COLORs(42)

 世界に見放された気分だった。今まで当たり前のように吸っていた空気が、氷を含んだ大気に感じられ、壁や床があたしを押しつぶそうと迫って来る気がした。
 胸がきしんでいる。悲鳴をあげている。

 だってシャリは……

 あたしは廊下を全力疾走しながら、ぎゅっと目をつぶった。嫌だ。思いだしたくない。
 考える余裕なんて無くなるように、もっともっと早く走った。体がどうなるのか、いつまで走り続けられるのかなんて考えない。ただ走ることだけに集中する。

 歯を食いしばって走っていたあたしは、だから前方にふっと現れた影に気づかなかった。回避しようと思った時にはもう遅くて、体全体でぶつかってしまう。あたしはよろけた。何とか態勢を立て直そうとしたけれど、あんなに足を酷使したせいで踏ん張りがきかない。がくん、と崩れるようにして倒れ、そして見上げた。

 榊原の能面めいた顔が見下ろしていた。
 薄い唇が動いた。
「躾の悪い女――

 そこまで言って、狼狽したように眉をひそめる。信じられないものを見るようにあたしの顔を見ている。
 あたしは泣いていた。

「……みっともない顔だな」
 榊原が小さくつぶやいた。あたしは彼から顔を背け、歯を食いしばる。
 言われなくたって分かってる。あたしはこんなにも惨めだ。
 新しい涙が、眼から溢れようとした。あたしは熱いそれを押し留めるように手をやり、榊原の横をすり抜けてまた走り出そうとした――その手を、冷たい感触が掴む。

「待ってくれ。……君に用があるから、わざわざこんな所まで出張って来たんだ」
 あたしは振り向かずにその声を受け止めた。
「……、離してよ。あたしはあんたに用なんてない」
 低い声でつぶやいたけれど、榊原はすぐに切り返して来た。
「君にはあるだろう。……シャリに用事が」

「! ない!」

 シャリの話なんて聞きたくもなかった。「離してよ!」と叫んで手を振り払った。榊原は特に押し留めようとはせず、すぐにあたしの手を離す。

 ……恐る恐る振り返ると、榊原は困惑の表情を刻んでいた。――むしろ、軽蔑かも知れないが。
「約束を忘れたのかい? シャリの奪ったソウルを取り返すと、確かに君は約束した」
 あたしは黙って榊原の顔を見上げ、唇を真一文字にした。そんなあたしに、榊原は、噛んで含めるように言った。
「反故にするならそれもいい。でも……その代わり、君には今ここで死んでもらう」

 あたしは挑戦的に榊原を見上げ、言った。
「やって見なさいよ」
「何だって?」
「うるさいわね! 殺したけりゃそうすればいいって言ってんのよ。そんな事も分からないの、このロン毛馬鹿!」
 もう、全てがどうでもよかった。シャリに――シャリがあたしを見てないって分かってるのに、どうして正気でいられるだろう。もう何もかも全て壊れてしまえばいい。あたしなんていっそ木っ端微塵になってしまえばいい。
 榊原にとっては、思ってもみない反応だったらしい。顔をしかめ、現実を拒否するような表情を浮かべている。
 あたしはいやいやをするように首を振りながら、一歩、また一歩と後ずさりした。
「あたしに近づかないで! もう何もかもどうだっていいのよっ……あなたもシャリも、あたしは何も怖くなんてないんだから!」
「……勅使河原明」
 榊原が目を見開いて、あたしの狂態を見つめている。あたしは彼に背を向け、走り出した。胸が痛い。引き裂かれそうだ。もう嫌だ。こんなに痛みを感じているのに、シャリは気づいてくれない。あたしのコトなんて考えてもいない。どこまでもシャリにとってあたしは、どうでもいい女なのだ……

 涙でぐじゃぐじゃになった視界が、不意に歪んだ。あっ! と思った時にはもう足を取られ、無様にも床に這いつくばっていた。冷たい。床の冷たさまでもが、あたしを責めている気がした。

 今、何かに引っ掛け……ら、れた?
 呆然としていると、後ろから憤然とした足音が近づいて来た。

「どこへ逃げるつもりだった。別に僕は君がシャリに振られようがゾフォルに口説かれようが知ったことじゃないが、きちんと取り交わした約束ぐらい守ってもらわなければ困る」
 あたしはぐすぐすと涙を拭きながら起き上がり、近寄ってきた榊原を見つめた。
「……ゾフォルって誰?」
 榊原は何故か顔を真っ赤にした。
「なっ……違う、別にとっさに出てきた名前がそれだった訳じゃない、ただ……そうだ、そんな事はどうでもいい。さっさとシャリのところに行くんだ」
「嫌よ!」
 あたしはバッと起き上がりざまに叫んだ。それだけは嫌だ。今の、こんな、泥水みたいな気持ちでシャリの顔を見たくない。見たら、きっと心が折れてしまう。そうなったらもう、あたしはどうなってしまうんだろう。それが怖かった。

 榊原は、焦ったような、イライラとした顔で舌打ちした。
「シャリもバカじゃない、こんな協定、いつバレるか分からないんだ。ソウルを取り戻すのは、早ければ早いほどいい――……」
「戻れって言うの? こんな顔で?」
 あたしはゆっくりと言って、榊原の顔を睨んだ。でも榊原はどこ吹く風――どころか、少し嬉しそうな顔をした。
「シャリが今、どこにいるのか知っている? なら話が早い。行こう」
 榊原の細い手が意外なほど素早くあたしの手を掴んだ。あたしが目を白黒させているうちに、ぐいぐい廊下を引っ張って行く。
「ちょ、ちょっと、待って――待ってよ!」
 榊原は、あたしの話なんてまるっきり聞いていなかった。それどころか、万力のような力であたしの腕を引っ張り、振り返りもせず進んで行く。
「ちょ――あたしの案内なしで、シャリがどこにいるのか分かるの!?」
「……それくらい、気配で分かる」
 冷めた返事が返ってきて、あたしは思わず言葉を呑んだ。

 あの悪夢のような視聴覚室が近づいて来る。あそこで起きた出来事が、どれだけあたしや、御羅田や、リュウトウの運命を揺るがしたのだろう。少なくともあたしにとっては決定的だった。
 じくり、と負傷した右腕が痛んだ。この痛みとともに、あたしが受けた衝撃は、傷となってこれからも残るのだろう。
 ちらりと、もう一度榊原の顔をうかがった。けれども、彼は振り向こうとすらしない。あたしは諦めて、引っ張られるのに任せた。抵抗しても意味がないと、ようやく悟っていた。

 /*■*■*/

 あたしは、再び視聴覚室の前を覗き見ていた。もう二度とここには立ちたくなかったのだけれども、もはや仕方がない。壁から身を乗り出し、まだ戦っている御羅田やリュウトウと――それから、それを絶対零度の眼差しで見つめているシャリを順番に見つめる。
 胸が、ずきりと痛んだ。今すぐ叫びだして、ここから逃れたい。

「何をやっている――隙はありそうか?」
 でも、後ろからそう声を掛けた榊原がそれを許さないだろう。全ては、あの時適当な協定など結んでしまったからだ。
 榊原はいつまでも答えないあたしに業を煮やしたのか、あたしの肩をぐっと掴んで自分が身を乗り出した。あたしは入れ違いに二、三歩け下がると、そんな榊原の背を見る。

 彼は真剣な眼差しを向けていたが、やがて戦いたように目を見開いた。
――あれが――この世界の、無限のソウル」
 掠れた声で言う。あたしは耳を疑った。

 無限の――ソウル?
 どういう意味だろう、それは。前にも、榊原は話していた。シャリや榊原――エルファスらが元いた世界を救ったと言う、英雄のような人のことだったはずだ。
 でも、思えばあたしはそれについて何も知らなかった。榊原は必要なこと以上は語らず、あたしはそんなもの関係ないと思っていたからだ。でも、そうじゃなかった。この場でその台詞が出て来ると言うことは、何か関係があるのだ。深い、深い関係が……

「無限のソウルって――いったい何なの?」
 奇妙に胸が騒いだ。気がつくと口に出していた。
 しかし榊原は、鬱陶しいと言わんばかりに手を振り、あたしの問いを無視する。
 あたしは、さらに嫌な予感が怖気のように背を伝うのを感じていた。榊原の血が通っていないかのように白い手首を掴み、無理やりこちらを向かせた。
 正面から睨み上げ、問いただす。
「重要なことでしょう?」
 榊原はなんとも高慢な、胡乱気な表情を浮かべたが、渋々と言った調子で頷いた。

「じゃあ教えてよ。あたしには知る権利があるわ。だってあたしがあんたに"協力"するなら、あたしとあんたの関係は対等でしょ」

 そう言うと、彼は何とも嫌そうな顔で黙り込み、しかし、しばらくすると頷いた。
「仕方ない――ただ、ここでは話せない。場所を変えるけど、いいね?」
 強硬に主張したのはあたしだが、あっさり頷かれて少々拍子抜けした。不思議そうに見上げる。
「いいの? シャリは……」
「今はどのみち、隙もなさそうだ。この僕だって、あの状態のシャリからソウルを奪い返すのは難しい」
 淡々と言って、榊原は踵を返した。

「でも――
 あたしは、御羅田たちが戦っている方を振り向く。このまま行っても――いいのだろうか?
「あっ」
 あたしは思わず口元を押さえた。振り向いた先にいたのは、ふよふよと空中に浮くブレーズだった。ブレーズは、目を見開き、信じられないものを見るようにあたしの顔を見つめている。

「ブレーズ……?」
 突然、我に返ったらしい。ブレーズはあたしに背を向けると、ものすごいスピードで手近な教室の中に飛び込んで行った。あたしは反射的にそれを追いかけようとして――

――……どうした?」
 榊原が振り向き、怪訝そうな顔をしている。あたしは言い差した言葉を呑み込み、何でもないと言ってすぐに榊原の後に続いた。
 その時は、ブレーズのことは後で何とかすればいいと思っていたのだった。

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