「こちらでお待ちください」
そう言って、鎧を着込んだ門衛は慇懃に頭を下げた。
リヒトは張り詰めた声で礼を言って、居心地悪そうに腰を下ろす。
何となく門衛が辞去して行くのを眺めていた彼女は、自分の無作法さにようやく気づいて顔を赤くした。
狭苦しい廊下だった。いるだけで、息が詰まるような気がする。絨毯は敷かれているが、ほとんど日が入らないせいで微妙にかび臭い匂いが漂っていた。
無造作に肩で切りそろえられた黒髪の少女が、壁沿いにぽつんと並んだ椅子に腰掛けて、そわそわと自分の胸の辺りに触れていた。
――いったい、何の用だろう。
彼女は鼻筋の通った、凛とした顔を下に向けて、ぎゅっと唇を結んだ。
――今さら、エリスが……ロストールの王妃が私に用だなんて尋常じゃない。
呼び出されて来て見れば、お待ちくださいときたものだ。馬鹿にしているのだろうか。
エリス王妃は、彼女にとってはもう、関わりを持ちたくない相手だった。気が重い。だが負けてなるものか。
とその時、正面の扉が開いた。ひょいと顔を出した侍女が、「どうぞ」と無愛想に言って、中へと消える。
リヒトは一度だけ、緊張したように息を吐くと、もう迷わずに颯爽と立ち上がって中に入った。
そのとたん、古臭い匂いと、香水のような甘ったるい匂いが鼻腔一杯に侵入してくる。
「リヒトか」
短い声に、嫌な予感を感じて目を向けると、部屋の奥にある豪奢な椅子に、一人の女性が腰掛けていた。
若々しい肌と、ぴんと張り詰めた声、人形が着るような、現実味のないドレス。
ロストールの女狐、エリス。
苦々しくその名を心の中でつぶやいて、リヒトは進み出ると律儀に貴族式の礼を取った。
「王妃さまにおかれましては、ご機嫌うるわしゅう」
するとエリスは、ドレスの袖でいかにもおかしげに口元を隠した。布の隙間から、笑い声がもれる。だがその冷たい瞳は全く笑ってなどいない。
「そなたはフリントの娘。そのようにかしこまらずとも良い」
リヒトは改めて、居住まいを正した。この人は油断できない。もう守ってくれる父はいないのだから――自分の身は、自分で守らなければならない。
慎重に言葉を選んで、おもむろに口を開く。
「今日は、何の――」
「最近、冒険者稼業の方はどうなっている? 大事ないか」
リヒトは戸惑って口をつぐんだ。
彼女の声音には、真実、親しみを感じているような色がある。まさか、そんなことのために呼んだわけではあるまいに。
リヒトは、探るような眼差しでエリスを見据えた。
彼女は全く気にした風もなく、楽しげに口を開く。
「ちゃんと食べているか? 料理はできた方が、後々役に立つ。そう言えば、私もこの間、パイを焼いた。どうしてどうして、甘いものはやめられぬ。最近は、侍女の間で菓子を作るのが流行っているらしい。それで私も挑戦したのだが、菓子を作るというのも楽しいものだ。それに――」
「あの、」
リヒトは耐えかねて口を挟んだ。苛立ちに眉を寄せながら、続ける。
「用がないなら、私は帰り――」
「ルルアンタは、どうしている?」
リヒトは胸の中に鋭いものが差し込んだのを感じて、言葉を呑み込んだ。
――ルルアンタ。
エリスは明るい調子で微笑んだ。リヒトの様子も何も、目に入っていないのではと思わせるような微笑み。しかし、その冷たい瞳はもう親しげな色など宿しておらず、代わりに探るような色でリヒトを貫いている。
「ところで、」
と彼女は奇妙に抑揚のない声で言った。
リヒトは、魅入られたように、彼女の口元から目を離せない。
「最近、城内に不思議な者が現れるようになったという話を知っているか?」
「この、王宮に?」
リヒトはようやく言葉を返した。エリスは全く、世間話でもするような普通の声で「ああ」と答え、言葉をつぐ。
「まぁ、たいした者でもないとは思うが、学者と言うから素性を聞けば、誰も彼も知らぬの一点張り。にも関わらず、我が物顔でこの城を闊歩している」
リヒトは半ば安堵に吐息をもらした。つまり、
「その学者の調査をしろとおっしゃいますか」
「そんなことは、誰も言っておらぬ。ただ、そういう者がいると聞いたから話題にしたまでのこと」
エリスは疲れたように背もたれに寄りかかって、しどけない仕草で口元を隠した。
「そなた、噂を聞いたことはないか?」
リヒトは素早く横に二度、首を振った。射抜くような視線でエリスを見やり、背を向ける。
「王妃さまにおかれましては、いたずらな言動が多くございます。他にお話がなければ、このまま辞去させていただきたい」
「そなたの父は、」
思わずリヒトが足を止めてしまうほど、鋭い声が飛んだ。すでに最初の親しさなどは微塵もなく、触れれば切れるナイフのような声で、彼女は話す。
「優秀な密偵であった。娘であるそなたにも期待している。なのになぜ、私にかしずかぬ? リヒトよ」
「あなたとの関係は、父の死と同時に終わっているんだ。感謝はしている、でもそれ以上じゃない」
そのまま、外に出ようと――
「妹と言っても過言ではない、ルルアンタもそれ以上ではないか?」
リヒトは反射的に振り返って、怒声を吐き出していた。
「ふざけるな! あなたに、ルルのことでとやかく言われる筋合いは――」
「心配ではないか? 私は心配だった。フリントの忘れ形見とあってはな」
「何を、馬鹿な――」
「元気にしているだろうか? 誰かに苛められてはいないか? 心配だな。だが安心するといい。私の手の者が、常にあの娘を護衛している」
リヒトは、怒りのあまり絶句した。
この――目の前で、穏やかな笑みをたたえているこの女は、ルルアンタの周りに部下を配置して監視していると言っているのだ。
エリスは悠然と続けた。
「これで、私が助けろと命じればそなたの妹は助かる。もし逆のことを言ったら、どうなるであろうな?」
「貴様っ……!」
リヒトは腸の煮えくり返るような思いと共に、心の一番弱い場所に剣を突きつけられたような心細さを感じて、唇を噛んだ。
不覚だった。まさか、ルルアンタを人質に取られるとは思いもしなかった。こうなることを避けたかったから、遠くに送ったというのに、それでもまだ、死の危険は自分の周りから消えない。せめて狙われるのが自分であれば、まだ方法もあったものを。
エリスはするりと立ち上がった。
リヒトはあまりのことに動けない。
ロストールをたった一人で支える女狐は、優雅、と言わざるを得ないような微笑みを浮かべてゆっくりと近づいてくると、リヒトの耳元に顔を寄せた。
「私は、お前たち姉妹が愛しい。誰よりもな……」
リヒトは頑なに前を向いたまま、怒りを込めて前方を睨んでいた。
「受けて、くれるな?」
――それは、おそらく目の前の王妃に向けた怒りではなく、こんな事態になるまで気づかなかった自分自身に対しての怒りだった。
ルルアンタは……
リヒトは夜道を歩きながら、思った。
ルルアンタは、元気でいなければならない。だから私の手の届かないところへ送った。嫌いなわけではない。むしろ愛している。だけど、私は彼女の側にいられない。またあんなことが――父の死んだあの日のようなことがルルアンタを襲った時、私はおそらくルルを守れない。守れないくらいなら……
頭の中がぐちゃぐちゃで、リヒトはそれ以上の思考をつぐことができなかった。どうしてこんなにも、ルルアンタに関して考えるのは辛いのか。……それは、それはきっと、自分の弱さとつながってくるからだ。
「ああ、もう……!」
リヒトは苛々と、地面に転がっていた小石を蹴った。それは転がって、硬い音と共に何かにぶつかる。
ようやく我に返って顔を上げると、宿の扉が目の前にあった。
戦闘とはまた違う疲労感に辟易して、緩慢に扉を押し開ける。
「ああ、リヒトさま……お手紙が届いておりますよ」
入るなり宿の主人と目が合って、そう声を掛けられる。
「手紙?」
聞き返して、律儀にカウンターに寄る。
主人はカウンターの奥を探って、スクロールを持ってきた。
「仰々しいな。誰から?」
リヒトが受け取りながら、何とはなしに聞くと、主人は考えこむように天井を仰いだ。
「えー……ルルアンタという方からだったと思いますが」
リヒトは一瞬、ほんの一時だけ愕然と身を強張らせたが、主人が怪訝に思う前に柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう」
そのまま部屋に戻って、ベッドの側のサイドテーブルに手紙を放ると、リヒトは見向きもせずに槍の手入れを始めた。
依頼は受ける。ルルのために。だけど私は、ルルの側には行けない。
早朝。リヒトはしゃきっと背筋をのばして、王宮への道をひたひたと歩いていた。朝日がまぶしい。半ば暴力的ですらある光。
やがて、見えてきたのは王宮の門だった。門番の二人が、リヒトの姿を見とめて慌てたように背筋をのばした。
リヒトは足を止めて凛とした顔を二人に向けると、「おはよう」とまずは声を掛けた。
「聞きたいことがあるんだが、少しいいか」
「どうぞなんなりと」
左に立った門番が慇懃に頭を下げる。だがリヒトは確かに、その門番の口の端が吊りあがっているのを見た。
そのとたん、居心地の悪さが襲うが、リヒトは気にしないフリで口を開く。
「最近城に出入りしているという、学者を知らないか?」
二人はそれを聞いたとたん、意外なことを聞かれたように、慇懃な態度を崩して顔を見合わせた。何となく、焦ったような風がうかがえる。
一人が慌てたように口を開いた。
「いや、詳しいことは……」
「容姿とか、年齢とか、言動とか、なんでもいい。知らないか」
これは――この調子は知っている。
リヒトの勘はそう告げていた。なぜ隠すのかは知らないが、口が重いなら否が応でも軽くなってもらう。
「容姿……そうですね、」
「おい!」
右に立った門番が何か言おうとするのを、左の方が狼狽して止めた。
リヒトはその二人を見比べて、きょとんとした様子を作る。
「どうした? 知っているのだろう。今すぐ話せ」
槍の柄に軽く触れながら言ってやると、さすがに二人とも慌てたようだった。
「いや、ですから……そうですね」
「私だって鬼じゃない。そう詳しいことを聞こうとは思わない。が、もし隠し立てでもしたら、この手が滑らないとは限らないな」
言いながら、槍の柄に頬を寄せる。右の方が、諦めたように重い口ぶりで話し出した。
「その方でしたら、まだほんの少年です。が、魔導器の類に詳しくて、専門家でも舌を巻くとか。学者というのは本当だと思いますけど……」
「評判とかは、どうだ?」
「はぁ。彼本人の悪い噂は聞いたことがありませんな」
「おい、言いすぎだ!」
左の方が焦ったように止めるが、リヒトはそっちをひと睨みして黙らせ、右の方に真剣な顔を向けた。
「えーと……それから、アトレイアさまのところによく出入りしているようです」
「アトレイア……誰だ?」
「……先王の遺児、ティアナさまの血縁であらせられます」
「王女、ということか」
リヒトが確認すると、門番は渋々、という風に頷いた。
彼女は隙のない引き締まった表情で顎に手をあてると、何度も頷く。
「最後に一つ、いいか? お前たちは、その学者とやらをどう見る?」
二人はとたんに口ごもり、あらぬ方向を見た。
「どう、思う?」
槍の柄を掴んでもう一度聞くと、今度は左の方が嫌そうな顔で口を開く。
「愉快な方ですよ。ええ、とってもね」
◆◆◆◆◆
一定の歩調を乱さぬまま、まるで騎士のように門の中へと歩き去って行く冒険者の背。
それを見ながら、門番は忌々しげに口を開いた。
「あの女は何者なんだ? 王妃のところによく出入りしているようだが」
「知らんのか?」
問われた門番は、吐き捨てるように言った。
「女狐の犬さ」
◆◆◆◆◆
アトレイアに会いたいと頼むと、侍女に案内されたのは、ぽつんと立った塔だった。どことなく古びて、うち捨てられたような感じがある。
初めてその塔を見た瞬間、これが王女の暮らす場所かと息を呑み、中に入って薄暗い様子を見れば同情心すら芽生えた。
リヒトは、有名なティアナ王女には会ったことがない。だが、彼女までがこんな暮らしをさせられているとは到底、思えなかった。これは差別ではないのか――そう思って、胸が締め付けられるような痛みを覚える。
侍女の後をついて螺旋階段を上りながら、リヒトはそんなことを考えていた。
やがて、前を歩く侍女が足を止める。示されたのは、古びて、数十年は開いたことがないのでは、と思えるような頑健な扉。
侍女がノックすると、中から端整な声が返ってきた。促されて扉を開けると、明かりもない暗い部屋の真ん中に、一人の少女が立っている。表情は暗すぎて見えない。ほっそりした立ち姿だったが、今にも倒れそうな雰囲気はなかった。
何がしかの怖気に、リヒトは自分の胸が早鐘を打ち始めるのを感じた。
「ご機嫌うるわしゅう……ようこそおいでくださいました、リヒトさま」
「……私の名を、ご存知で?」
リヒトは中に進み出て頭を下げながら、上目遣いに聞いた。彼女はぴくりとも動かず、ただ口元だけがニッと笑う。
「無論です。よぉく、聞いておりますので……」
リヒトの胸に鈍い痛みが湧き上がった。何て哀れなんだろう。こんな暗い部屋で、たった一人でいたら、誰だって気が滅入る。
「今日は、」
「知っています。シャリさまのことについて、聞きに来られたのでしょう」
リヒトは軽く目を見開いた。シャリとは、くだんの学者のことだったはず。どうして言う前から知っているのだ?
「あの方は、」
冷厳な声で、王女は続けた。
「素晴らしい方です。とても、とてもね……」
「何かご存知なのですか? あの学者について」
リヒトが静かに、緊張した声で聞くと、アトレイアは薄い笑みを浮かべた。
「いいえ。知りません」
「でも、」
「知りません。こんなところでもたもたしていて、いいのですか? 妹さんが、人質に取られているのでしょう」
リヒトは思わず声を上げていた。
「なぜそれをっ……」
「そんなこと、考えている暇がおありですか? ……さぁ、お行きなさい」
それまで死んだように動かなかった王女の腕がゆっくりともちあがって、扉を指差した。細い指先は空中で静止したまま、ピクリとも動かない。
リヒトはあらゆる意味で背筋を這う恐怖に身震いし、おずおずと頭を下げた。
「……失礼します」
「ご機嫌よう。また、いらしてくださいね……フフ、ウフフフフ……」
リヒトは途方に暮れて歩いていた。見上げると、もう日が高い。
そろそろ昼食にするか、それとも調査を続けるか――
そんなことを考えていた矢先、立派な門が見えてきた。……悪名高いタルテュバの住む邸宅。
聞き込みの結果として、その学者――シャリとやらはどうやら、相当に胡散臭い人物であることが分かった。何せ、話題が彼のところに来たとたん、誰もが口をつぐんでしまうのだから。
ということは、逆にどちらかと言えば悪名の高い人物の方が、シャリに関しては知識があるかもしれない。
そう考えたリヒトは、門番に声を掛けた。
「タルテュバさまに取り次いではもらえないか」
門番は化物でも見たような驚嘆の表情で身を引いた。
「しょ、正気か、お前」
「失礼な。私はいつでも正気だ。それで、取り次いでくれるのか、くれないのか」
「取り次ぐも何も、タルテュバさまは――」
「何だお前はっ!」
リヒトはびっくりして、振り返った。
不健康そうな若者が立っていた。なにやらヤケにごてごてした服を着ていて、ぎょろりとした目でこっちを見ている。
「お、おお、俺さまの陰口でも叩いていたんだろう。そうなんだな!?」
「タルテュバさま!」
今にも平伏しそうなへっぴり腰で、門番が名を呼んだ。
ということは、この男がタルテュバ・リューガか。これはまた想像以上に厄介な男と見える。この男であれば、シャリについて知っているかも知れない。
リヒトはさっそく聞いてみようと口を開きかけ、血走った目とぶつかってつぐんだ。するとタルテュバとやらは地面を踏み鳴らす勢いで詰め寄ってくる。
「何だ? 何か文句でもあるのか? この俺さまに、え!?」
「いや――」
「ええい、ちょうどむしゃくしゃしていたところだ。女! 一緒に来い!」
「ちょっ、待っ……」
リヒトは強引に腕を引っ張られて、困惑した。
振り払うのはたやすいが、貴族を殴り飛ばしたりしたら、エリスに何と言われるか分からない。そうなっては、ルルアンタの身まで危険にさらされる。
「あのっ! シャリという学者について、知らない?」
とっさに出た言葉だったが、なぜか効果は覿面だった。リヒトが呆気に取られて見守るうちに、タルテュバは青ざめて後じさりし、
「お、俺さまは何も……何も知らないからなっ!」
と言ってまるで逃げるように背を向けて走って行った。
「な、何だ……?」
門番にどういうことが聞こうと姿を探すが、その姿もすでになかった。……逃げた?
リヒトは考え込んでしまった。
なぜ、皆がこうもシャリに関しての話をしたがらない? これはもう、何か怪しげな魔術でも使って、操っているのではないか……
そう考えると、何となく不安になってきた。
きっとその、シャリとか言う学者は目深にローブをかぶっていて、青白い顔をしてブツブツと独り言をつぶやきつつ大鍋の中をかき混ぜるような、怪しい奴に違いない。
リヒトは笑い声まで聞いたような気がしてぞっと槍の柄を握り締めた。
そんなラリった奴の調査を命じるなんて、エリスは……最初からそれが狙いだったのだろうか? リヒトのような小娘がそんな変態と出会ったら、取って食われてしまうに決まっている。まさか、密偵のことを隠すためにリヒトを――!?
リヒトはそこまで考えて青ざめた。
これは慎重に行く必要がある。
が、慎重も何も、それから一切、全く、これっぽっちも収穫は得られなかった。
シャリの名を出したとたん、どの貴族も口をつぐんで「知らない、帰ってくれ」の一点張り。
だがルルアンタのためにも諦めるわけには行かない。
というわけで、リヒトは再び貴族の前に出てこう尋ねていた。
「シャリ、という名前の人をご存知でしょうか」
案の定、対面に座って優雅に茶など飲んでいた貴族の頬が、ぴくりと緊張する。
リヒトは疲労を押し隠して、熱のこもった目を向けた。
「教えてください……かなり変態な方だと聞きましたが……」
「へ、変態!?」
貴族はなぜか目をまん丸にしてお茶を噴き出し、慌てて「失礼」と言いながら侍女に拭かせた。
「わ、私は別に変態的な趣味など持っていないがね……」
リヒトは妙な顔をした。
「いえ、くだんの学者についてです。変態ではないのですか」
「変態……いや、ええっと、素晴らしい方だよ、シャリ殿は」
「変態なのに、ですか」
「だから変態などではないと……」
「いいえ、彼には何か秘密があります。人に言えない趣味が……」
リヒトが思いをめぐらせるように顎に手をあてて唸ると、またも貴族は飛び上がった。
「ひ、人に言えない趣味!?」
リヒトはうっそりと顔を上げて、探るように鋭い眼差しを向けた。
「……あの、さっきからどうされました? それで、シャリ殿に関してですが――」
「もう帰ってくれ! 君は心臓に悪い!」
「え、あの、ちょっ――」
「さぁ、お帰りいただけ!」
結局、つまみ出されてしまった。
もう日は傾いている。今日はこれと言った進展もなし……か。
リヒトは夕暮れを見上げ、きゅっと目をつむった。
なるべく急がなければ。ルルの身が心配だ。
しかし、と帰り道を歩きながらリヒトは思った。
これはいったい、どうしたことだろう。あまりにも――あまりにも情報が少なすぎる。まるで皆、シャリという学者を恐れているか、弱みでも握られている風だ。やはり変態なのではなかろうか。
そう考えてとぼとぼ歩いていると、道の真ん中に、小柄な少年が立っていた。さらさらとした黒髪が、風になびいている。あんなところで、いったい何をやっているのか――
長い影が、石畳に落ちていた。
すれ違おうとして、リヒトはふと頭に引っ掛かるものを感じ、足を止めた。
……さらさらの黒髪。見たこともないようないでたちの少年――どこかで。
気になってチラリと顔を覗くと、少年は何かに耳を澄ますように目を閉じていた。思わず口を押さえてしまうほど美しい顔立ちをしている。
「あ」
リヒトは声を上げて、弾かれたように少年を指差した。
父が死ぬ少し前に出会った少年。結局名を聞くこともなく、あの時は別れてしまったのだが……
「あなたは……」
懐かしい気持ちで胸がいっぱいになって声を掛けようとすると、少年は突然パチっと目を開いた。
彼はリヒトを見るなり不思議そうに口を開く。
「あれ? こんなところで一人歩きなんて、危ないな、お姉さん」
リヒトは意外に思って目を瞬いた。まるで初対面のようなことを言う。
「前に……会ったことがないだろうか?」
おずおずと言って見るが、少年は首をひねっただけで、それ以上の反応はない。
……おかしいな。間違えるはず、ないのだが。
とその時、足音がして、やってきた侍女らしき格好の少女が叫んだ。
「シャリさまー! アトレイアさまがお呼びですっ!」
――シャリ!? この、この少年が!?
リヒトが驚きのあまり立ちすくんでいると、少年は軽い仕草で頷いて、それっきりリヒトのことなど忘れたように駆けて行ってしまった。
リヒトは何も言えずにその背を見送り――、胸の鼓動が早くなったのを感じてよろめいた。
「何て、偶然……」
膝を、がっくりと折って地面に手をつく。容赦のない吐き気がこみ上げた。
まさかかつて会ったあの少年が、怪しい学者、シャリその人だったなんて。そしてその調査をリヒトが請け負うことになろうとは、まるで運命のいたずらとしか言い様がない。
ルルアンタ――
リヒトは朦朧とする意識の中、すがるようにその名をつぶやいていた。幸せだった日々の思い出が、彼女の脳裏を駆け巡っていた。
朝早く起きたリヒトは顔を洗い、きっちり身支度を整えて出発した。
向かう先は――王城。
「……夜会に出して欲しい?」
エリスは眉根を寄せて、しかし面白がるような微笑みをたたえたまま首を傾げた。その様は童女のようでもある。
熱を込めて、リヒトは頷く。
「頼みます」
「そなたが頼みごととは、珍しいこともあったものだ。できれば叶えてやりたいが」
そう言って、エリスはそっけなく視線をはずした。
「どうしたものか」
声にはうかがうような調子が含まれている。
リヒトはむっと押し黙った。リヒトはエリスのこうした部分が嫌いだった。
しばらく、苛々した沈黙が流れる。お互いに相手の反応を待っているので、先に口を開こうとはしない。
エリスが不意に耳障りな笑い声を上げた。
「高くつくぞ? それでも?」
「調査のためです」
リヒトは頑として前を向いたまま、執拗なまでにエリスの瞳を凝視した。
均整の取れた眉を緩めて、エリスは意地悪く微笑む。
「そなたにはかなわぬな。分かった、ちょうど今夜、マノア卿主催の夜会がある。便宜を図ってやろう」
「ありがとうございます」
リヒトは素早くそう答えて、さっさと部屋を出た。
一秒たりとも、こんなところにはいたくない。なのに、ルルアンタのことを思えばそう邪険にもできないのだ。ルルアンタは好きだ。それは、本当だ。