あたしは、シャリに会いたかった。
目の前の扉を見ながら、取っ手を回そうかどうか思案し、結局手を引っ込める。そんなことを何度も繰り返してから、はーっとため息をついた。
ここは、榊原家の本邸である。シャリが住まいとし、最近あたしが入り浸っている家だ。あたしが今いる二階部分は、主にゲストルームになっていて、西と東に別れたフロアをガラス張りの渡り廊下が繋いでいる。今居るのは西部分の、北側に面した部屋の前で、あたしはそこでさっきからじたばたしたり、頭を抱えたりしていた。傍から見れば完全に不審人物だろう。
あたしは、じっと黙って顔を下げた。ピンク色のスリッパを履いた自分の足が見える。
「何やってるの?」
!!!
心臓が爆発するかと思った。慌てて振り向くと、てっきり部屋の中にいるとばかり思っていた少年が目の前にいる。
な、何でシャリがこんな所に!?
あたしは見事なまでに動揺しまくっていた。自分でもそれが分かったが、どうにもならない。あたしは目に涙をにじませて、後じさりする。
シャリはいつもの黒衣を身に纏っていた。あたしの記憶では、この二日間不眠不休で部屋に閉じこもっていたはずだが、疲労の様子もない。いつも通り、真白い顔で小首を傾げている。さらさらした長い髪が肩からすべり落ち、絹糸のように垂れた。
「あ、……いや……別に、あたしは……」
しどろもどろに返事をするうち、自分のふがいなさが情けなくなって来た。もごもごと口を動かし、俯く。
シャリは首を傾げたまま、微動だにしない。あたしが落ち着くのを待ってるのか、それとも喋るのが面倒臭いかのどちらかだろう。……後者だったらヤダな。
「……ぱ、パールの様子を見に来たんだけど……ちょうど通りかかるから、シャリの顔、見たくなって……」
「へぇ〜……満足した?」
シャリは言いながら、自分の顔を指差してニッコリと笑った。
………………
あたしは、改めて美形は得だなぁと思いながら、赤くなってしまった顔を押さえる。
「メイ」
ぐいっと手を引かれ、あたしは我に返った。シャリが軽く微笑みながらあたしを見ている。
「どう……したの?」
「話があるんだけど、時間いい?」
「いいけど……」
あたしは訝し気にシャリを見た。いつもは問答無用で引っ張って行くのに、今日は……変だ。神妙な様子が不可解だ。
でもシャリはあたしの視線を無視して部屋の扉を開けると、さっさと中に入って行った。部屋の中は電気がついておらず、暗くて何も見えない。
……
あたしは不審なものを感じながらも、おとなしくシャリの後に続いて入った。パタンと後ろ手に扉を閉めるが、暗くて部屋の中までは見通せない。
だんだんと暗闇に目が慣れて来たその時、あたしは引きつったような声を漏らす。
目の前に広がっていたのは、どう見ても異空間だった。
……何度も目を瞬き、こすったが、変わらない。あたしがいる部屋は、血管のようにどす黒い管が縦横無尽に張り巡らされ、しかも床や壁はぐちゃぐちゃとした、何かの肉のような赤黒い物質へと変化している。その中央に、巨大な繭のような丸い物体が鎮座していた。シャリはその物体に手を這わせ、何かを考えるように口元に手をやっている。
「これ、何!?」
悲鳴こそ上げなかったが、限りなく悲鳴じみた声を上げる。あたしは咄嗟にシャリを見て、それから後ずさりした。
「この町に淀んだ怨念……恐怖……負の感情の集まりだよ」
シャリが、物憂げに言った。あたしはこみ上げる吐き気に口元を抑え、膝をつきそうになるのをこらえる。
「負の感情って……!!」
「メイ、こっちにおいで?」
突然、シャリが言った。そこらの女優より艶っぽい微笑みを浮かべ、あたしに向かって手招きする。
でもあたしは引きつった声を漏らすことしか出来なかった。多分、あたしの顔は海より真っ青になっているに違いない。許しを求めるようにシャリを見たが、彼はただ手を差し出しているだけで、それ以上動こうとはしなかった。
……あたしが、答えるかどうか、試してる。
そう気づいてしまえば、意地でも前に進まずには居られない。あたしは、がちがちと震える足を無理やり動かし、唇をぎゅっと結び、じわりと浮かんでくる涙をこらえながら近づいた。
「……シャリ」
後一歩の距離まで来たところで、あたしは耐えかねて膝を落とした。がくんと視界がぶれる。今までずっと見ていた、シャリの細工もののような手が遠ざかる――そう思った時、シャリの手が伸び、あたしの腕に回った。そのまま引き寄せられ、中腰の無理な態勢で止まる。
必死に呼吸を整えていると、シャリの歌うような声が落ちて来た。声は、まるで呪文のようにあたしの耳にまとわりつく。
「もうすぐだよ、メイ。溜まった負の情念を使って、この町を、世界から切り離せたんだから。後は、このオーブに力を溜めるだけ……そうしたら、この町は移動要塞として虚無の狭間へと向かうことが出来る」
あたしは力無くシャリを見上げ、そして、その瞳に相変わらず何の色も浮かんでいないのを確認した。それから、口を開いた。
「……ねぇ、この町は、滅びるのね?」
「そうだね」
シャリは常に無いほど、優しく言った。
「そしたら、あたしも、……シャリも、死んでしまう?」
「怖くなった?」
やはり優しく投げられた声に、あたしは俯いた。俯いて呼吸を整え、それからシャリを見上げて笑った。
「あたしは、これから何をすればいいの?」
シャリの、あたしの腕を掴む手に若干力がこもる。それでも表情は変えず、シャリは言った。
「最後の力の充填に、無限のソウルを使うんだ。……だからメイ。あの子の様子を、きちんと見てなきゃだめだよ」
あたしは頷いた。それがシャリの望みなら。
……そう決めたのだ。
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シャリの部屋を出たその足で、あたしは三階に足を運んでいた。制服姿のままなので、剥き出しの足が少し寒い。あたしは、自分の体を抱き締めながら螺旋階段を上り、上のフロアに足を踏み入れた。深い青色の絨毯が出迎えてくれる。
一応、三階部分は家族の寝室……と言うことになっているが、今はもっぱらシャリやあたししか使っていない。この家に本来住んでいるはずの娘やその家族は、今は別邸に居るか、ホテル住まいをしているだろう。
彼らはシャリによって操られている。
あたしはすっと息を吐きながら、正面の扉を開けた。
部屋の中には、一面に白いクッションが敷き詰められている。その中心に、何よりも白い獣が横たわっていた。あたしはゆっくりと近づいて、膝を折った。白くふっさりとした毛並みに手を這わせ、つぶやく。
「パール……」
あたしの声に答えるように、パールはくぅぅんと鳴いた。それから、慰めるように鼻面を押し付けてくる。あたしは、そのパールの頭に手を置いて、ゆっくりと撫でた。
パールは二月前、黒い獣に襲われるシャリを助けようとした時の負傷から、まだ立ち直っていない。
パールは、本当なら今頃あたしの側で護衛役を勤めるはずだった。なのに、その役割を果たしてもらうことはまだ出来ていない。あたしは何とも言えない寂しさと、一抹の罪悪感を感じていた。
パールに戦えと命じたのは、自分だ。
……あの時は、ただシャリを守らなければ、と思った。それ以外の思考は埒外にあって、パールの身を案じることもしなかったのだ。それが残酷でなくてなんだろう。パールはこんなにもあたしのために尽くしてくれているのに。
ふと見下ろすと、パールがライトイエローの瞳をあたしに向けていた。
「……ごめん。でも、多分、あたしは同じことが起きたら、また……」
同じことを繰り返すだろう。シャリのためとなれば、あたしは全てを忘れてしまえるのだから……
パールは、あたしの言ったことが分かったのか否か、静かに目を瞑った。しばらくすると、穏やかに胸が上下し始める。
あたしは、そんなパールを見下ろしながら、彼女の回復を祈った。