「……ねぇ、メイちゃん。大丈夫?」
隣の席の御羅田が、心配そうな顔で言った。
御羅田はこの間から、あたしのことを名前で呼ぶようになった。と言うか正確には、あたしがそう呼べと頼んだ。あたしも御羅田のことは、シャナと、名前で呼ぶ。最初は周りに変な目で見られたけど、あたしは気にしなかった。だって気にしたって、始まらないもん。
先生が黒板にチョークで書きこむ音だけが響く中、あたしは教科書で顔を隠して、何でもないふりを装った。
「ん、何が?」
「……メイちゃん、何か困ってるんなら相談してね。私にも、何か出来ることがあるかも知れないし」
御羅田はそう言うと、メガネの縁に手をやって薄く微笑んだ。
あたしは黒板に向かったまま、唇を噛んだ。
どうして御羅田は何のてらいも無く、そんな言葉を口に出来るのだろう。
胸がムカムカする。
その時、突然後ろでガタン、と誰かの立ち上がる音がした。振り向くと、制服姿のシャリがきれいな眉をひそめてあたしを見てる。
「先生」
シャリは、びっくりして手を止め振り返った先生に向かって言った。
「勅使河原さんの具合が悪そうなので保健室に行ってもいいですか?」
口調は真剣だけど、あたしの席からはばっちり見えた。シャリの顔、笑ってる。
「あ、ああ――別に構わないが、」
先生が目を瞬きながら言う。
シャリは先生がそれ以上何か言う前にあたしの前まで来ると、「大丈夫?」と言いながら手を差し出した。
どこかの女子がキャーと黄色い声を上げる。
あたしは嬉しいのに、何故か胸がもやもやした。
……とりあえず、調子を合わせておこう。
シャリの手を取る。席を立つと、御羅田が不思議そうにあたしとシャリを見てた。何となく微笑み、言う。
「ゴメン、じゃあ行ってくる」
「う、うん……ノート後で見せるね」
「ありがと」
/*■*■*/
シャリは保健室への道を歩く間、ずっと無言だった。授業中の整然とした声が遠くに聞こえる。
「ねえ、シャリ」
あたしは、窓の外で体育やってる三年生を眺めながら、口を開いた。
「ん? なに?」
シャリの声は思いの他柔らかかった。あたしが足を止めると、まるでそれを予期していたかのようにシャリも立ち止まる。
「ねぇ、……」
あたしは言いよどんだ。どうしたんだろう。言葉が出てこない。こんなの初めてだ。どうしてこんなに苦しいんだろう。
シャリは振り返った。その顔は、微笑みをたたえている。
「どうしたの? メイ」
「シャリが――……」
あたしはそこまで言って、ようやく自分が何を言いたいのか――聞きたいのか分かった。
本当はずっと引っかかってたんだ。昨日からずっと。『仕事』の事も気になってたけど、あたしは。
「シャリが叶えようとしてる願い。前にある人のものだって言ってたけど。それは……誰のもの?」
榊原の言った、あの言葉。
"今あいつが叶えようとしてるのは、君の願いじゃない"
その言葉がずっと胸に引っかかって、外れないんだ。
シャリは一瞬だけ目を細めたけど、また笑顔に戻った。全てを覆い隠すような笑顔に。
「気になる?」
「眠れないくらい」
「……あえて言えば、宿敵かな」
「シュクテキ、どうして、宿敵の……」
あたしは、どきどきする胸に手をあてた。
どうしてシャリが、宿敵の願いなんて叶えなきゃならないんだろう。
シャリはテクテクと歩いて窓まで行くと、窓枠に手を掛けて外を眺めた。
「前に話したっけ。僕は、ただ願いを救う存在なんだよ。言って見れば、ただの人形さ」
「にん、ぎょう……って……だって、そんなこと」
あたしは混乱した。だってシャリはこうしてあたしの前で動いてる。人形なんかじゃないのに。
「シャリは、」
あたしの言葉をさえぎって、シャリは続けた。
「僕には痛みがない。悲しみも喜びも、僕の間をすり抜けて行くんだよ。時間も何も無い場所で、淡々と願いを叶える人形。……だけどね、」
シャリが急にこっちを見て、薄い笑みを浮かべた。
「あのコはいつだって僕の前に立ち塞がる。世界を救うために、何度でも生まれ変わってあいまみえる。僕たちは繰り返すんだよ、永遠に。世界の存亡を賭けた、戦いをね」
あたしは漠然と、シャリの言いたいことを悟った。あたしも同じだったからだ。
色のない世界で淡々と生きてたあたし。全てがどうでもよくって、興味もなかった。世界は、あたしから遠いところにあった。それはあたしにとって、米粒以下の価値しかないものだった。
だけどシャリが現れて。シャリに惹かれて。
……このつまらない世界の中で、ただシャリだけが美しく輝く宝石に見えたんだ。
あたしにはシャリしか見えなかった。シャリしか、いなかった。
だから分かる。
シャリの言いたいことが。
あたしに彼しかいなかったように、シャリにはその人しかいないんだ。
その人以外は、きっと。……いらないんだ。
あたしは胸が詰まって、何も言うことが出来なかった。顔を背ける。そうしないと、とてもシャリには見せられない顔をしてしまいそうだったから。
それで、シャリは気づいたんだろう。あたしが悟ったことに。
彼は言葉を止めて、奇妙なぐらい無邪気に笑った。
「アハハ。ねぇ、メイ。知りたかったことが分かったんなら、僕のお願いも聞いてくれないかなぁ?」
「お願い? お願いって……何の?」
あたしはどきっとした。だって昨日、榊原に言われたこと――……パールみたいなモンスターを使って人を殺すこと――について言われるのかと思ったから。あの時は榊原に言われたから保留することが出来たけど、多分シャリに言われたら、あたし……
でもシャリは、そんなこと言わなかった。代わりにその小さな唇が紡いだのは、胸をひやりとさせる言葉だった。
「お父さんを誘って、お墓参りに行って欲しいんだ」
立ちすくんで動けないあたしを嘲笑うかのように、シャリは言葉を継いだ。
「君のお母さんの」
――……
目の前が暗くなった。