もう歩けない。体が燃えるように熱い。マンションの前まで全力疾走して帰って来たのだから当たり前だ。あたしは自分の体を抱き締め、しゃがみ込んだ。涙が溢れる。
泣くな! こんな所で泣いたらだめ……
自分を叱咤しても、なおさら涙が溢れるだけだった。胸が痛い。痛すぎて、息も出来ない――
「大丈夫?」
上から降ってくる声。
! 人!?
あたしは、誰かに涙を見られるのが嫌で、俯いたまま答えた。
「大丈夫です……」
よろよろと立ち上がり、引き留めるようにまとわりついて来る声を振り払って玄関ホールに入った。鍵を刺し込んで自動扉を開け、ふらつきながら階段を上った。
階段部分は吹き抜けになっていて、屋根が無い。必然的に雨が降り注ぎ、あたしの体を濡らした。でも、そもそもあたしは雨の中走ってきたせいでびしょ濡れになってしまっている。
階段をとぼとぼと上がりながら、ふと顔を上げると、すぐ目の前にブレーズが浮いていた。雨に身をさらし、鋭い目をさらに細くしてあたしを睨んでいる。
「メイ」
と一言呼ばれ、あたしはブレーズに手を伸ばした。緑色の鱗に触れると、硬い感触が返ってくる。あたしは、また一筋、涙をこぼした。
「シャリが呼んでるぞ」
ブレーズは瞬きもせずに言った。
部屋に入ると、あたしの鼻先を霞めてフォークが飛んで行った。びっくりしてその軌跡を追うと、見事なまでに壁に突き立ち、ぷらぷらと揺れている。
榊原家の応接室だった。上着を脱いで所在なく腕にぶら下げたあたしは、室内を見回す。榊原が憤然とした顔でシャリを睨みつけ、そのシャリはと言えば、じっとりと濡れたまま気にもせず革張りのソファに寝そべっている。自分の耳元を霞めてフォークが飛んで来たと言うのに、顔色一つ変えていない。
「シャリ……」
あたしが複雑な思いを込めて呼ぶと、シャリは湿った髪をこぼして顔を上げた。拗ねたような顔であたしを見上げる。
でも、その表情はすぐに消え、いつものアルカイックスマイルを浮かべて見せた。それは多分、あたしだけじゃなく榊原にも向けられたものだ。虚飾の笑顔――シャリには何故、この表情が一番似合うのだろう。
「今日は二人にお茶を振舞おうと思ってね――」
愛想良く言う。
あたしは、思わず榊原を見た。彼はシャリを見据え、唇を引き結んでいる。感情が表に表れない彼にしては珍しいことだ。
シャリがパンパン、と手を叩いた。すると、あたしの背後から、あたしを押しのけるようにして一人の少女が出てくる。県内でも有数のお嬢様学校の制服を身にまとった少女は、お人形のような髪とお人形のような笑顔を貼り付けてやって来た。その手に持ったお盆には、湯気を立ち上らせるお茶とクッキーが乗っている。
呆気に取られるあたしの前で、彼女は淡々とお茶とお菓子を並べて行った。あっと言う間にティータイムセットが出来る。
「ごゆっくり」
少女は一礼すると、静々と退室して行った。
「今の……」
「榊原家のご令嬢様だよ。……さぁ、メイもエルファスもそんな所に立ってないで座ったら」
あたしはシャリを見つめ、榊原に目を遣り、もう一度シャリの様子を見てから、恐る恐る椅子に腰を下ろした。シャリは相変わらずソファに寝そべったまま、無表情にあたしを見ている。榊原は渋っている様子だったが、シャリがもう一度勧めると嫌々と言った風に腰を下ろした。
シャリはそれを見ると満面の笑みを浮かべ、猫撫で声で言った。
「さぁ、どうぞ? お茶もお菓子も最高級品だよ」
もはやここまで来ると嬉しいと言うより不気味である。
あたしはそう思いながらも、勧められて断ることも出来ずお茶に手をのばした。ちらりと榊原に目を遣ると、彼の方は全く手をつけるそぶりがない。
クッキーをかじると、さくっとして美味しかった。でもちょっと味が派手過ぎるかも……
あたしの様子がよっぽど暢気に見えたのか、榊原が苛ついた視線を寄越してくる。あたしはそ知らぬ顔で紅茶に口をつけた。
シャリはにこにこと不気味な笑みを浮かべたままあたし達の様子を見ている。
しばらくしたところで、シャリは席を立った。
「じゃ、ゆっくりして行ってね」
あたしはシャリに向かって礼を言い、どういたしましてと答えながら足取りも軽く部屋を出て行くシャリの背をずっと見つめていた。
あたしは、紅茶をもう一口含み、一息つく。
良かった。何だかシャリは普通だし……あたしも……
ちらり、と榊原を見ると、彼は真剣な顔で俯いて何かを考えている様子だった。
「……勅使河原メイ」
おもむろに口を開く榊原。悔しいが、こういうもったいぶった仕草がこんなに似合う人もいないだろう。
あたしは少し意地悪な気持ちで口を開いた。
「苗字で呼ばないでよ。何?」
「チャンスだよ……シャリの気が、何故か失せてる」
あたしは自分の顔が強張るのが分かった。
……シャリの気が失せてる……? それってさっきの……
「君は馬鹿なことでも言って、隙を作ってくれ。僕はその間に――」
「ちょっと待ってよ。あたしは――」
ムッとして言い返した。馬鹿なことでも言って、ってどういう意味よ。大体、あたしはシャリを裏切るつもりなんて最初からない――
言い差したところで再び扉が開いた。シャリがひょっこりと顔を覗かせ、室内の様子を確かめてから駆け寄ってくる。まるで、あたしと榊原が何かマズイことでもしていないかと、疑うようなそぶりだった。
シャリは再びソファに腰を下ろして膝の上で頬杖を付くと、いやにニコニコとしながら言った。
「今日呼んだのはね。そろそろ二人にも新しい仕事をしてもらおうと思ったからなんだ」
「新しい仕事?」
思わず聞き返すと、シャリはあたしの方に首を向けて頷いた。ほんの一瞬、シャリの意識が榊原から外れた。
――その一瞬で十分だった。
気づいた時には、榊原が杖を握ってその先から雷光をほとばしらせ、シャリが身を翻すところだった。
「シャリっ!?」
あたしは思わず叫びを上げる。シャリはあたしをちらりと見て、焦げた服の先を人差し指で弾いた。
「あーあ、エルファス。せっかく神としての力を、ちょっとだけ残してあげたのに。この程度の攻撃しか出来ないなんて、全然期待はずれだよ、もう」
榊原が油断なく杖を構えながら、眉根を寄せた。
「……驚かないな」
「ふふふ。思ってたよ――君達は僕を裏切るだろうってね!」
シャリは榊原と、なんとあたしにまで視線をやってそう言った。
違うの、と言い掛けて、言葉を呑み込む。あたしは結果的に榊原を助けてしまったのだ。今更、見苦しく弁明なんてしたって、それで納得するシャリじゃない。
あたしが何か言いたげに見ているのをどう思ったか、シャリはアハハハハと笑いながら、榊原と距離を取った。ふわりと宙に浮きながら、見透かすような目をあたし達に向ける。
「だってメイは気まぐれな猫みたいなものだもん。最初から、引っかかれるだろうって分かってたさ。
そしてエルファス、君は生け簀の中で飼われてる魚だよ!
僕はその気になればいつでも美味しく君を頂けるってのに、君は自分が自由を勝ち得たと思い込んでたんだから」
あたしはシャリの言葉に完全な拒絶の色が無いのを見て取って、恐る恐るシャリの顔を覗き込んだ。
そこにはやはり、何の色も浮かんではいない。ただアルカイックな笑みが張り付いているだけだ。
「――黙れ!」
シャリ独特の演劇めいた挑発に、榊原が体全体で怒鳴った。それと同時に杖を振り、二度三度とイカヅチを飛ばす。シャリはくるくると馬鹿にするように回りながらその攻撃を避けたが、二撃目を避けた拍子に、何故か、態勢を崩してガクンと床に膝をついた。
「あー、痛い! 転んじゃった!」
こんな時にも楽しげな声で、シャリは笑う。
あたしはハラハラして見ていられなかったが、榊原がトドメを刺そうとシャリに近づくのを見て、心臓がドキンと鳴った。
「……!」
駄目、と叫ぼうとしたその時、榊原が杖を振り上げシャリの喉元に振り下ろそうとした。もう、穏便に止めようとしたって無理なことは明らかだった。
あたしの中に雷光が走る。
……シャリがピンチだ。
シャリがピンチで、あたしは、どうする?
答えなんて決まってる。あたしは一息に叫んだ。
「ラシー、殺せ!!」
異界のものが、あたしの呼び声に答える。
闇を切り裂いて現れた竜が、裂帛の気合を込めて榊原の喉笛に牙を立てた。
「!?」
咄嗟に身を引いた榊原の喉元から、真っ赤な血が吹き出した。
「くっ……これだけは……」
喉を破られば、物理的に声を出せるはずがないのだが、どういう原理なのか榊原は喋っていた。しかも、普通の人間なら即死は免れない大怪我を、多少気分が悪くなったような顔でやり過ごしている。しかも、彼はどさくさに紛れて硬直しているシャリの懐に手を突っ込んだ。
「シャリっ……!?」
あたしは、榊原が何か攻撃を仕掛けたのではないかと不安になって手を差し伸ばした。しかし、榊原の手が握っていたものは、シャリの命ではなく、何かきらきらと光る――この世の一番美しいものを集めたような、見ているだけで心が吸い込まれそうになるような光だった。
これは……
「ソウル!?」
まちがいない。シャリが榊原から奪った、榊原の生命線。
あたしは、自分の血がざざざと引いて行く音を確かに聞いた。
これが奪い返されてしまったと言う事は、榊原はシャリに従う理由が無くなったと言うことだ。
あたしはさっとシャリに視線を向けた。
シャリは、榊原と言うよりも、あたしを見てきょとんとしていた。緊張感はまるでない。まるでお遊戯の途中で曲を止められた子どものように、あどけない顔をしている。
「どっち付かずの蝙蝠め! 地獄に落ちろ……!!」
榊原が憎憎しげに言った。彼は首の辺りを手で押さえ、吹き出す血をなんとか止めようとしているようだった。
――その言葉があたしに向けたものだと気づくのに、数秒掛かった。
その間に榊原が腕を一振り、辺りの空間が歪み、姿が掻き消える。あたしが我に返った頃には、彼の痕跡など微塵も残ってはいなかった。
あたしは、榊原の消えた方向を見つめて、静かにつぶやく。
「……あたしは蝙蝠なんかじゃない。猫よ。猫は、どんなに奔放に振舞っても最後には飼い主の元へ戻るの。……どんなことがあっても、絶対に」
例え、シャリがどのような道を選ぼうと。
あたしは、シャリの飼い猫だ。
だったら最後まで付き従うだけ。
決意するには、たくさんの涙が必要だった。でもそれを、あたしは無理に飲み込んで、おとなしく控えているラシーの頭に手を伸ばす。ぽんぽん、と優しく二度叩くと、大型ドラゴンのラシーは気持ち良さそうに目を細めた。
すぐ側で、衣すれの音がした。そちらを向くと、シャリが立ち上がり、服についた埃を払っている。ひとしきり終わると、ゆっくりと顔を上げてあたしの視線を見返した。
口元には、例の笑み。
「エルファスに寝返ったんじゃなかったの?」
心底不思議そうに、シャリは言う。榊原にソウルを奪い返されたことより、そちらの方が衝撃だったのか。
あたしは、それは違うと、今まで黙っていた分を取り返すように何度も首を振った。
「あ、あの時……榊原に戦いを挑んでたら、あたしはきっと殺されてた。何でシャリがあたしにあんな命令したのか……今でも分からないけど、でも、あの時は仕方がないから裏切った振りをしただけ」
シャリは、あたしを見て肩をすくめた。
「……おかげで、エルファスを罠にハメて痛い目見せてやろうと思ってたのが台無しだよ」
「……」
「ねぇ、メイは」
シャリは整った唇を動かし、何か口にしようとしたみたいだったけど、途中で言葉を止めてしまった。そして、考え込むように顎に手をあてると、上目遣いにあたしを見る。
声はどこまでも、どこまでも不思議そうだった。
「ねぇ、フフフ……メイってば、どうしてそこまでして僕に従うの。もし、僕がメイだったら、とっくに裏切って逃げ出してるね!」
シャリの声が、何故かとても遠くに聞こえた。