教室の扉に手を掛け、一気に引いた。榊原と話していたせいで、朝早く出てきたと言うのにもうほとんどのクラスメイトがそろって雑談。
あたしはそれを尻目に、自分の席へと行こうとして――
はっと息を止めた。
どうしよう? シャリが頬杖ついて黒板の方を眺めてる。あたしの席に行くには、シャリの前を通らなきゃならない。どうしよう、シャリを見ただけでこんなに驚いてるのに、前を通るなんて出来ないよ……
……ううん、おかしいよこんなの。馬鹿みたいじゃん。シャリのこと意識しすぎだよ。
自分に言い聞かせるけど、さっき榊原に言われた事が頭の中で何度も何度も響いて、まともに歩けもしない。一歩踏み出しただけで身がすくんで、汗が出てきて、自分の体が自分のものじゃないみたいだった。
何人かの同級生が、意地悪気に私の方をちらちら見てる。馬鹿にされてるの? ああ、シャリが気づいちゃう、あたしの事に気づいてしまう……
自分でもびっくりしたことに、あたしは泣きそうになってた。シャリは好きな人で、あたしに命令する人で、こんな反応おかしいのに、何であたしはこんなに緊張してるの?
心臓がどくんどくんと体を揺らす。シャリが振り向いたのは、その瞬間だった。
「あ……」
声が、出ない。シャリがあたしを見て不思議そうに首を傾げてる。駄目だ、挨拶しなきゃ、おはようっていつもみたいに父さんを殺す前と同じように朗らかに挨拶しなきゃなのにどうして声が出ないの!!
そんなあたしを見て、シャリは唇の端を吊り上げた。何か言われる――? そう思ったのはあたしの勘違いだったらしい。シャリはあたしの事なんて無視してまた黒板に視線を向けた。
胸がちくりと痛んだ。
どうして? 話したくなかった……あたしはシャリと話したくなかった、それなのにいざ無視されてみると心がこんなに痛い……何なの? あたしどうしちゃったの……?
あたしはふらふらとした足取りで、自分の席に向かった。シャリの前を通る――大丈夫、体は少しこわばったけれども、何とか大丈夫。
あたしは椅子を引いて、腰を下ろし――
「っ!」
ひやりとしたものがお尻に当たって、すぐに腰を上げた。椅子を見ると、ねちゃねちゃした白いものがべったり張り付いている。この独特の匂いからして、図工とかに使うノリだと思うけど……
一体誰が? と辺りを見回す。御羅田はまだ来てない、シャリはこっちを見もしない、――さっきあたしの方をちらちら見てた女生徒のグループが、手を打って笑い転げてる。真っ黒なものがそこから立ち上って、あたしを刺そうとぴりぴり向かって来てるような気がした。
あいつら……!
耳まで熱くなった。あたしはずんずん歩いてそのグループに近づくと、笑い転げてる女の肩を掴んだ。
「何すんだよお前!」
乱暴に怒鳴りつけると、女の一人が凄い勢いであたしの手を払った。
……こいつら、よく顔見てみれば御羅田苛めてた連中じゃん。今度はあたしに手を出そうって訳? 調子に乗るのもいい加減にしてよ!!
「はぁ? 何のこと? 頭おかしいんじゃね?」
「黙れこのブスが。あたしに手ぇ出すなんていい度胸してんな」
あたしはしらばっくれる女の髪を引っ張って強引に耳元まで顔を近づけると、思いっきり大声を出した。
「死ねドブス!!!」
解放すると、女は耳を抑えてうずくまった。遅れてすすり泣きの声が続く。当たり前。鼓膜破くつもりで叫んだもん。
「おまっ、何すんだよ」
リーダー格の女がいきり立ってあたしの襟を掴む。あたしは口の中で笑い声を上げ、女の腕に手を掛けた。爪を立てる。毎日毎日手入れしてなめらかに整った爪だ。じょじょに力を込めてやる。先が食い込んで、肉に突き刺さる感触。
「いたっ」
女は手を離そうとするけど、あたしは離さない。もっと力を込め――
「メイちゃんやめてっ」
あたしの手をふわりと包む温かな手の平――優しさなんてもういらない、あたしにそんなもの向けられる価値なんてない。ホントうざったい――誰!?
振り返ると、御羅田の顔が飛び込んで来た。気づかないうちに登校して来たのだろう。困ったようにあたしの手を取って見上げている。
「……離してよ。あんた悔しくないの?」
あ、だめだ。
思うのに、口が止まらない。今や教室内の誰もが固唾を呑んでこっちを見てる。恐ろしい物見るみたいに、信じられないもの見るみたいに。
「シャナ、苛められてんのはあたしじゃなくてあんたなんだよ? 復讐したくないの? ムカつくでしょこいつら。ねぇ、違う?」
あたしは御羅田の返事も聞かずに、さらに女の腕を傷つける。白い肌に血がぽつぽつと浮き出て、すごくきれい――
「もうやめてメイちゃん変だよ、やめてぇ!」
御羅田が狂ったように叫ぶ。あたしはその絶叫すら心地よくて、にまりと笑みを浮かべた。
笑みを浮かべたまま……
「勅使河原さん」
胸に氷のナイフが突き立ったみたいだった。背筋が冷える、この声。
背後でガタ、と音がした。ぎこちなく振り向くと、一人の少年が椅子から立ち上がる所で。
彼の周囲にだけ、見えない壁があるみたいに異様な空気が流れていた。冷たいのでもない、熱いのでもない、ただ単に異質そのものな気配。
この少年は――本当に人間なの?
誰もがきっとそう思ったことだろう。誰が見たって彼は、シャリは人間には見えない。自分たちとは全然違う、その精神も体も力も全てがあたしたちを圧倒する!
「らしくないねぇ、こんな事するなんて」
シャリは黒い髪を楽しげにいじりながら、くすりと笑った。違う、あたしだけを笑ったんじゃない。笑ったのは、あたしたち……あたしたち人間だ。
彼があたしの方に近づいて来る。笑みをたたえ、幼げな足取りで近づいて来る。ただそれだけ、何も怖いことなんてない。それなのにどうして、――どうしてこんなに身が凍ってしまうの!?
「アハハ、ふふ、アハハハ……ねぇ勅使河原さん? ほら、そろそろ許してあげなよ。かわいそうじゃないか。それともここで、」
シャリは歩みを止め、あたしを見ながらぞっとするほど妖艶に微笑んだ。
「殺しちゃう気なの?」
――違う、シャリは本気で言ってるわけじゃない。顔だって笑ってるし、いかにもからかう調子の声なんだ。それなのにあたしの頬を一筋の汗が伝う、震えずにいられない。
シャリはこう言ってるんだ。どうせ殺すなら人目のない所でやれって……そう言いたいんだ。
あたしは女の手をぱっと離した。がくっと膝を突き、うつろな視線を宙にさまよわせる、女。
「……次は、……ないわよ」
あたしは途切れ途切れにそう告げると、自分の席に戻った。跪いてかたくなに前を向いたまま、こびりついたノリをこそぎ落とす。前を向いたまま、絶対に振り返らない、振り返れない……