捨てるの?」
リヒトは立ち上がると、ベッドの脇に置いた荷物袋に手をかけた。
「いや、そうは言っていない」
「じゃあどうするのよ」
カルラは興味津々と言った感じで身を乗り出す。
リヒトはそれを振り返り、目を合わせると唇を引き結んだ。
「……私だけで行き、彼を逃がす」
リヒトは、あの青年を助けるつもりだった。あの夜の涙が、ずっと心のどこかに引っかかって離れない。
彼にも、意志があるのだろう。
カルラはこっけいなほど体を傾けた。
「ねぇねぇちょっと、その口ぶりだと、まーたカルラ様を置いて行こうってのね?」
「ついて来たいなら、来るといい。私は止めない」
それだけ言って、リヒトは荷物袋を担ぐ。そして大またに部屋を横切って、扉を開けた。
後ろで、カルラがあわただしく準備をする音が聞こえてきた。
「また、ここに来ることになった」
リヒトはぽつりとつぶやく。そして噴煙に抱かれるような様の、鳳凰山を見上げた。
あの男がまだ、この山にいてくれればいいのだが。
「お、リヒトってば結構やる気?」
隣で鎌を担いだカルラが、おちょくるように言う。
リヒトは小さく顎を引いた。
「どうしても、あの男を助けたい」
「へぇ……珍しいわね。リヒトがそんなにこだわるなんて。……まさか、」
何か取っておきのことを口にするような話し振りだ。
思わずそちらを注視する。
「恋?」
無言でリヒトはカルラの頭をはたいた。
「ふふっ、冗談冗談。あんたってば、いつもネメア様みたいに眉間に皺寄せちゃってさ。無感動なところあったから心配してたのよん? これでもさ」
「カルラに心配されるほど、おちぶれてはいないさ」
「ちょーっと聞き捨てならないわね、その発言」
二人で軽口を叩き合っていると、不意に――、リヒトの体を何かが走った。
ぴりぴりと静電気のような感触が肌を覆う。リヒトは眉を寄せてカルラの肩に手をかけた。
「え、何――?」
リヒトの背に怖気が走る。リヒトは勘に任せ、抱えた槍を頭上に投げた。
と同時に、雷が迸るような独特の炸裂音が響き渡った。天空から太い、いかずちが降って槍に突き刺さる。目のくらむような光が鳳凰山を照らした。
「っ……!」
槍は数秒ほど空中にとどまり帯電した後、ゆっくりと地面に向かって下りてくる。まだ小さく帯電しているようで、乾いた音が響いていた。
だが、リヒトは迷わずにその柄を受け止める。慣れた重い感触。触れた手に刺すような痛みが弾ける……が、それも一瞬のことですぐに消えた。
「あれ、もう気づかれてたんだ。フフッ、さっすが、竜殺しは違うなぁ」
「シャリか」
リヒトがぽつりとつぶやくと、岩の影から二つの人影が歩み出てきた。小柄な方は、昨日とたいして変わらぬ印象を受けるシャリ。もう一人は、幾分か顔色の悪いあの長老――ドゥルガーだった。
シャリは軽い足音をたてて近づいてくると、槍を再び脇に抱えるリヒトをしげしげと見た。
「やぁ、最近物騒だね。いきなり雷が降ってくるなんてさ、アハハ……」
「その言葉は前にも聞いた」
リヒトが切り込むように言う。
シャリは肩を震わせながら両手を上げた。
「ごっめーん。まぁ、とりあえず話を聞いてよ」
「あんたねぇ、人に雷落としといて、それで済むとでも――」
こめかみをぴくぴくと震わせながら、カルラが言う。
シャリは肩をすくめた。
「だって事故みたいなもんだし」
「あ――」
「それよりも聞きたいのは――」
長老が重々しい足取りで歩み寄ってくる。
「あんた方が、これからどこへ行こうとしてるのか何だかね」
リヒトは、ドゥルガーに頭を下げた。
「……フン。依頼は断ったものと思っておったが、気でも変わったのかね。それにしては、こちらの方に話がなかったようだが」
「だってしょーがないでございましょ? あなた様は連絡先もお残しにならずに消えてしまった訳ですし?」
カルラは妙に高い声で――もしかしたら上品な婦人か何かを気取っているのかもしれない――答える。
「そんなことは言い訳にもならないと思いますが? どうです、リヒト殿」
「人に雷落とすのだって言い訳できないっつーの」
カルラが小さく文句を言うが、ドゥルガーはそれを無視してリヒトにだけ真剣な顔を向けている。
リヒトは瞑目した。
「報告が遅れて申し訳なかった。私たちは依頼を受ける。だからこれから山に登る、邪魔はしないで欲しい」
「そうか……」
リヒトは少し面食らった。
ドゥルガーはてっきり何か、嫌味の一つでも言うかと思ったのだが。
彼はなぜか無言で、老いた顔に深い苦悩を滲ませる。
そして手を握られた。冷たかった。
「依頼を受けてくださるのか。ありがたい。……シャリ殿、この方に、先に報酬を」
「いや、」
リヒトは丁寧に握られた手を離させて、ゆっくりと首を左右に振った。
「まだ依頼は完遂していない。だから、受け取れない」
今度はドゥルガーが驚いたように身を揺らす。
「そうか……ならば、終わったらすぐに来るといい。ではダルケニスの件、頼んだぞ」
長老はすでに背を向けようとしている。
シャリがその前に声をかけた。
「あ、待っておじいさん」
彼は、カルラとリヒトが呆気に取られて見守る中、岩陰にドゥルガーを引っ張っていくと、何やら耳もとに囁きだした。
長老は時折相槌を打ちながら聞いていたが、やがて沈んだ面持ちでこちらを振り返ると、シャリを伴って歩いてきた。
「……、シャリ殿を一緒に連れて行ってくれるか」
「えぇ!?」
唐突な提案に、カルラが声を上げ、リヒトは少し目を細くしてシャリを見た。
シャリは口に手をあてて、肩まで震わせて笑う。そして、顔を上げてリヒトの視線を真っ向から受け止めた。
「こんなこと言っちゃなんだけど、君たちが逃げないとも限らないし。まして、嘘の報告なんてされたらことだからね」
すでに、ダルケニスであることを断定している口調。しかし誰もそれに反論しなかった。
カルラはそっぽを向いて腕を組む。
リヒトはしばらく目を閉じて黙考した。
「……いいだろう」
「リヒト……」
カルラが非難するような、それでいて納得するような声でリヒトの名を呼ぶ。
リヒトは瞬くようにそんなカルラを見つめた後、シャリの方を見て、
「つまり、依頼の内容はこうだな? 鳳凰山に住みついたという怪しい男を調査し、ダルケニスであれば退治する。監視役にお前を連れて行く」
「間違いないよ。報酬は五千ギア」
「分かった。では――」
「あ、そうだ。昨日預かった耳飾りなんだけど」
シャリが耳飾りを手の平に乗せていた。
「実は、持ち主よく分かんなかったんだよね。……という訳で返すよ。クスッ、異論はないよね?」
リヒトは無言でそれを受け取ると、まるで侵入者を拒むような山を振り仰いだ。その身にまとわりつく噴煙が、今日に限って警告するように、より一層濃く見えた――……
中腹まで登る頃には、カルラが死んでいた。
……少なくとも死にかけにしか見えない。
かなり開けた道だ。砂利も少なく歩きやすかった。頭上は高い崖になっており、影を作っている。
リヒトは色々な意味で頭が痛かったが、唯一元気なのはシャリだ。彼はリヒトの前を歩いている。
「ぜー……ぜー……」
最後尾は、と後方を見る。
カルラは、トレードマークの鎌を今や地面に引きずり、かろうじて歩いているという案配だった。
「カルラ、無理ならもう諦めたらどうだ」
「ぜー……だいじょうぶ……ぜー……」
リヒトはシャリの方に顔を向けた。
「この辺りで止まる。お前はどうする?」
シャリは髪を風になびかせて、振り返る。そして意外なことを言われたかのように少し、瞬きした。
「意外だね。勇者君でもそんなこと言うんだ」
「お前はどうなんだ。お前が私だったら止まるか」
「……? フフッ、何でそんなこと聞くの?」
「お前がどう答えるのか聞きたかっただけだ」
リヒトが答えると、彼は本当に驚いたように――真実の驚愕がそこには見えた――目を丸くした。
「意外だね。……アハハッ、僕に興味なんてあったんだ?」
「そんなことはないが。お前はたまに面白い顔をするな」
「……」
シャリが黙ってしまったので、リヒトはカルラを促すと座らせた。
彼女はシャリと同じように、化物でも見たかのような視線をリヒトに送ってくる。
「……何だ。意外か? 何がそんなに意外なんだ」
「君は、誰にも興味がなかったんじゃなかったの?」
シャリが戻ってきて、座る。退屈そうに膝を抱えて言った。
「何の話だ?」
心底不思議に思ってそう問い返すと、シャリはおかしそうに笑って、頬杖をついた。
「ホント不思議な子だよね。前はもうちょっと、分かりやすかったと思うんだけど」
「……」
前というのは、おそらく以前――まだリヒトが幸せだった頃の話だろう。その時に一度、リヒトは彼と顔を合わせていた。あの時はまさか、こういう関係になるとは思わなかったが。
「君が誰も側に寄せ付けなくなったのは、お父さんが死んでからかな?」
リヒトは沈黙した。
すると、シャリはわずかに身を乗り出す。
何も映していないようにすら見える瞳を向けられた。
「だから強くなりたかったんでしょ。今度こそ守れるように、失わないように? ……フフ、そりゃ、今の君は失えないよね。失う以前に、失うものを何も持ってないんだから」
「黙れ」
リヒトは牽制するようにシャリを睨んだ。
「ねぇ、本当にそれでいいの? ……アハハ、本当は寂しいんでしょ。誰かに側に居て欲しいんだよね」
「心のままに動くことが、本人にとって幸せだとは限らない」
「そうだね。君はそれをよく知っているんだ。だから、そうやって自分を頑なにしている」
「それは嘘だ。第一、そんなことはお前に関係ない!」
「ウフフアハハ……! そう思うんだったら、そんなにムキになる必要ないよ。君は、本当は分かってるんだね。自分が、」
「そういうお前はどうなんだ」
「……?」
「お前は、どうなんだ? 願いは叶ったのか? 人の痛みを言い当てるだけしか芸がないままか? そんな分際で、私の中に入って来ようとするな!」
リヒトは噛んで言い含めるようにシャリに言う。もう一瞥たりとも与えずに立ち上がった。まだ冷たい興奮が胸で閃いていた。
「……リヒトっ!」
カルラの切羽詰まった声に、リヒトは何事かとカルラを振り向き――、そして全身を貫くような鋭い痙攣に襲われ、立ちすくんだ。
気がつくと、まだ座ったままのカルラを向こうへ突き飛ばし、シャリの背を押していた。
振り仰ぐ――、妙にゆっくりと流れる時間の中、彼女の真上にすさまじい音をたて、大量の土砂が崩れて来ようとしていた。
どう考えても間に合わない。
リヒトの理性はそう判断を下し、すでに死を受け入れる体勢を整えていた。しかし彼女の冷徹な振る舞いの奥に隠された強い、滾る血潮そのままのような本能はそれを許さなかった。
リヒトは即座に槍を足で蹴り上げ頭上に放り投げると、ありったけの水の精霊に呼びかけて――神経が焼き切れそうに痛んだ――、槍を中心に氷の渦を巻き起こした。
それらは、まるで光がこぼれるように、瞬く間に広がって行き、ある程度の土砂は一瞬、止まったかのように見えた――が、本当に瞬きする間のことで、すぐに氷の防壁とも呼ぶべきそれは砕け散ってしまう。
しかしそんな一瞬の間でも、彼女には十分だった。リヒトはすぐさま地面を蹴り、転がるようにして地面に着地する。不自然な体勢で身を起こすと……
もうもうと土煙が巻き上がり、まるで蒸気のようになっている。だがこの埃っぽい匂いは、蒸気などではあり得ない。
ボディアーマーのお陰で怪我こそない。だが全身を強く打ってじんじんと痛む――と、土煙が少し晴れた。
リヒトは目の前の道が、土砂で完全にふさがれているのを知った。
リヒトは少し咳き込んで、――こう言う時は、自分の体が少女のようなのを恨む――立ち上がった。
道は真っ二つに分断されてしまっていた。
振り向けば、山頂へと続く道はすんなりとのびている。だが、目の前の……下山道は、ふさがれている。
ヒト――
リヒト!
土砂の中、いや向こうから微かな声が聞こえてきた。
「……カルラ」
リヒトは声を出したが、それはひどくかすれて使い物にもならなかった。
そこで大きく息を吸い込むと、「無事か」と叫んだ。
じ――んな時まで人のこと――じょうぶなの?
遠く霞んだようになっている声に、リヒトは「ああ」と答えた。しかしどうしても黙っていられない。そこで再び喉が裂けそうな痛みをこらえて「あの子は!」と聞いた。
ない――、っちには――
「呼んだ?」
突然の声にリヒトが振り返ると、シャリが立っていた。
思わずリヒトは槍を握ろうとする。……そして、今しがたそれを失ったことに気づいた。
もう一度土砂の方を向いて、軽く目を走らせてみる。しかし土砂の下にもぐってしまったのか、影も形も見えない。
「ねぇ、せっかく無事だったんだから、もうちょっと歓迎してよ」
シャリにクロースの袖を引っ張られる。
彼は全く健康そのものに見えた。土ぼこりすらついていない。
「……待て」
「何?」
シャリがちょこんと首を傾げた。
「私は、お前をカルラと一緒の方向に押したはずだ。それがなぜ、私の方にいる?」
シャリは、いたずらがばれた子どものような顔をした。
「それは、ホラ、何か偶然の運命が働いたんだよ」
「ふざけるな」
無表情にリヒトが言ったその時、再び土砂の向こうから声が響いてきた。
まっ――て――人を呼んで――るから
人を呼んでくるらしい。
リヒトはそれを聞くと、地面に座り込んでじっと目を瞑った。
シャリが近づいてくるのが気配で分かる。
「ねぇ、とっとと上に行こうよ。早い方がいいしさ」
「カルラを待つ」
「彼女が好きなんだね」
シャリが目の前に座ったようだった。
リヒトはゆっくりと、言葉を返す。
「いや」
「あれ? 違うんだ。……不思議だなぁ。じゃあなんで?」
「理由があるとなぜ思う? 何となくでは答えにならないか」
リヒトは目を開けた。
「さぁね、普通、そういう答えは通用しないんじゃない?」
「……お前は、行きたいのか?」
「……」
またシャリは口を閉じてしまう。
しかし今度は邪魔も入らなかった。リヒトは返事があるまで待っていた。
「……う〜ん、僕もあのおじいさんや、君たちばかりに時間を割いてられなくってさ。悪いんだけど」
「では行こう」
リヒトはすぐに立ち上がると、山頂を目指して歩き出した。
「あ、ホント申し訳ないんだけど、ちょっと待ってくれる?」
「……?」
リヒトは腰を捻って振り返った。
シャリが手を組み合わせ、複雑な印を切る。
すると彼の手の中にぼんやりとした影が浮かび上がった。それは次第に、飴細工のようにどんどん硬度を増し、色を強めて、やがて一つの長い――
「私の槍か」
リヒトは、彼の手に現れた黒い槍を受け取ると、その硬質な感触に笑みをこぼした。
「ありがとう」
「……」
シャリはなぜかまた言葉を収め、それからほとんど間を置かずに笑い出した。
「君って……クスッ、頑固なのか素直なのか分かんないね」
「頑固でも素直でもないと思うが」
「だから面白いんだよ。ねぇ、リヒト?」
リヒトは少し、微笑んだ。多分それは、人から見たら寂しそうなそれだと思う。
「ようやく、私の名前を呼んでくれたんだな」
「でも君はどうせ、呼んでくれないんでしょ?」
「呼んで欲しいと言うなら、いつでも」
リヒトは淡々と言った。
しかしシャリは遠い、とても遠い場所に居て、二度と会えないような。そんな誰かを見るような顔でリヒトを見ただけだった。
リヒトは首を横に振った。
「今となっては、無意味なことか。……行こう。この依頼を果たさなければならない」