黄泉の乙女とピンクのリボン フィフティーン。ステップ!

 ラシェルは舞台の裏で、まだバクバク言っている心臓を宥めた。
 彼女の頭の中は今や真っ白だった。シャリと唇を重ねたシーンばかりが、さっきからリフレインしている。
 これから夜間部、闇の中での話が語られるわけだが、ラシェルは全くその事に意識が行っていなかった。さっきから、青くなったり赤くなったりを繰り返している。
「ラシェル」
 その後ろから歩いてきたシャリが、全く普段と変わらない調子で話しかけた。
 しかし、ラシェルは何事かブツブツとつぶやいている最中で、聞こえていない。
 シャリはしょうがないなぁ、と言って彼女の耳元に唇を寄せた。
「わわわわーっ!」
「ひゃあ!」
 ラシェルはビクっと肩を揺らし、顔面蒼白のまま振り返る。
 シャリはニコニコとその様子を見守った後、満面の笑みを浮かべてみせた。
「いよいよ、始まるね? 夜間部が。あんなに練習したんだし、きっと大丈夫だよ。がんばってねー」
「……え、夜間部?」
 ラシェルはきょとんとする。とっさに、言葉の意味が分からなかった。
「忘れてたの? ほら、徹夜で練習したでしょ? 剣舞、剣舞」
「……え」
 ラシェルはよろめいた。
「アレ、本気だったの? 別に、剣舞じゃなくたって、他にも方法は……」
「アハハ。本気じゃあなかったら、一晩も特訓に付き合ったりしないよ」
 ラシェルは額を押さえて唸り出した。
 シャリは何か遠い目でラシェルを見る。
「……準備、しておいたら? ここから先は、いつ暗殺者が来るか分からないんだからさ」
「……そーね。でもね、シャリ」
 ラシェルはシャリのそれよりも、はるかに虚ろな視線を投げた。
「……頭の中真っ白で、ステップとか覚えてないの」
「え」




 鐘が三回、鳴った。いよいよ、舞台の後半部が始まる。
 すでにとっぷりと日が暮れて、本物の星々が夜空を照らしていた。

 夕飯を取った後の人々が、膝掛け等持参で集まる。娯楽に飢えているのだ。
 ややあって、ほぼ全員が席についた頃。幕がするすると持ち上がった。
 静まり返る、公園。普段はきれいに掃き清められている地面に、食べ物のカスなどが散らばっている。
 
 舞台上には、何のセットも存在しなかった。


 そこは暗くて、冷たくて、何もない場所だった。
 ウルグが膝をついて、何かを一心に祈っている。
 彼の心を責めさいなむ罪悪感と憎しみを、天の父が浄化してはくれないかと無為な祈りを続けているのだった。
「ウルグ……」
 闇の中でなお、一層暗い光を放つ女が現れた。いつの間にか彼女は、そこにいた。
 栗色の長い髪が胸まで覆い、完璧な形の輪郭を浮かび上がらせている。
「……私は聖母神ティラ。あなたの姉」
 ウルグはしかし、その冷然たる声にも顔を上げない。
 ティラは楚々とウルグに近づいた。ぴたり、と動きを止める。
「あなたの失ったものは大きい」
「大きい……?」
 そこで初めて、ウルグはギリ、と顔を上げた。目が真っ赤に燃えている。
「大きい、などという凡百の消滅ではない。彼女は世界の花だった。彼女は世界における、ただ一つの良心だった。それを失ったのだ」
「あなたの失ったものは、大きい」
 ティラは弟の告白を聞いても、眉一筋動かさなかった。心が闇に侵されて、冷え切っているのか。
 ウルグはそれを考えて、むしろうらやましいと思った。
 悲しみすら、この女には存在しないのだと気づいたからだ。
「……最後に、彼女は言った。我に人間を憎むなと。しかし、憎まずにいられるだろうか? システィーナ、我が乙女よ。お前のその優しさすら、人間ゆえと知ればこそ、我は人間が憎いのだ」
 ティラは目をつむり、首を横に振った。
「我等が父は、願いなど叶えはしません。しかし弟よ……システィーナを、この闇から救い出す方法は存在します」
 ウルグは虚ろな目をティラに向けた。不安げに揺れる眼差し。
「私に。父ではなく、この私に祈りなさい。私は聖母。私は全ての母。あなたのシスティーナに、再び命を与えるなど容易きことです」
 ティラが淡々と語る。まるで自動人形のように淡々と。
「渡しなさい。求めているのはあなたの祈りです。私への、絶対の忠誠です」
 ウルグは、そんなティラの異常性など意に介さない。彼は、ティラの両腕に縋りついた。

 ラシェルは予定通り、カルラの腕に縋りついた。演技に集中しているのか、カルラの表情に変化はない。が、足が神経質そうにぴくりと動いたのを、ラシェルは見逃さなかった。
 ラシェルはその腕を客席まで引っ張った。
「では祈ろう。あなたに全てをたくすために、あなたへの誓いを」
 ラシェルは、腰の剣を抜いた。手に馴染んだ感触。鋭い音が、夜空に跳ねる。
 まずはゆっくりと、剣を構えたまま回転する。完全にアドリブだったが、レルラが気を利かせてくれたらしく、色っぽいムーディーな曲に変わった。
 音楽に合わせて、剣と手足をからめるように、一つの軌道を描くラシェル。それは、荒々しいウルグの舞ではなかった。しかし、その妖しい空気が客席を魅了する。
 ネメアですら、ラシェルの舞に釘付けだった。
 一方、ラシェルはと言えば、内心冷や汗たらたらだった。全てアドリブである。一回コケたら、終了。
 ラシェルはしかし、顔にだけは焦りなど微塵も出さずに、ネメアの側まで舞った。
 剣がひらめく。
 ラシェルはなおも不規則に舞い踊りながら、辺りに暗殺者の姿は――もっとも一目見て分かる暗殺者が暗殺者だとは思えないが――ないかと視線を走らせた。今のところ、怪しい影は……ない、ようにラシェルには思われた。
 一方、カルラはと言えば、驚いたことに冷たい表情を崩さないまま(もっとも、これは驚愕のあまり顔面の筋肉が硬直しているだけかもしれないが)、ラシェルの舞をじっと眺めている。
 曲がラストに近づいた。
 ラシェルは、幕が降りるまでネメアの側にいなければならない。少しでも、隙を作るわけには行かない。シャリがいかにもな視線を、幕の影から送っているのが見えた。
 ラシェルは流れるような動きでネメアの隣に跪くと、こうべを垂れた。
「我が、姉よ。我は礼を尽くした。そちらも尽くすのが筋」
 カルラはしばらく黙った。黙った後に、言った。

「あなたの乙女に永遠の命を。あなたはその代わりに、私のために働くのです」
 幕が、するすると閉じた。明かりが灯された後、ウルグは周囲の客席を鋭く睨んで、踵を返した。
 盛大な拍手が上がった。



 ラシェルは客席から見えなくなるや否や、動悸のあまり青くなって座り込んだ。
「ああ……あ、ああ……」
「上手く行ったねぇ」
 ドレス姿のシャリが、ラシェルの横にしゃがみこんだ。肘をついてラシェルの顔を覗きこむ、シャリ。
「……あああ、もう無理もう無理もうむり」
「どうして? 結構、いい線行ってたと思うけどね。自然だったし、演技も壊れなかった。いいんじゃない?」
「……うぁぁああ」
「ねぇ」
「もう、絶対無理だから、あんなの……っ」
 シャリは頭を抱えるラシェルと対象的に、機嫌良さそうに言葉を続けた。
「……じゃあ、やめるの?」
「へ?」
「やめる? 僕は別にいいよ。この舞台も何も放り出したって」
 ラシェルは不安そうに首を振った。
「じゃあ、泣き言、言ってる場合じゃないよん。そろそろ、後半も終わる」
 ラシェルは顔を背けた。
「……駄目。絶対、駄目」
「やらなきゃ。ラシェル」
 シャリは短く言葉を切って、強いイントネーションで言った。
 ラシェルは涙を浮かべてシャリの顔を仰ぎ見ると、彼の名を呼んだ。
「忘れてない?」
「何を?」
 即座に聞き返すシャリ。
「……シャリがとちったら、」
 ラシェルは似つかわしくない、意地悪な微笑みをたたえた。
「何でも言うこと聞くんだからね」
 それは多分、ラシェルが今まで浮かべた笑みの中で、一番魅力的な微笑みだった。





 ウルグは戦場に立っていた。
 鎧を着た戦士が溢れている。彼等はウルグに向かって行っては、切り捨てられていた。
 その罪深い返り血を浴び、凄絶な形相になったウルグ。彼は客席まで飛び出し、なおも戦い続ける。
 すでに、システィーナと過ごした穏やかな日々の名残は、もはやどこにもない。
 舞台の袖から、二人の人影が歩み出た。一人は毅然と、もう一人は悄然と歩いている。
 ティラと、システィーナだった。
 システィーナの面には、もう生きていた時のような清冽さはなかった。暗い影が、その整った顔に陰りを与えている。
 対してティラは、満足そうな様子で、ウルグの戦い振りを見ていた。
「……これでは」
 システィーナが、押し殺した声でつぶやく。悲しそうな目を覆って、彼女は俯いた。
「哀れです。彼等が……死んで行く彼等が」
「そうでしょうか?」
 冷たい声を、ティラは返した。
「人間は、死ぬものです」
「そうしてあなたの闇のかいなは、わたしの体をも抱きすくめたのです」
 システィーナは、きっとなった。
「あなたこそが、ウルグ様を闇に落としたのです」
「闇に落とした? これは異なことを。闇に落としたのはあなたですよ」
 ティラは初めて、感情めいたものをその瞳に乗せた。憎悪であった。
「……あなたが死ななければ、あの子がここに来ることもなかった。あなたがかばわなくても、ただ人に神が殺せるはずはなかったのです」
 システィーナも、その瞳を見返した。透徹した、真っ直ぐな眼差し。
「ではあそこで、あの方が刺されるのを、黙って見ていればよかったのですか」
「あなたはそうすべきだった」
――確かに、この結果は生まれなかったかも知れません。けれどもあの時、わたしがあの方をかばわなかったとすればそれは、もうシスティーナではないのです……」
 彼女は悲しげに首を振って、続けた。
「ただの、抜け殻でしかない」
 ティラの闇色の瞳に、憎悪が吸い込まれて行った。後には、湖面のような静寂が広がった。
「わたしはシスティーナです。それでなければ、何だと言うのですか。わたしは最後まで、あの方の愛してくださった、システィーナなのです……!」
 システィーナはそうつぶやくと、死を振りまこうとしているウルグに駆け寄った。黒い瞳がきらきらと輝いている。

 ラシェルはシャリの気配を感じて、振り向いた。客席で適当に暴れつつ血のりを巻いていたラシェルだが、シャリがやって来ると嫌そうな顔をした。
 まさか。剣舞、ここでやるつもりなのだろうか。
 シャリをじっと見ていると、彼は顎をしゃくった。ネメアの席の、ちょうど真後ろに座った女が、もぞもぞと動いて、そわそわとネメアの様子を見ている。
 怪しい。暗殺者か何かの可能性が高い。
 ラシェルはそう判断すると、シャリと視線を見交わした。人命が掛かっているのなら、真剣に取り組まねばならない。今さら、剣舞なんてああだこうだと言っている場合ではない。

 いつの間にかシスティーナの手に、小振りなナイフが握られていた。ウルグも剣を構え、システィーナと向き合う。しかし間に流れているのは、愛情に裏打ちされた真摯な気持ちだけだった。
 そして、剣舞が始まった。音楽が民族的なものに変わる。
 リズムに合わせて、剣を突き出したり引っ込めたりを繰り返し、薄皮一枚を掠めあう、二人の刃。
 ラシェルはだが、ステップそのものを忘れてしまっていたため、ほとんどアドリブでシャリのナイフを避け続けなければならなかった。
 そして、――いよいよ動いた。
 ネメアの後ろにいた暗殺者が動き、ネメアの首に触れようとする。ラシェルはさりげなく剣を突き出した。相手の拳を封じ込めた――のはいいが、カチン、と刃同士がぶつかり合う。
 息が合っていないのだ。
 ラシェルは息を合わせるということがどう言うことなのか分からずに、途方に暮れた。ネメアを助けなければならないのだから、がんばらねば。もしもネメアが死んだりしたら、ラシェルはきっと耐えられない。システィーナのように。
 シャリは必死のラシェルを見かねたように囁く。
「やりたいようにやればいいよ。僕は君。君は僕。君が君でなかったら、こんなことしようなんて思わなかった」
 その言葉を聞いたとたん、彼女の中で何か張り詰めていたものが嘘のように和らいだ。
 勢いよく、暗殺者の凶刃を振り払って行く。シャリとの息もぴったりで、まるで双子のようだった。
 とその時、突然ラシェルの背後から、カルラが花びらをまいた。かぐわしい香りが広がるが、それがラシェルの視界を一瞬遮る。ラシェルはその拍子にバランスを崩し――ここで転んだらネメアが死んでしまう!――、何とか姿勢を持ち直した。しかしその瞬間、後ろからカルラにドンと押される。ラシェルは絶望的な気持ちと共に倒れこんだ。
 シャリは一瞬で状況を見て取った。そうして暗殺者を阻止するためには、ラシェルごと貫かなければならない、という事実に気づいた。
 シャリは、とっさに刃を翻していた。
 ラシェルは倒れこんだ姿勢のまま、何とかネメアを助けようと椅子の足を思いきり引き寄せた。
 一瞬の隙をついて、黒いローブ姿がネメアに走る。ネメアは咄嗟に反応して、槍で暗殺者の攻撃を防御しようとした。ネメアに腕をのばすラシェル。間に合うか――

 ―― 一瞬の空隙。

 ラシェルは気がつくと、ネメアに覆いかぶさっていた。黒いローブが翻る。ラシェルは死を覚悟した。
 そして次の瞬間、信じられないことが起こった。

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