扉がガン、ガンと揺れる。ケルベロスが向こう側から頭突きでもしているのだろう。引き戸なんだからぶつかっても無駄なんだけど……
あたしは考えながら、少しだけ緊張を解いた。やはりあの化け物が目の前から消えたおかげで心に余裕が生まれているのだろう――さっきはパニックになってしまったが、良く見ればいつも一緒に御飯を食べたりしているモンスター達の同類である。
安堵したとたん、噛まれた右腕がじんじんと痛んだ。二の腕から下が血まみれになっており、こぼれた血が廊下に血溜りを作っている。動脈が傷ついていなければいいが――
あたしはポケットに入れていた髪用の輪ゴム(乙女の必需品)を取り出し、無理やり広げて自分の腕に通した。痛みに顔をしかめる。……でも、これでしばらくの間は血止めできるはずだ。
あたしがふっとため息をついたその時、横手から大きな声が上がった。
「あ、あれ――なんなんだよ! なんだよアレ!」
御羅田を苛めていた女生徒……牧瀬である。彼女は青い顔で腕を振り回し、わめいた。
「おかしいよ、何なんだよあれ――あんなバケモン見たことも聞いたこともないよ! まさかニュースでやってる猟奇事件、獣の噛み跡のようなものがあるって……もしかしてアレがやったんじゃないの、ねぇ!! あの化け物今まで何人殺してんだよ、ウチらだって例外じゃないだろ、何でお前らそんなに落ち着いて――」
ドォン、と一際強く扉が軋んだ。ひっと悲鳴を上げて、牧瀬はへたり込む。
御羅田がぽつりとつぶやいた。
「……落ち着いてなんかない、よ……」
御羅田は牧瀬に負けず劣らず青ざめ、震えている。だがそれでも、手はしっかり扉が開かないよう押さえていた。
「私だって怖いよ。いつかもああいう怪物に襲われたけどその時だって死ぬほど怖かったもん……でも混乱してたって始まらないって分かってるから……だから必死に自分を抑えてるんだよ。皆そうだよ」
御羅田は焦点の定まらない瞳でそう言った。
あたしは内心肩をすくめる――出血のせいで顔が青くなってるからあまり不審には思われていないようだけど、あたしはほぼ平常心だ。こういう血まみれた場面には慣れて――
"誰かが床に這いつくばって、信じられないものを見るような顔であたしを見ている。"
"あたしはそれに構わず、もう一度命令し――"
あたし頭を振って記憶の再生を止めた。それから、気を紛らわせるために周囲を見回す。
この北校舎は、特別教室で占められている。普通の教室は二階、三階の南校舎に集まっているのだ。だからなのか、それとも何か不思議な術が働いているのか、誰かが様子を見に来る気配は無かった。
それにしても、この状況――何なのだ? モンスターはあたしに従うはず……なのにあのケルベロスはあたしを無視した。あたしの他に、モンスターを操れるやつなんて……
幾人か候補が浮かんだ。
……考えたくないことだけど。
あたしは途中で思考を打ち消し、ふとリュウトウの方を見遣った。そう言えば、この男、何者なの? 平然とモンスターと戦って見せた上、この状況にも取り乱した様子がない。
彼は今、何故か壁に取り付けられているバーを力任せに引っこ抜いてはその辺にほっぽり出していた。カラン、カランと断続的に音が響く。他の二人も何かと思ったのか、リュウトウを怪訝そうに見た。
「……あ、あんた何やってんだよ」
牧瀬が問う。リュウトウは床に落としたうちの一本を拾い上げると、冷徹な目で言った。
「ヤツを殺す」
「ムリだよ!」
牧瀬が頬を引きつらせて言った。もはや混乱して自分が何を言っているのかも良く分かっていないのだろう。うわごとのように言った。
「先生、……そうだよ、先生を呼んで来なきゃ……」
あたしの胸の内に苦いものが走った。
教師なんて――否、部外者を呼ばれるのは困る。モンスターの目撃者をこれ以上増やすわけには行かない。もみ消すのが面倒になるし、この学校に死者が集中しても怪しまれる。
「先生なんて呼んだって無駄だよ。信じてもらえないし余計な犠牲者を増やすだけ。リュウトウが倒せるって言うならそうするしかないじゃん」
あたしは早口に言った。視線があたしに集まる。
リュウトウはどうでも良さそうに言った。
「その通りだ。戦える者は戦え」
言いながら、バーの一本を拾ってあたしに差し出す。あたしはあからさまに嫌そうな顔をする訳にも行かず、渋々手を出し――リュウトウの目が揶揄するように光った。
しかし、腕に力が入らず、あたしはバーを取り落としてしまう。
「あ――」
偶然だった。怪我のせいもあるだろう。決して作為ではない。けれども落ちる銀色のバーを、すれすれで誰かの腕が掴んだ。
「わ、私が……だってメイちゃんは怪我、してるもん。メイちゃんは私が守る……」
御羅田だった。震えながら、訳の分からないことをつぶやいている。
……、御羅田が戦うなんて無理なんじゃないの?
リュウトウはでも、全くかまわず御羅田に一つ頷き返した。御羅田は何故かハッとした様子で顔を赤くする。
それからリュウトウは、鋭い目を牧瀬に向けた。
「お前は?」
バーを差し出す。だが牧瀬は後ずさりして、いやいやをするように首を振った。
「む、ムリ……ムリだよンなの!」
「怒鳴る元気があるなら十分だと思うが……まぁ、いい」
リュウトウが低い声で言ったその瞬間、何度目かの頭突きに扉が内側から、――爆ぜた。
/*■*■*/
リュウトウが走った。
あたしは顔をかばい、何度かよろめいた。爆ぜた木片が足にぶつかり、じんじんと痛む。
――もしもこの二人が負けたら、もうなり振り構って居られない。パールやブラックを呼び出して応戦しなきゃ。
ずきりと胸が痛んだ。モンスターを殺すのは、今や人間を殺す以上に気が引ける。
バーを振りかぶったリュウトウが、ケルベロスの鼻面に叩きつける。キャインと悲鳴を上げて首の一つが仰け反るが、他の二つの首はさらに興奮しているようだった。
リュウトウが飛びのいて距離を取り、舌打ちした。
「かなりタフだな……」
「ど、……どう、すれば」
御羅田が不安そうなへっぴり腰で尋ねる。リュウトウは頷いた。
「頭を全部ノックアウトしてからトドメを刺すか、剣か何かで心臓を一突き出来れば」
「ノ……ノックアウト?」
「こういう――事だ!」
声を上げながら、リュウトウがケルベロスの顎を蹴り上げる。顎を打ちぬかれて脳震盪を起こしたか、真ん中の頭がぷらんと垂れた。
その様を見て、御羅田はおろおろと失神せんばかりの形相で歩き回った。
「ど、どうすれば……」
顔が青ざめすぎてまるで氷のようになっている。あたしは、内心で御羅田を罵りたかった。
――出来もしないことを口に出さないでよ。結局あんただって……
リュウトウが肉薄。バーを振りかぶり、ケルベロスの鼻面に叩きつける。また一匹がノックアウトされた。だがその間に、さっき蹴たぐり倒した一つが復活する。
「駄目だな。同時にやらなければ――っ」
リュウトウが冷静につぶやくと同時、ケルベロスが踊りかかった。リュウトウは半身を捻ってかわす。ケルベロスの巨体が勢いあまってあたしの方に突っ込んで来た。
――!
「メイちゃん!」
怯えていたはずの御羅田が、いきなり動いた。あたしに向かってタックルしてくる。あたしはぶつかって来る御羅田に反応できず、そのまま吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。
「――キャアアアアアアアアア!!!」
我に返ったのだろう。目を見開き、ムンクの叫びよろしく牧瀬が絶叫する。
あたしは強い衝撃に息が出来ない。苦しくて目に涙がにじんだ。体中が、ばらばらになりそうだ。
御羅田は、と見ると、あたしのすぐ側で倒れていた。例のバーも一緒に転がっている。立ち上がろうとしているが、どこか打ったのか苦しそうに喘いでいた。ケルベロスがその背に爪を振りかぶる。あたしは咄嗟にバーに飛びつき、槍投げのように大きく振りかぶって、そして――
――目の前が真っ暗になった。