トカゲと伯爵と虚無の子と  ファースト・こんたくと。

「結婚して欲しい」
 握られた手のひらが温かい。シャロンは自分の顔がどうしようもなく紅潮するのを感じた。
 月明かりに照らされて。テラネでの依頼の帰り、レムオンと二人、並んで歩いていた。気がつくと会話が途切れ、なんとなく見つめあい、そして手を握られ言われたのがその言葉だった。
 鼓動で胸が揺れる。この体を突き動かす音が相手に伝わらないかと、シャロンはどぎまぎした。
 レムオンの熱っぽい視線が、シャロンにはどうしようもなく恥ずかしく思えた。
 だがそれも、不意に薄れて行く。代わりに胸を占めようとしていたのは、切ない思いだった。
 シャロンは手をそっと離して、月を見上げる。
「これが、最後の冒険……ね。ウルグの復活も阻止したし……私は、もう引退。これからは、アトレイアのところで、彼女のために働くの」
 ふっとレムオンに視線を戻すと、彼は今の今までシャロンが見上げていた月を、同じように見ている。
 シャロンは胸を押さえた。そうでもしないと、痛みで胸が張り裂けそうで。
「あなたのためじゃない……ごめんなさい、レムオン」
 シャロンはその、彫像のように美しい横顔に向かって、そう口にした。
 彼は目を伏せた。
「私が、」
 彼女は伏せた彼の顔が予想以上に青白いのを感じて、さらに言葉を継いだ。透明な、何を考えているのか分からない視線を、レムオンが向けてくる。
「妹だったらよかった。本当の。そしたら、私達、兄妹に――
「いや」
 レムオンは途中で言葉を遮り、どこか悲痛な顔で言った。
「俺とお前が、例えどんな出会いをしようと――どんな生き方を選ぼうと、俺はお前を女としてしか見れんだろう」
 今度顔を伏せたのは、シャロンの方だった。




 がやがやと、田舎――テラネ――の酒場であるのにも関わらずそこはにぎやかだった。  その喧騒にまぎれて自分も消えてしまえるような錯覚に陥る。シャロンはむしろ、それに安心してカウンターに突っ伏した。
 右手にコップを握ったまま、カウンターの木目を無意味に数え、自分のもつれた青い銀髪を恨めしく見る。
 もしこんな髪の色じゃなかったら、レムオンだって自分何か見向きもしなかっただろうに。もしこんな顔じゃなかったら、もしこんな性格じゃなかったら……
 もし、もし、もし。さっきから考えるのはそればかりだ。シャロンはレムオンの言葉を思い出してうんうんと唸った。
「で、アンタは断っちまったって訳かい」
 濡れたコップを布巾で素早く拭きながら、カウンターの向こうに座る親父が言った。
 ため息のような声に恨みがましい視線を向けてやると、親父はコップを取り落とした。
「うわっ! おいおい、そんな嫌な目で見るなよ。寿命が縮む……ハァ、あの剣聖がねぇ」
 シャロンはのっそりと顔を上げてコップをあおった。
 ちらりと親父に視線をやると、呆れたような目が返ってくる。
 シャロンはイライラとコップを叩きつけるように置いた。
 なぜか周囲で騒いでいた客たちが、さーっと静まり返る。
「……そう。私は、剣聖。
だけど、別にひがんでないわ。強制的に竜殺しになったことなんて、ちっともね。
まして、大好きな人からのっ……プロポーズを断ったことなんてちっとも後悔してないわ……」
 そこまで言って、シャロンは耐えられなくなり、わっとカウンターに突っ伏して嗚咽をこらえた。
「うぅ、ひっく……私だって、断りたくて断った訳じゃないの
……あんなに大好きな人を傷つけてしまうなんて、私はなんて馬鹿なんだろう……誰かお願い、私を殴って罰を……」
「冗談じゃねぇ、剣聖を殴ったらこっちの腕が折れ――フガァ!」
 シャロンは後ろで野次ろうとした無粋な男を見もせずに殴り飛ばし、再び泣き喚いた。
「私の馬鹿……いっそ私なんて死ねばいいのよ」
 シャロンは少し顔を上げ、静まり返った場に青くなっている酒場の親父に、物欲しそうな視線を投げた。
 親父は取り繕うように笑おうとして失敗したのか、なぜか思いっきり引きつった笑みを浮かべ、
「だ、大丈夫だろ、若いんだから。……おい、勘弁してくれよ……そんなに後悔するなら、なんだって断ったんだよ」
 シャロンは再び涙がこみ上げてくるのを感じた。
 親父が失礼にもびくっと身をすくませ、「悪かった」となだめるように言うが、シャロンはそれを無視して再び泣き喚く。
「他に好きな男でもいたんだろ?」
 何を勘違いしたのか、さっき野次を入れた男が復活して、浮かれた調子で言った。仲間が同調したのか、ヒューヒューと口笛を鳴らしてはやし立てる。
 シャロンは無言で苛立ちをこらえ、ぐっと拳を握った。
「おい、頼むから人死にだけは勘弁してくれよ……」
 人生の悲哀を感じさせる表情で親父が言った。
 しかしシャロンは全く意に介さず、まだゲラゲラ笑っている酔客の方を振り返る。
 男たちが地獄の果てを見たような顔で、仁王立ちしたシャロンを見た。


 気がつくと、既に夜が明けようとしていた。
 酔客たちはほとんどが追い出され、店の外に屍の山を築いている。
 ただシャロンだけは、胃の中がひっくり返りそうなほどの嘔吐感をこらえて、コップの中身を口に流し込むのをやめようとはしない。
 親父も既に半死人のようなげっそりした顔でシャロンを見ている。シャロンは空になったコップをカウンターに置いて、言った。
「もう一杯」
 親父は「勘弁してくれよぉ……」とかすれた声でうめくが、シャロンが睨むと渋々、酒瓶を傾けようとする。
 シャロンは見ていてもどかしくなり、酒瓶ごと奪い取って、ずっしりと重いその瓶をあおった。
 頭の奥で、ぷつっと何かが切れるような音がした。シャロンは、自分なんてもう、消えるか、誰かにボロボロになるまでこき使われるかで、死んでしまえばいいと思った。




 その場所は、とてもとても暗い場所にあった。大きな殻に包まれた卵の中のように、温かく、命の心配はしなくてもいいものの、だからといって希望もない、そんな絶望の場所。
 シャロンは、辺りのごちゃごちゃとした景色を見渡そうとしたが、焦点を合わせようとすればするほどぼやけて行くのを感じて、ふと思った。
 ああ、夢なんだ……
 だから、誰かの泣き声がした時にも、ただの空耳だと思った。が、そのすすり泣きのような切ない声音に、たまらなくなって、「誰か……いるの?」と呼んだ。
 すると、声はぴたりとやむ。そして、代わりにおずおずとした幼い声が辺りに響いた。
「だ、誰?」
 シャロンは困った。だが、どうやら少年のものらしいので、なるべく優しくなるように声をかける。頭の片隅で、自分は誰を思い出してこんな夢を見ているのだろうかといぶかしみながら。
「私は……シャロン。あなたは? どうして、泣いているの。大丈夫?」
「は、はい……」
 声の主は、戸惑っているような声だった。シャロンは、どうせ夢なのだからと、さらに優しげな声で話しかける。
「何か、困っているの? ……大丈夫だから、私に話してみて」
 これくらいシャリもかわいげがあったらなぁ……アイツのことだから、私がこんなこと聞いたら「へぇ、心配なんかしてくれるんだ。明日は竜王でも降ってくるんじゃないかな? アハハ、シャロン、頭上には気をつけなよ」とか何とか言うに決まってる。
「あ、あの、助けて、僕……」
 少年の声が焦りだした。
「どうしたの? 落ち着いて……」
「あの……僕、もうずっとここから出られないんです。もう二年も誰とも話してなくて、」
「それはどういう――
 シャロンが聞き返そうとすると、同時に、訳の分からないまま視界が白濁し――


「……う〜……ん……」
 高い鳥の鳴き声が耳朶を叩く。まぶたを通しても、強い光で眼球がうずいた。
 そろそろ起きる時間だと全てが教えている。シャロンは張り付いたようなまぶたを、ゆっくりとあけ――……

 ……開けた、が。
 そこにあったのは、シャロンの身長二つ分くらいはある、やたらと高い天井――慌てて、起き上がろうと手をつくと、その手が沈み込んでしまうほど、やわらかいベッドに寝ていた。
 シャロンはきょろきょろとあたりを確認する。
 寝室――のようだったが、貴族の屋敷にも見たことがないほど大きな部屋だった、立ち並ぶ物入れや鏡、化粧台などは、まるで神々御用達のような信じられないほど精緻すぎる彫り物がなされている。
 い、いったいここは……?
 シャロンは自分の血の気が、音をたてて引いて行くのを感じた。身にまとっているクロースが乱れていないのを見て、ほっと胸をなでおろす。着ていたブレストプレートと、ロングブーツと……愛用の剣がないようだが……
 まさか、酔って人様の邸宅に入ってしまったのだろうか?
 シャロンは狼狽のあまり、気がつくと、天蓋の垂れ布を握り締めていた。
 どうしようもなく心細い。胸がきゅんとして、世界に自分ひとりしかいないかのような心細さを感じる。
 シャロンは、まずレムオンの顔を思い浮かべ、そしてなぜか次に浮かべたのは、――シャリの顔だった。
 ぶんぶんとシャロンは頭を振って、ますます強く垂れ布を握り締めると、下唇を噛んだ。
 あんな奴のことを思い浮かべるなんて……ん? 人の……気配?
 思わず息を呑んで、やはり神々専用としか思われない、あめ色の扉を凝視していると、ノックの音がした。
 一体誰が来たっていうの……? というか、こういうシュチュエーションの場合、多分敵よね……
 シャロンは念のため、はだしのまま床に降り立つと低く身を落として呼吸を整えた。いつでも飛びかかれるように。誰にも……ある一人の人物以外には殺されないように。
 
 しばらくためらうような沈黙が漂い、そして――ついにゆっくりと扉が開いた。
 足の筋肉が強張る。
 扉の向こうに立っていたのは、ぱっと見て貴族風の男だった。館にふさわしいと言えば、ふさわしい――そう解釈しかけ、シャロンはある事実に気づいて自分の目を疑った。
 トカゲ……
 ……
 ええと、男は、くすんだ金髪で、短い口髭をきれいに整えていた。目は二重で鋭く、どこか爬虫類を思わせる狡猾さがある。着ている服は上等なものだが、さほど華美という訳でもなく、金持ちの商人と言われても、シャロンは信じただろう。
 そこまでは全然おかしくも何ともない。……妙なのはその胸元だった。何か――、赤ん坊サイズの、緑色の何かを抱えているのである。シャロンの目にはトカゲにしか見えなかった。何かの悪夢としか思えない、異様に大きなトカゲ。
 男は、暗い灰色の目で珍獣でも見るようにシャロンを見て、手元のトカゲを愛しそうに撫でている。
 シャロンの肌がぞっと粟だった。
「あの……」
 シャロンは、体の芯に不意にまとわりついた不快感を押し込め、何とか声を上げた。それには苦いものをたくさん飲み込まねばならなかった。
「あの、あなたは……ここはどこでしょう。失礼をしたのなら、その……謝りますけれど」 
 シャロンが言い切って様子をうかがっていると、男はぱっと顔を明るくする。
 シャロンが何事かと目を見張っていると、彼はずんずんと歩み寄ってきた。
 シャロンは危うく後ずさりしそうになる。
「いや、失礼なんてありはしないよ。安心したまえ」
「……そうですか。じゃあ、私、これで失礼して……」
 シャロンは安心して顔を緩める。
 すると、なぜか男はシャロンと対照的に渋面を作った。
「いやぁ、フム。しかしね君。私は君を道端で拾ったのだから、当然君に関しての所有権は私にあると思うのだが」
「……は?」
 シャロンは思わず耳を疑った。次いで言葉の意味を咀嚼して目を丸くした。
 ……しょゆうけん? みちばたで?
「一体どういう意味ですか?」
 シャロンはそこはかとなく剣呑さを込め、突っぱねるように言う。顔と裏腹に心臓がバクバクと音をたてていた。
 が、男は全く動揺の気配すら感じさせない動きで口髭を撫でると、ニッと笑った。
「普通、拾ったものは自分のものだろう? であるからして、私に拾われた君は、私の物だという意味だ」
「いい加減にしてください。怒りますよ?」
 シャロンは声を意図的に低くして、男を睨んだ。そこらの小娘だと思っているのなら、大間違いもいいところだ。
 それにしても、この男……変態か何か? 頭もちょっとおかしいみたいだし。
 シャロンは、ニヤニヤと上から下まで舐めるように見られた。
 背中を怖気が走る。だがそれをぐっとこらえて、シャロンは聞き返した。
「……なんですか」
「いや、何。夜が来るのが楽しみでならなくてねぇ。そのかわいい顔で怒ってくれるんだろう? どんな声で怒ってくれるんだね?」
 シャロンは、その言葉の意図するところを想像して頭がくらくらした。次いで、自分が言われているのだと思い出して全身を寒いものが走った。
「あなた何を――!」
「時に、」
 男は言葉を切り、見下すような、嫌らしげな笑みを浮かべてこちらを見る。
「蛇はお好きかね? お嬢さん」

「……!!」
 シャロンは不愉快な固有名詞を聞かされてもう頭の熱を堪えきれず、男を突き飛ばした。
 「ぐあっ」とみっともない声を上げて男が毛足の長い絨毯に倒れ込む。
 男の胸にいたトカゲが放り出され、慌てたようにベッドの下に這いずって行った。
 しばらく見ていても、男はぐたっと倒れたままだ。シャロンはとりあえず溜飲を下げ、脱出しようと思い立って早足で窓に近づいた。
 窓は閉まっている。シャロンはその、木製の窓を開けようと押したが、開かない。
「……え?」
 シャロンは一瞬眉をひそめ、それから気を取り直して、今度は力を入れて窓を押し開けようと手をあてた。開かない。さらに力を込める。開かない。
 終まいには力を使い果たして、シャロンは壁を背にしてずるずると絨毯に座り込んだ。息が弾み、肩がおもちゃのように揺れる。
「一体、どうなって……」
 シャロンがうんざりとぼやいていると、向こうで男が立ち上がった。  もはや構える気にもなれず、シャロンは目を逸らす。弱いしこの男。
「フフ、フっ……、無駄だよレディ。この屋敷はねぇ、私の意のままになるのだよ。つまり君は、私の許可がなければ出ることも入ることもできないという訳だ。私のかわいい『永久の宝』のおかげでね!」
「……『永久の宝』?」
 シャロンはもう怒る気力もなくそちらに視線を戻して聞き返した。すると男はゆっくりと頷き――しかし、なぜか突然ぎらぎらした表情から一転、狼狽するように青くなり、その場をグルグルと回り始めた。
「……おお、そう言えばアレは今どこにあるのだ? おーい、出てきなさい!」
 男は辺りに向かって叫びだした。
 この人、頭は大丈夫なの?
 とシャロンは冷静にその狂態を観察していたが、やがて疲労が緩和されてくると、ここから出られないのだという事実を思い出して、沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。
 シャロンはさっと立ち上がると、這い蹲ってベッドの下を覗き込んでいる男に近づいて、軽く(少なくともシャロンの基準では)その尻を蹴飛ばした。
 男は、ベッドの下に激しく顔を突っ込み、隠れていたトカゲにでも噛まれたのか「ギャっ」と悲鳴を上げた。
 シャロンは有無を言わさず男に顔を近づけた。
「ということは、その永久の宝……? をあなたから取り上げれば万事解決ね?」
 首に手を軽く(シャロンの基準では)かけて尋問すると、男は苦しそうにもがく。シャロンは眉を思いっきりしかめて睨んだ。
「は、離してくれ! そんなことをしても永久の宝は絶対に渡さないぞ!」
 シャロンはため息をついて、男から手を離した。
 男はすぐさま走ってシャロンからなぜか距離をとると、乱れた襟元を直す。
「き、君は強引な女性だな……まぁ、そう言うのも嫌いではないがね。まだ夜には早いよ……フ、フ、フフフゥ!?」
 シャロンは気がつくと、そこらにあった花瓶を男の頭に投げつけていた。男は間一髪で身を引いて、花瓶は後ろの扉に当たって砕け散る。
 絨毯に水がぶちまけられて、暗い染みが広がった。男の顔が青くなる。
「……今の、間違ったら死んでいたよ? 君は一体、何を考えているんだ……」
 シャロンは小さく肩をすくめた。
 そんなの自分でも分からない……レムオンがいてくれれば、違うのかも知れないが。
 男は一瞬口ごもり、困ったように視線をさ迷わせ、床を這って近づいてきたトカゲを見つけて顔を明るくした。
「おお、こんな所に……おお、よーしよし。大丈夫だったかね?」
 そしてトカゲにぶつぶつ話しかけている。シャロンはうんざりしてため息を吐くと、背を向けた。
 一体、どうすればいいのよこの状況……そう言えば、今頃レムオンはどうしてるかな。まさか、私のように悲惨な状況にはなっていないでしょうけど。
 レムオン……私は……


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