暗い。
ここはどこだろう?
あたしは辺りを見回そうとした。でも、体が石になったみたいに動かない。あたしは無理やり視線だけを上げて、せめてここがどこなのかを知ろうとした。無駄だよね、辺りは真っ暗なんだから――
そこで、目が覚めた。
「やぁ、お目覚めかな? メイ」
シャリだった。シャリが人気のない教室の中、教壇に腰掛けて何か本のようなものを読んでいる。さらさらした髪が、窓から入った光に照らされてまぶしいほどだった。
シャリがぱたんと本を閉じた。細い足がぷらぷらと揺れている。ぼーっと見とれていたあたしは、それを切欠にシャリの顔を覗き込んだ。
シャリは掛けていた小さな眼鏡を取って、にっこり笑った。
「立てない? 起こしてあげようか」
やたらと明るい声で、そう言う。
あたしは何故か背筋にゾクッとしたものが走るのを感じ、慌てて首を横に振った。手足に力を込め、もがくようにして体を起こす。妙にくらくらして、世界が歪んで見えた。目をこすって、ため息をつく。
「シャリ……どうしてこんな所にいるの?」
頬杖をついてあたしの様子を見ていたシャリに尋ねると、彼はきょとんと首を傾げた。
「あれ? メイ、覚えてないの? ――教えてあげたじゃないか。僕が君をあの戦場からここに連れ出したってさ」
「……、……、いつの話?」
あたしは、因数分解を求められた猿のような顔で聞き返した。
シャリがあたしを連れ出した? 一体、何だって? そもそも、あの後どうなったの? シャナは、リュウトウは、牧瀬は……
「おや? 心配みたいだね、彼女たちのことが」
こっちの気も知らず、のんびりとシャリは言った。
疑問はたくさんある。あのケルベロスのこと……シャリの目的のこと……今戦いがどうなってるのか……
でも最初にあたしの口から飛び出したのは、どれでもなかった。
「――どうしてあのケルベロスにはあたしの力が通用しなかったの!?」
――そうだ。どうして? あのケルベロスは、あたしの制御を受け付けなかった……今までこんなことなかったのに。
「ああ、そんなの、とっても簡単なことだよ」
「知ってる、の?」
あたしは嫌な予感と共に尋ねた。
「――あのモンスターには幻覚剤を打っておいたからさ」
シャリはそう言って、ポケットから注射器を取り出し、にこっと笑った。
いつもと変わらない、人形じみた笑み。
あたしは寒くもないのに、肩を抱き締めた。手の平が、腕に食い込んだゴム紐に触れる。血まみれの腕……
――あのモンスターは、シャリの差し金で動いていたの?
シャリは、あたしにモンスターをけしかけたの!?
声にならない思いが喉を突き破りそうになっている。だけどあたしは必死で我慢した。この場を、シャリの隣にいるこの場を崩したくなかった。
ただ、シャリは視線だけであたしが言わんとする事を察したらしい。腕の傷に目を留めて、少しだけ不快そうに眉を寄せた。
「うわー、いったそう。ホントごめんね、ブレーズに連絡して、メイには離れていてもらうつもりだったんだけど……メイがブレーズと離れてたせいで連絡が遅くなっちゃったんだよ」
シャリは言いながら、あたしの腕に指先を伸ばした。反射的に身を強張らせるあたし。シャリはそれを見ると指を止めてあたしを上目遣いに見上げ、ニコリと笑った。
「……これ、使う? 痛みは消えると思うよ」
シャリの手には幻覚剤入りの注射器が握られている。
「…………痛み以外のものも消えそうだからやめておく」
「あっそう」
シャリは笑いながら言って、唐突に腕を一振りした。辺りの空気に水の波紋のような揺れが入り、そして空中に何か動くものが映し出された。
「……シャナ!」
御羅田がそこに居た。リュウトウがケルベロスに飛びかかり、奮戦しているようだが、御羅田は牧瀬を守るように立ったまま、震えている。目じりに涙がにじんでいた。相当な恐怖と戦っているに違いない。
あたしはぐっと身を乗り出し、腕の痛みも忘れて映像の中に飛び込もうとした。でもシャリが鋭い視線を投げかけて来たので、体の動きを止める。
「……何?」
シャリが、いつまで経っても何も言わないので、あたしは聞き返した。傷の痛みと緊張で汗ばんだ肌が気持ち悪かった。
「……メイにはシャナと仲良くなれって言ったけどさ、それって仲良くなり過ぎなんじゃない?」
「――は?」
「あの二人は僕の敵だよ」
シャリは手の中で本を弄びながら、そっけなく言った。
「て、き……? でも、だって――」
「リュウトウが僕の敵だって事は話したよね?」
……リュウトウは転校して来た初日から、あたしとシャリを強烈に意識していた。そしてシャリもリュウトウの様子を窺うように、その日だけは一日中教室に居た。だからあたしは、シャリとリュウトウが敵対していると気づいた。
でも……御羅田は。
「じゃ、じゃあ、どうしてあたしに近づけなんて……」
信じられなくて、あたしは言い募った。あたしの縋るような視線に、シャリは何を思ったのか、クスッと――笑みを、漏らした。
「それこそ、彼女が敵だからだよ。あの二人は僕と敵対するように出来ている。永遠に交わることはない……」
「でも!」
じゃあ、シャリが御羅田に近づけと言ったのは、あたしに敵の情報をスパイさせるためだった……の?
そこまで分かっても、あたしはまだその言葉を信じられなくて――信じたくなくて、かぶりを振った。
「まだ分からないの――? あの二人にケルベロスを向かわせたのだって、二人の実力を測るためさ」
シャリは張り付いたような笑みを浮かべてそう言った。
シャリの横では、まだ御羅田とリュウトウが戦っているシーンが映し出されている。あたしはそれがむしょうに悲しかった。
どうして御羅田とあたしが敵なの? どうしてあたしは……
「メイ」
――かなり、混乱していたと思う。シャリにそう呼ばれるまで、あたしは思考の迷路に迷い込んだまま抜け出せなかった。
顔を上げると、シャリは笑みを消していた。
「メイは、今日はもう帰っていいよ。次にシャナと会ったら、適当にフォローしておけばいいさ」
「……、シャリは?」
あたしは何となく答えを予想しながらも、聞いた。
「僕は――」
シャリはそこで、艶やかな笑みを浮かべた。唇が異様に赤く見える。
「僕の宿敵に挨拶しに行くから」
「宿敵――……」
あたしの声は、溶けるように消えて行った。