「ネメア様、お誕生日、おめでとう!」
その叫びと同時に、そこかしこで景気付けのファイアが上がった。夜空を突きぬけるような、盛大な拍手が響き渡る。
「え……?」
ラシェルは顔を上げた。
ネメアは生きていた。自分も無事だった。
彼女のすぐ後ろで、ヴィアリアリが尻餅をついている。彼女は仕事をやりとげた者特有の、満足感にあふれた笑みを浮かべていた。
ラシェルは、とりあえず説明を求めるために、カルラを見る。
「……あー、えっと、黙ってたんだけど、今日はネメア様の誕生日なワケ。だから、祝おうと思ってたのよ。ネメア様、きれいになってるでしょ?」
……ラシェルは嫌な予感と共に、恐る恐る自分が押し倒した男を振り向いた。
ネメアは今や、ネメアたる理由を喪失してしまったかのように見えた。いや、全てのアイデンティティを喪失して、自己探求の旅に出ているのかも知れない。少なくとも、その瞳に意志が戻ってきた様子はない。
彼の
頭にリボン。
首にリボン。
腕にリボン。
鎧にリボン。
全身が、ピンクのリボンで結ばれている。
「あ、なんだ。じゃ、暗殺って言うのは勘違い?」
シャリがこんな時でも明るく言った。微笑むカルラ。
「暗殺? アンタたちが、ここの所暗躍してるのは知ってたけど、まさかそんなこと疑ってたなんてね。こんな人目の多い所で、暗殺も何もないでしょ」
ヴィアリアリは大げさに誇らしげな顔をした。
「かなり練習したけどね。暗殺って? カルラに直接頼まれたのよ」
ラシェルは呆けてしまっていて、逝った目のまま動こうとしない。……一体、自分たちは何を守るためにがんばっていたのだろう。
そのうち怒りが沸いてきた。
「さぁ!」
カルラが、同じく呆然とするネメアをニコニコと見て、パン、一つ手を叩いた。
何て人騒がせな。
「場所を移しましょ。城に会場を作ってるから」
カルラはネメアを半ば担ぎ上げるようにして運ばせた後、ニコニコしながらその後に続こうとしていた。お祭りが好きなのだろう。きっと。
だが、その背後に不気味なオーラを放つ二人の存在があった。
ラシェルは生温かい微笑みを浮かべて、カルラの肩を叩く。
「ねぇ、カルラ。まさか、このまま行けるとは思ってないわよね?」
「うん。僕、結構怒ってるんだよ。まぁ楽しかったけどね。何で最初に言わないのかなぁって思って。うふふあはは。大丈夫、優しくするからさ」
「え、いや、ちょっと、あの――」
カルラの抵抗虚しく、深夜の公園に悲鳴が響き渡った。
広いホールに、幾つものテーブルが立ち並び、人々が思い思いに食事している。一番上の席にいるのはネメアで、まるで神のように大事にされていた。美女がゴブレットに酒を注ぎ、肩を揉まれている。
ネメアはリボンがあまりにもショックだったのか、それでも呆けていた(ちなみになぜか、まだリボン外してない)
だがもはや、ネメアの誕生日を祝う会であるということは忘れ去られつつあった。
ラシェルとシャリが味方でいられる最後の一日が終わって行く。
すでにどんちゃん騒ぎと化した場。ラシェルはため息をついて、それらを見ていた。隣ではシャリが、同じようにため息をついている。かなり準備に奔走していた分、全て無駄だったと分かった時の脱力感がひどいのだろう。
彼はどこか遠い目で、皆の様子を見ていた。
ラシェルは呆れ以外の何かを感じ取って、話しかけようと――
「はーい」
とそんな時、カルラが酔ってとろんとした眼差しのまま、大きな声を上げた。
ラシェルは話を中断して、カルラを見る。
皆が注目すると、カルラは手を上げる。
「劇の続き、見たい人!」
ラシェルは、もはや劇の話は終わったことだと考えていたため、この提案にかなりビクッとした。
完全に宴会ムードで、カルラはびしぃっとラシェルを指差した。
もはや他人の意見なんて聞いていない感じである。
「じゃ、主演二人、前に出て〜ラストラスト」
ラシェルとシャリは、顔を見合わせた。
これが正真正銘、最後の演技である。
皆に促されて、渋々前に出ラシェル。
シャリはもうすでに乗り気なのか、帽子を取ってお辞儀した。
確か、このラストでのシスティーナのセリフは、自分の運命を悲しみ、ウルグの変貌を責めるもの。
だけれども、彼は、最後のこの演技で、セリフ通りのことを言うつもりなど、微塵もなかった。
彼は、一瞬にして悲劇の美少女、システィーナの顔になる。そして、言った。
「しょせん、私たちは住む世界が違うのです。あなたは人で、私は神。身分違いの愛が、成就するなどあり得ましょうか」
ラシェルは、いつものアドリブ――そう割り切って答えようとした。
だが、彼のどことなく真剣な眼差しが、それをためらわせた。彼女は代わりに、彼女だけの言葉を吐いた。
「願いは叶えるためにある。お前が一番、それを知っているはず。少なくとも、私はそう信じている。お前を愛しいと思う心に、偽りなどあるものか」
シャリは、ラシェルにだけ見える角度で微笑んだ。
「……しかし、……今は、さよならです」
ラシェルは観客の方に向き直る。
「お前を失った私は、再び闇に落ちるしかないというのに。私を置いて行かないでくれ、システィーナ!」
それが、台本の最後に記されていたセリフだった。この後、システィーナは身を投げて、人々のソウルになって今も宿っていると言う。
ラシェルはシャリと視線を交わした。シャリがいなければ、こんな舞台は出来上がらなかっただろう。それに、もう一つ。どうしても話がしたかった。二人で。今の、セリフのことを。
空に光があふれた。かすかな、しかし確かな光。夜明けが、来る。
ラシェルは空を見上げながら、シャリに向かって微笑んだ。夜明けを見よう、そう言って誘われたのだった。
「……夜が、明けたわ」
ラシェルは、何がしかの期待を込めてシャリに視線をやった。
彼女は、シャリに一つ、何でも言うことを聞くという約束をもらっていることを思い出した。最後に彼は、自分からナイフを引いて剣舞を終わらせたのだ。シャリのせいで剣舞を失敗したら、ラシェルの言うことを何でも聞く。そういう約束。
シャリはラシェルの視線に答えて、影のある微笑みを浮かべた。
「言っただろう? 僕たちは光と影。重なることはない。重なることは、どちらかの死を意味するんだからね」
シャリはそう言った後、不意に泣くような笑うような表情を浮かべた。
「……今なら」
シャリは言葉を次いだ。ちょうど逆光で、その表情はよく見えない。
「今なら、君の願いを一つだけ、叶えてあげるよ」
ラシェルは瞑目した。
ああ、それでも私はその答えを選ばない。
彼女はそう思った。
しっかりとシャリを見つめる。
「なら、世界のどこででも悪事を働いて。私が全部止めてみせるから、だから」
「……だから?」
ラシェルはくしゃっと顔を涙で歪めた。
「待っていて。私を」
「ふふっ……アハハ」
シャリは笑った。まるで嘲笑のように、あるいは憫笑のように。
「だったら追いかけてみなよ! いいから、この僕をさ。全力で受けてたつよ、ラシェル・ルー!」
シャリはそう叫んで、姿を消した。
ラシェルは涙をこらえた。泣いている暇はない。
荒涼とした風が吹いていた。そればかりが今は、彼女の追い風だった。
恋は、まだ始まったばかりである。
一方その頃。
ネメアはパーティー会場の席で、一人呆然とつぶやいていた。
誰も彼の話を聞かなかったせいで放置されていたのだが。
彼はぷるぷると震えた。
「私の誕生日は……! 昨日だ……!」
後日、ネメア様が引きこもりになったとベルゼーヴァが大騒ぎするのだが、それはまた別の話である。
END