COLORs(50)

 御羅田のケガは、日々派手になって行った。目に涙を浮かべながら学校にやって来ることなどザラで、今日に至っては包帯で腕を吊っている。どうしたのか、と聞くと、ちょっと転んで捻っちゃってと照れ笑いを浮かべたが、真相がそうでないことは明らかだった。

 ……シャナ……

 あたしは複雑な思いを胸中に抱え、隣の席に座る御羅田を見つめた。彼女は、授業中にも関わらず、うつらうつらと船を漕いでいる。ろくに寝ていないのだろう。
 そして今古典を教えている男性教諭も、あまりやる気はなさそうで、御羅田にも注意はせず、黒板に黙々と文字を書きつけている。

 あたしはその指先をなんとはなしに追いながら、胸の中で決めた。

 シャナが何やってるのか確かめる。もう……逃げない。これ以上逃げてたらきっとシャリに顔向けできなくなる。
 ……あたしは軽く目を伏せた。

 /*■*■*/

「それじゃ、ホームルームを終わります。皆、気をつけて帰るようにね」
 担任の桜井が、こんな状況にも関わらずにっこりと笑った。その笑みは、全てを包み込み、安心させる……まるで母親のような、そんな笑顔だった。
 あたしはそんな桜井の胸中を――心を掛けた生徒達が次々死んで行く教師の気持ちを考えながら、その笑顔を見つめていた。
 胸が痛まないわけじゃない。むしろ、その痛みを想像できるからこそ、心が軋む。でも今のあたしには、その悲哀も心の奥底までは届かない。あたしの心の奥には、もっと大事なものが先にあるからだ。

「先生」

 思考に気を取られていたあたしは、聞き慣れた声に無理やり意識を引き戻された。ばっと顔を向けると、御羅田が机に両手の平をついて、勢いよく立ち上がっていた。
 その目には、淡いながらも凛とした光がある。

「どうしたの? 御羅田さん」
「先生――ううん、皆。聞いて欲しいの」
 御羅田は、ぐるりと教室の中を見回した。彼女の視界の中には、苛立ったように爪を噛んでいる牧瀬――御羅田を苛めていた少女――も入っている。彼女を映す時だけ、御羅田の目は若干揺れた。でも、その目に宿った光は、消えることなく教室中を照らしている。

 みんな、しんとなった。御羅田が積極的に発言するなんて、とても珍しいことだし――それに、多分、みんな異議を唱えたりはやしたてたりするだけの気力が残っていなかった。

「ねぇ、……ねぇ、このままでいいの?」

 御羅田は、自分に注目が集まったことを悟ると、強気に言った。
 でも、誰一人としてその問いには答えない。皆、目を逸らすか、苦笑いを浮かべた。……ううん、たった一人、そうでない人がいる。……リュウトウだった。彼だけは、御羅田を真っ直ぐ見つめ、その全てを見守るように視線を動かさない。励ますような顔もしない。ただ、ひたすら御羅田を見つめている。

 きっと御羅田にとっては、その視線が何よりも心の支えなのだろう。彼女はすっと息を吸い込んだ。

「ねぇ、このままじゃ、いずれ、私たち……死んでしまうと思う。全滅だよ。そんなの、私、嫌だ。住みなれたこの……この町や、愛しい人が、皆無くなってしまうなんて、やだ。皆は、違うの? このまま、何もしないままで、いいの? 絶対に、後悔、しないの?」

 牧瀬がガタンと机を蹴りつけた。ばさっと髪をかき上げ、じろりと御羅田を睨む。

「調子いいこと言わないでよ。んなこと言ったって、あたしらみたいな学生に、何が出来るのよ」
 同意するような声が、幾つか上がった。皆怯えた目をしている。

 御羅田の目に、陰りが過ぎった。助けを求めるように視線がさ迷い、あたしのそれとぶつかる。
 あたしは御羅田の視線を見返したが、口を開くことはしなかった。リュウトウのように、彼女を見守りたいからじゃない。あたしには、発言する権利が無いからだ。

 御羅田は、きゅっと唇を噛んで、再び口を開いた。机についた手が、震えていた。

「でも……何もしないうちから、何も出来ないって決めつけちゃだめだよ。だって……」
「でもとかだってとか、ウザイんだよ!!」
 牧瀬が立ち上がり、鞄をひったくるように抱えて教室を飛び出した。それに続いて、白けたような顔の数人が続く。誰も彼も、絶対に御羅田と視線を合わせようとはしなかった。御羅田はきょろきょろとそんな同級生たちの顔を見回し、どうして良いのか分からないかのように硬直している。
 実際、分からないのだろう。

 あたしは、心中で御羅田に……ほんの少しだけ、同情した。

「御羅田さん……あなたの気持ちは……」
 桜井が、困ったように声を掛ける。
 御羅田は悄然と肩を落とし、ゆっくりと席に着いた。俯いて、顔も上げない。

 それからしばらくして、桜井が別れの言葉を切り出した。



 御羅田は、教室中の生徒がほとんどいなくなっても、まだ席に座って俯いたままだった。
 あたしは、御羅田に声を掛けようか、どうしようか、迷う。迷った末に、手をのばした。

――シャナ」
 しかし、彼女に声を掛けたのはあたしじゃなかった。あたしより先に御羅田の席へと行った、リュウトウだった。

 最後まで残っていた生徒が、ガラリと扉を開けて、出て行く。
 教室の中には、あたしとリュウトウと御羅田の三人が残った。

「……」
 リュウトウの呼びかけにも、御羅田は答えない。彼がもう一度その名前を呼ぶと、のろのろと顔を上げた。
「……、なに?」
「今日は先に帰って欲しい」
「……分かった」

 二人の間には、何かよく分からないけれども、親密な空気が流れている。言葉にしなくても、分かり合えている――そんな空気だ。

 疎外感は感じなかった。ただ、ああ、そういう関係なんだな、と思っただけだ。

 御羅田はガタリと席を立つと、よほど落ち込んでいるのか、あたしの方を見向きもせずに教室を出て行く。その力無い足取りが痛々しく、あたしは駆け寄れないもどかしさに唇を噛んだ。

 ――あの子が――敵で――なければ。
 ――あるいは――シャリの思い人でなければ。

 一緒の道を……

 そこまで考えて、あたしは頭を振った。
 駄目だ。それ以上考えては、駄目になってしまう。
 あたしと御羅田は、敵なのだ。

 やがて、放課後の教室の中には、あたしとリュウトウだけが残った。リュウトウは、御羅田が教室を出て行くまで微動だにせず、黒板の辺りを睨んでいた。

 二人きりになった途端、不意に視線がこちらを向く。
 あたしは首を曲げて、彼の顔を正面から見た。

 意志の強そうな、凛々しい顔立ち。目に宿るのは、あたしにはない、真っ直ぐな光。側にいるだけで浄化されてしまいそうな、清浄な光だった。

「勅使河原 明」
 フルネームで名を呼ばれるのは嫌いだった。この苗字が嫌いで嫌いでしょうがなかったからだ。全然可愛くない。
 が、そんなことを言っている場合でもないだろう。あたしは渋々口を開いた。

「なぁに? 劉籐 傭璽」
「高宮は何を企んでいる?」
 彼は単刀直入だった。

 あたしは馬鹿にしたように鼻で笑い、肩をすくめて見せる。

「そんなことあたしが知るわけないでしょ?」
「お前は、シャリの部下だな」
「それを、あたしが自分で認めるわけないでしょ。いくらでもとぼけるよ。何の話? 何を言ってるのか分からない……ってね」

 リュウトウは、あまり饒舌な方ではない。だから、からかうのも簡単だった。御羅田と同じで、馬鹿みたいに真っすぐなのでからかい所はたくさんある。

 すると、リュウトウは、滔々と語り出した。

「俺は、事故で家族を失ってから、全国を回って悪しき者どもを打ち砕いて来た」
 ………………筋金入りの馬鹿だわ、コイツ。よくもまぁ、そんなご苦労なことが出来るものだ。
 あたしは思いきり蔑みの視線でリュウトウを見る。

 しかし、彼は一向に気にしない様子で、続きを喋った。
「いつぐらいだったか――ある日、突然、それまでは存在しなかった巨大な悪を感じた。悪……と言うよりは、影だ。前から、邪悪な影がこの世界を包もうとしていた兆しはあったものの、あの影の現れ方は、あまりにも突然過ぎた。俺は、その根源を突き止めるべく、影の濃くなる方へ、濃くなる方へと南下した。そしてこのT町にたどり着いたんだ」

 リュウトウは一旦言葉を止め、息を吸い込んでから、言った。
「一目見た瞬間に分かった。あの影の正体は、高宮だ」

 ……あたしは、目を逸らした。
 突然現れたのは、当たり前だ。だってシャリは、この世界の存在じゃない。死者の願いを救うと言う虚無の子がこの世界に現れないよう、この町を移動要塞として虚無と闇の狭間にぶつけようと、別世界からやって来たのだ。
 昔、執着した人の、願いを叶えようと。

 でもシャリは影なんかじゃない。影には実体がないけど、シャリはちゃんと存在する。

「あれは、邪悪なものだ。笑いながら人を絶望に陥れる、他人の痛みを解さない者。何故、人間であるお前が高宮に手を貸してる? あれは、この町を滅ぼすだろう。そして、悪くすれば、世界そのものの存在を危うくしかねない。勅使河原、お前が手を貸すだけの理由が、どこにある?」
  
「……あんたに何が分かるのよ」
 あたしは吐き捨てた。リュウトウの存在が、言葉が、心底鬱陶しい。

「……あたしを責めるのは、構わないわ。あたしは、別に自分のやってることが正しいとは思わない。多分シャリだって思ってない。彼はただ、願いを救おうとしているだけ。彼がたった一人、心に掛けた人の願いをね」

――願い? そう言えば、この間高宮が言っていた。自分は、願いを叶える存在だと」
「その通りよ。彼は、この世界を救おうとしてる」
「何だって?」

 リュウトウは、わずかに目を見開いた。よほど意外だったらしい。それはそうだろう。あのケラケラ笑ってクルクル回っているようなシャリの姿から、世界を救うだなんて言葉は逆さに振っても出て来ない。

 あたしは続けた。
「正しくないやり方かも知れないけど。でも、この町を犠牲にすれば、多分世界を救えるの。シャリは、そのためにこの町を使おうとしてる」
「……世界を」
「この世界は、危機に瀕してる。あなたの感じた、この世界を覆おうとしていた邪悪な影は、放っておけば実体を伴ってこの世界に出現する……それを防ぐためにシャリは動いてる。分かった? あなたがシャリの邪魔をするのは勝手だけど、でも、それは本当に正しいの? 世界を危機にさらしても?」

 もしかしたら――いや、多分、ここで彼にシャリの情報を渡してしまうのは、シャリにとって不利益になるだろう。興を殺ぐ可能性すらある。けれども、あたしは言わずにはいられなかった。リュウトウが自分のことを喋ったからと言うのもあるが、それ以上に、戦わずに済むのなら――と、そう思っていた。

 リュウトウは、しばらく俯いて、考え込んでいた。落ち掛けた太陽の光が、精悍な横顔に陰影を刻む。あたしはそれをまぶしげに見ながら、彼の返答を待った。

「……思えない」
 ようやく落ちた声は、掠れて聞き取れないほど小さいものだった。ほとんど、つぶやきに近い。それなりに距離を取っていたあたしには、後半部分しか聞こえなかった。

「え?」
「だからと言って、この町に住む人々を犠牲にしていいとは思えない」
――それは、」
「そもそも、お前は、それでいいのか? お前の出身地がこの町なのかどうかは知らないが、それなりに愛着もあるだろう。心を砕いた相手だっているのだろう。それに、何より、お前の言い草では、例え世界を救えたとしても――お前もシャリも一緒に死んでしまうように聞こえる。何故そこまでするんだ。シャリは何を考えているのかよく分からないにせよ、少なくともお前は、自分の命より世界の平和を取るようには見えない。違うか?」

 ……あたしは一度だけ目をつむってから、真っ直ぐにリュウトウの顔を見つめた。悔しいけど、リュウトウの言うことは最もだ。あたしは世界のために死ぬような、殊勝な性格じゃない。

 だったら何故――
 リュウトウの顔はそう言っている。そして、あたしの答えを待っている。

 ……答えは、簡単だ。

 あたしはふっと表情を緩め、眉尻を下げて、首を傾けた。
「ねぇ、リュウトウ。あなた、もしもシャナがこの町を滅ぼしてでも世界を救いたいと言ったら、どうする? いくら説得しても、耳も貸さないような子だったら、どうする?」

 リュウトウは口を開き、何かに思い至ったような表情をあたしに向けた。それから、眉間に皺を寄せ、拳をぐっと握り締め、俯きながら、震えた。

 彼のこんなに激した姿は初めて見る。
 目を見張っていると、彼はやがて、ぽつりとつぶやいた。

「……残念だ」

 と。

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※喋っちゃった明。