白紙の手紙 ひとつめの、あと



 ホールに集まった貴族たちは、あからさまに浮ついた調子だった。
 馬鹿馬鹿しい。
 リヒトはそれを横目に、心中で罵った。
 この連中が、一国の政治に関わって国を動かしているなどとは考えたくもない。ただでさえディンガルの動きが剣呑なのに、のん気に夜会で女の尻を追いかける男どもも、男に尻を振るしか能のない女どもも……貴族とは何とくだらない存在だろう。関わりたいなんて到底思えない。
 だから自分が着ているこのごてごてしいドレスすら、悪夢の産物に違いあるまい。
 ぐるぐると胸でうずまく嫌悪をかみ殺し、リヒトは声を掛けてきた貴族に微笑みを――剣呑なものではなく――返した。
「あら、初めまして」
「君の名前を聞いてもいいですか?」
 ワインを片手にぶらさげ、気障ったらしく男は聞いてくる。別に、それが不快だったというわけでもないが、笑みが一瞬崩れそうになった。失笑で。
「私はリヒトと申します。エリス様の紹介で、こちらに」
 男は白い歯を覗かせて、笑った。
「エリス様の。……それは、それは」
 含むところでもあるのか、ますます貴族は身を乗り出す。リヒトは近くなった顔に吐き気を覚えつつも、口元の笑みだけは崩さなかった。
 とっさに目を逸らして、テラスの方を見る。ひらめいた。
「……何だか、体が……熱くありません?」
 リヒトが意味ありげな視線を投げると、男は全て分かっている、とでも言いたそうに二度も頷いた。
「そうですね。どうですか? 外に出て、風に当たっては」
 馴れ馴れしく肩を抱こうとする男の手を颯爽とすり抜けて、リヒトはテラスに足を踏み入れた。石床と靴の踵がこすれて耳障りな音をたてる。リヒトはわずかに顔をしかめて、男がやって来るのを待った。
 見上げると、月が高く昇っている。
 足音に振り返ると、ちょうど男が足を踏み出したところだった。彼は夜気の寒さに体を震わせ、それをこちらが見ていると気づいたとたんにほがらかな笑みを浮かべる。
「大丈夫ですか?」
 この王宮には、狐と狸しかいないのか。
 リヒトは苦々しく思いつつも、にこやかに一歩、男に近づいた。首に手をかけて、顔を寄せる。
「頼みがあるのですが」
「何でしょう?」
 男の手が腰にまわる。その瞬間、リヒトは懐から出した短剣を、男の胸に突きつけた。男の顔が強張る。
「聞きたいことがある。答えなければ刺す」
 耳元に顔を寄せて囁く。はたから見れば、睦みあっているようにしか見えないだろう。
 が、男の声は哀れなまでに震えていた。
「な、ななな、なんだお前はっ……! ひ、人を呼ぶぞ!」
「呼べ。一緒に死んでやる。女と一緒に死ねるなら、光栄だろう?」
 薄っすらと唇に笑みを乗せて囁けば、男は諦めたように首を左右に振った。
「な、何が目的だ……金ならないぞ」
「金には困ってない」
「それはうらやましいことだ」
 リヒトは一泊置いて、その名を舌に乗せた。
「シャリ、という学者について話せ」
 その名を聞いたとたん、男の顔色がはっきりと青くなった。
「シャリ……だって!?」
「心当たりがあるようでうれしい。素性を言え」
「知らな――
「その台詞は聞き飽きた。あくびと一緒に手がすべってしまいそうだ」
「わ、分かった!」
 焦ったように、男はガクガクと頷いた。
「シャリという学者の正体は、実は誰も知らない……本当だ! 信じてくれ!」
「じゃあ、なぜ皆がシャリについての話を拒む? そんな怪しい者が王宮を出入りしていたら、噂になるのが普通だろう」
「それは……」
 言いよどむ男に、リヒトは剣呑な眼差しを思うさま突きつけた。
 男は何度もリヒトの顔と自分の胸に当たった切っ先を見て、再び嫌そうに口を開く。
「俺は借金がある」
「何の話? そんなことに興味……」
「最後まで聞いてくれ。その事実をネタに強請られた」
「……は?」
 リヒトは虚を突かれて、男の顔をぽかんと見上げた。男は焦ったように続ける。
「他の奴らも、そうらしい。浮気しただとか、誰それが実は誰の子だとか、暗殺事件の首謀者とか――そういうことを掴まれて皆、口止めされてる」
「それは……」
「だから、俺も奴については話せないんだよ。そもそも知らないわけだが――とにかく、借金のことをバラされたら、待っているのはタルテュバルートだ」
 リヒトは訝しげに顔を傾けて「タルテュバルート?」と聞き返した。
「造語だよ。社交界の。……どん底って意味さ。もういいだろう。離してくれよ」
「ここでのことは――
「分かってる。言わない、言わない。秘密なんだろう?」
 リヒトはそっと男から離れ、ナイフを胸元にしまった。男はほっと息をつき、一歩二歩と後じさりして――何事もなかったかのように、ホールに戻って行く。
 それにしても、シャリというあの少年は、これでいよいよ分からない。秘密は隠されてこその秘密だ。そうそう掴めるものではない。上流貴族の社会ではなおさらのこと。それをなぜ、あんな年若い少年が把握し、強請ったりできるのだ?
 それに、そこまでして隠す彼自身の素性とは、いったいなんだというのだろう。不思議でならない。やはり怪しげな魔術で……いやいや。
 リヒトは考えもそこそこに打ち切って、さっきの男が人を呼んでくる前にテラスから飛び降りた。







 帰り道でも、その疑問は頭にこびりついて離れなかった。
 広場まで歩いてきたリヒトは思う。
 とにかく、これは本人と接触を持ってみるより他なさそうだった。でなければこれ以上の情報は得られそうにもない。
 リヒトは考えて、ふと感じた頭痛に息を吐いた。緊張が少しだけ緩む――その一瞬だからこそ、リヒトは背後の足音に気づいた。
 戦慄と共に振り返ると、建物沿いに人影があった。月明かりが雲にはばまれ、その姿は見えない。
「誰……? 誰だ?」
 リヒトが問うと、それに答えるように雲の切れ目から月明かりが差し込んだ。黒い服。月明かりに陰影を刻む、秀麗な顔。
「シャリ……!」
 リヒトは考える間もなく、とっさに駆け出していた。
 少年の影は再び闇の中に埋もれ、遠ざかって行く靴音だけが響く。リヒトは必死でその音を追った。
 ようやく見つけた手がかり。みすみす逃すわけには行かない。
 リヒトは何となく、これをきっかけに全てが解決するのではないかと淡い期待を抱いていた。
 ――が、建物沿いに走って角を曲がった路地で、足音はぷっつりと途切れてしまう。自分の荒い息遣いだけが聞こえていた。 
 念のため辺りを見回しながら、しゃがみ込んで地面に耳をつけた。目をつむる――音はしない。生き物の気配は微塵もしない。
 仕方なくリヒトは顔を上げた。失望が胸にじわじわと広がる。
 立ち上がって埃を払う――このドレスを汚したら、エリスに何と言われるか分かったものではない――と、リヒトは未練がましくもう一度、辺りを探した。
 いないのか? ――いや。
 リヒトはその瞬間、全てを悟った。
 いや、いないハズがない。そもそも最初から、あの少年が現れたのは必然だ。いないハズがない。昨日、あの少年と再会したのが偶然ではなく必然なら、今夜彼の影を見たことも必然でしかない。
「出て来い!」
 リヒトはだから、目を細めて叫んだ。
「王妃に全てをばらしても、私は構わないんだ」
 荒い息を押さえるために、胸の部分の布をぎゅっと掴む。
 と、気配を感じた。背後に一つ。
 振り向いて、見定めようと目を細める。……夜にはばまれて多くは見えないが、そこに立っているのは確かに少年だった。
「それは、ちょーっと困っちゃうな」
「シャリ……」
 リヒトは我知らず、その名を呼んでいた。笑ったような気配が返ってくる。
「覚えてくれたみたいで、うれしいよ。ね、前に言ったでしょ? そのうち知ることになるって」
「やっぱり、あの時の……」
 リヒトは詰め寄った。
「あなたは、何者だ?」
「さぁ、何者だろうね。リヒトはどう思う?」
「はぐらかす気か? 質問に答えて。早く」
「そう、焦らないでよ。いいことないよ?」
 シャリは含むように笑う。
「そのうち、それも分かるよ。今は時じゃない」
 リヒトは苛々と、指の間で挟んでナイフを取り出した。
「言わないなら――
「戦う時でも、ないよ」
 笑い声と、途方に暮れるリヒトだけを残し――シャリは闇に消えた。





 リヒトが一人息をつけるのは、温かいスープをすすっているその時だけだった。
 というわけで最後の一滴まで飲み干して、リヒトは席を立つ。
 がやがやと賑わう夜の酒場は、もっぱら酔客たちで占められていて雰囲気がいいとは言えない。が、宿の真向かいにあるこの酒場は、リヒトにとっても他の旅人にとってもすこぶる都合がよろしい。
 特に、打ちのめされた心には効果覿面だった。
 自分で思いついた皮肉に舌打ちして、リヒトは給仕の少女に金を払う。釣りを渡そうとしてくる少女を無視して、外に出るとすでに時刻は深夜だった。
 それでも顔を上げて、しゃんと背をのばして歩く。とは言っても向かいにある宿までたどりつくのに、そう距離があるわけではない。扉を開けると、温かな光が闇に差し込んだ。
 宿の主人に目線で挨拶して、二階に上がる。部屋の扉を開けたリヒトは、予想もしていなかった光景に口をぽかんと開けた。
 ……なぜか人のベッドに陣取って、あのしょうね――シャリが人の手紙を勝手に読んでいる。さっき別れたばかりだというのに、彼は全く屈託のない笑顔で目線を上げた。
「あ、おっ帰り〜! 遅かったじゃん」
 リヒトはぎょっとして、すぐさま駆け込むと、シャリの持った手紙に手をのばした。
「返して! それは――
 シャリは踊るようにくるりと回って、その手を避ける。
 リヒトは手紙とシャリの顔を交互に見て、歯軋りしそうな勢いのまま歯を食いしばった。
「返せ! 何を考えているんだ!?」
 シャリは浮かべていた笑みをかき消して、手紙に目を落とした。もっとも到底その笑みは本物に見えなかったが。
「返事、待ってるんじゃない?」
「余計な――お世話だ!」
 リヒトが手をのばすと、今度はシャリも避けようとはしなかった。取り返して、一瞥もしないままぐしゃぐしゃに丸める。それを窓の外に放り投げ、リヒトはようやくシャリに向き直った。
「あーあ。せっかくの手紙だったのに」
 リヒトはもはや答える気もなく、ただ問い詰めようと拳を握った。
「何で、こんなところにいる? 答えろ。何を考えて――
「そうやって逃げている限り、君はいつまでもここから逃げ出せないよ。王宮からも、君自身の弱さからも」
 シャリはそんな言葉を残して、目を瞠って呆気に取られるリヒトを残し、立ち去った。扉の閉まる音だけがリヒトの脳を揺さぶる。
「……明日、は」
 のろのろとリヒトはつぶやいた。未練なんてない。窓の外に放り投げた手紙にも、自分を放り出して行ったあの少年にも。
 ――結局私が捨てたものは、捨てられたものは一体なんだったの? それはもしかしたら、私の……
「明日は王妃に報告する。そして、また冒険の旅に出る。それが一番」
 言い聞かせるように、自分の体を抱きしめる。
「そうしたら、また自由が帰ってくる……私のところに」
 それだけが、私に取れる方法なのだから。




 翌朝、リヒトは王宮への道を歩いていた。木々が揺れ、葉のこすれる音だけが整然とした道に流れている。人の声はない。自分の声もしない。足音すら、すでに遠いものに聞こえた。
 これで……いいのだ。
 これからリヒトは王宮に行って、エリスに今回の一件を報告する。そして報酬を受け取って、終わり。もうルルも大丈夫。今、だけは。
 結局根本的な解決にはならないのではないか――
 そのことについて考えるのは、怖かった。だから避けていた。こんな風に最後までこき使われるのではないかと。だが、あの少年と話したことで心は乱れ、本心がむき出しになってしまった。
 ……考えざるを得なくなってしまった。
「やぁ」
 物思いから顔を上げると、あの少年……シャリが壁にもたれて立っていた。その顔は紅潮してもいないが、青ざめてもいない。ただそこにある。それだけ。
 リヒトは構えることもせず、険しい目でシャリに視線を送る。
 彼は壁から背を離し、通せんぼするように両腕を広げた。
「悪いけど、通すわけには行かないな」
「通せ」
 リヒトは鋭く、ほとんど吐息と一緒にそう吐き出して、ふらりと槍の先を少年に向けた。
「だーめ」
 シャリが小さな声で笑う。何がそんなに楽しいのかと見ていると、手を後ろで組んで、彼は見上げるような視線を向けてくる。
「今出入り禁止にされちゃうと、少し困ったことになるからね」
 埒の明かない会話に早くも苛々してきたリヒトは、いっそ倒して進もうかと考えた。
「どうしても通さない気か?」
 すぐに肯定が返ってくるだろうと緊張していたリヒトは、なかなか返らないのに気づいて困惑したように槍の先を降ろした。石畳と触れて、カツンと硬質な音が響く。
 シャリはこちらに背を向けた。
「君の妹さんだけど、どうなってるか気にならない?」
 リヒトが答えずに――答えられずにいると、シャリは言葉をついだ。
「踊り子としてがんばってるよ。毎日、必死に練習して、笑顔を振りまく。それが彼女の望み。でもね、彼女の幸せな未来図に、足りないものが一つある。それが君の姿」
「嘘、だ」
 リヒトは震える声をなんとか抑えようと努めながら、つぶやいた。
「嘘だ……」
 だがシャリは、あの手紙を読んでいる。本当である可能性は十分にあった。信じたくない。彼女が、自分を必要としているなんて信じたくはない。
「信じる、信じないはどうでもいいよ」
 シャリはあっさりとそう言ってのけた。
「だけど、彼女は今の君よりもがんばってるよ。ねぇ、姉として恥ずかしかったりなんかしちゃわないの? リヒト」
「る、ルルアンタのことは……私は、父が襲われて死んだあの時のように守れないと分かってるから、」
 反射的にリヒトは抗弁していた。自分の中でもまだ定まっていない言葉を必死に紡ぎながら、苦渋を吐くような思いで訴える。
「だから私は――
 シャリの目がすっと細くなった。
「嘘だよ」
 自分の言葉を一言で切って捨てられていい気がするわけもなく、リヒトはいきり立って再び槍を持ち上げた。
「何を理由に、そんなことを言われなければならない!」
 辺りの空気が震えるような怒声を吐き出しても、シャリは顔色一つ変えなかった。
「だけど君は、ルルアンタを愛してるんでしょ?」
 淡々と尋ねられ、強く睨みつける。
「当たり前だ!」
「愛してるって、どういうこと?」
 リヒトは呆気に取られて、目を丸くした。
「……は?」
 シャリは滔々と述べる。
「いつくしむのが愛だよね。側にいて抱きしめたいと思うのが愛じゃないの?」
「それは、ただの詭弁だ!」
 シャリは仕方がないな、とでも言いたそうに肩をすくめて、続けた。
 いつの間にか、リヒトの言葉にも熱が入っている。危険な兆候だと思ったが、止まらない。
「ねぇ、答えてよ。好きで好きでたまらないんでしょ?」
 顔を背ける。
「……愛、は……思いだ。距離なんて関係ない」
「ルルアンタが大事なんだね?」
「……そうだ」
「大事な人は、大事にするものだよね」
「当たり前だ」
「君は彼女を大事にしてると言えるのかな?」
 リヒトは少し勇気づけられて、きっと顔を上げた。
「だから私は、こうしてエリスの命令を――
「ダメだよ、自分に嘘ついちゃ。事実彼女は、君と一緒にいたがってる」
 例えそうだとしても、自分の側にいればルルアンタは不幸になる。不幸になっても、自分には助けるだけの力がない。
 だからこそ、リヒトはルルアンタを遠くへやったのだった。
「だが、私の側にいては、危険に巻き込むことに――
「同じだよ。どこにいたって危険じゃない場所なんてないんだからさ」
 ひゅっと言いかけた言葉を飲み込む。シャリがどこに議論を帰結させたいのかに気づき、目を険しくする。
「……何が言いたい」
「つまり、君は怖いんだよ。そうでしょ? ルルアンタを自分のせいで失うのが。死の責任を自分が負うのが怖いんだよ」
 それは――
「そんなことはない!」
「本当に?」
 リヒトは頭が混乱して、追い詰められて何を言っていいのかもすでに分からなくなりつつあった。だから痙攣したように笑みを浮かべ、言葉を吐き出す。
「……お前は、さっきから、人のことばかり言う。よどみもなく、つかえることもなく、まるで詩を朗読するような口ぶりだな。全てが分かっていると言わんばかりに。何て傲慢な。自分でそう思わないのか?」
 シャリは声を上げて、嘲るように笑った。耳の中にいつまでもこだまするような強い笑い方。やがて笑いを止め、彼は笑みの片鱗も見せない、凍りついたような眼差しでこちらを見る。
「傲慢? 面白いこと言うね。本当に傲慢なのは君だよ。自分の判断だけを信じて、頑なになって、後は人の意見なんて聞こうともしない。それは強さかも知れないけど、リヒト、」
 シャリは言葉を切って、場違いに穏やかな微笑みをその顔に乗せた。
「君は、人間として誰よりも弱いんだよ」
「っ……」
「さぁ、分かったら、早く帰った方がいいよ。暗くならないうちにね。君に夜を歩く資格なんて、ないんだからさ!」
 リヒトはその言葉を皆まで聞かずに、踵を返して走った。
 何も考えたくない。自分の中の何かが、決定的な変質をしてしまったように思われた。いや、変質なんてずっと前から始まっていたのだ。始まりがどこか何て分からない。だからこそ変質に気づかなかった。
 シャリにああ言われても言い返せないほど、自分の心はすさみ、疲れきっていたのだ。そう思えば、もう何も考えたくはなかった。だって考えれば、ぶつかるのは醜い自分の姿だ。目は逸らせない。絶対に、自分からは目を逸らすことなんてできない。
 気がつくと、宿に戻ってきていた。ぼんやりした思考のまま、ふらりと入って部屋に戻り、ベッドに倒れこむ。柔らかな感触はリヒトの体を癒したが、心までは癒してなどくれない。それは自分以外のものに求めるべきものじゃ、ないのだ。
 リヒトは、枕元に何かが転がっているのに気づいた。
 ぐしゃぐしゃに丸まった、昨日の捨てたはずの手紙だった。
「……これ」
 おそるおそる手をのばす。冷たいその感触に触れたとたん、リヒトの手は電流が走ったかのように震えた。
 手を引っ込め、そしてもう一度のばして。震えながら、彼女はその手紙を読んだ。

◆◆◆◆◆

 リヒトへ

 ちゃんと食べてる?
 ルルアンタ心配してるんだよ〜
 え、ルルアンタがどうしてるかって?
 うんとね、読んでくれてるか分からないけど、前の手紙で書いた通り、酒場に行って踊り子さんのオーディションを受けたの。
 そしたらなんと、受かっちゃった!
 えへへ、すごいでしょ。リヒトにも見てもらいたかったな。
 というわけで、ルルアンタは元気だよ。リヒトも元気だといいな。

 ……ルルアンタね、これからがんばるよ。だから、リヒトもがんばってね。
 ルルアンタは、いつまでもリヒトの妹だからね。いつでも頼ってね。風邪ひかないでね。
 元気でね。また手紙、書くからね。

 またね!


 ルルアンタ

◆◆◆◆◆

 頬を温かいものが流れた。それは頬を撫でて、ぱたりとシーツにしみを作る。
 馬鹿馬鹿しい。最初から答えはここにあったのに。
 リヒトは確かめるように、名残を惜しむように、何度も何度も手紙を読み返した。





「この間はアトレイアに頼まれて、クッキーの作り方を教えた。なかなか、あれはあれでいいものだな。そう言えば、レムオン坊やのことは知っているか? リューガ家の当主だ。顔くらいは見たことあるやも知れぬが。見知っておいて損はないだろう、今度紹介する――それで、」
 エリスは、はたと言葉の波を止め、リヒトの方に鋭い視線を寄越した。口元は笑っているが、笑っているのはそこだけだと知れる。
「あの学者について、新しい噂など聞かぬか?」
 リヒトは顔を上げて、一度きり深呼吸した。この人の顔を見ると、なんとはなしに気持ちがしぼむ。
「シャリは――
 言いかけて、やめる。
 ……これじゃ、駄目だ。こんなことでは――
 リヒトは決然とした面持ちですっと立ち上がると、胸を張った。
「もう、ここへは、来ない。ルルアンタは私が守る。大事なものはいつだって、自分で守るしかない。そうだろう? エリス王妃」
 エリスの驚愕したような顔には目もくれず、リヒトはすぐに背を向けた。堂々と、胸を張って。
「さようなら」
 そのまま、リヒトは一歩踏み出した。もう一歩。一歩。じょじょに早く、迷いもなくなって行く足取り。
 もうここへは来ない。二度と。
「待て!」
 悲鳴のような声が上がるが、リヒトはもう振り返らなかった。これっきり二度と。


◆◆◆◆◆


 エリスはどっと押し寄せる疲労感に、体から力を抜いた。ぐったりと背もたれに寄りかかり、額に冷たい手をあてる。
「始末しますか?」
 どこからともなく声がして、二人の少女が現れた。驚くほどそっくりな顔をした双子の少女。
「いや、いい」
 エリスは張りのある声でそう言って、座りなおした。
「強く――なったな。あの、小さかった娘が」
 そう言ったきりエリスは目を閉じ、思いを馳せるように黙り込んだ。
 双子は顔を見合わせ、首をかしげた。


◆◆◆◆◆


 案内されて門まで戻ると、夕闇が迫っていた。どこからか、声がしたが、リヒトは立ち止まらなかった。
「それでよかったの?」
 リヒトは声に答えようともせず、晴れやかに笑い声を上げた。
「あなたのおかげで色々吹っ切れた。でも、礼は言わない!」


 明日は、愛しい妹に手紙を書こう。
 きっと届くだろう。
 思いも、何も。


END

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 読んでいただいてありがとうございました。最後早すぎかな……
 ……えー、えーっと、それでは(逃げた!)