COLORs(54)

――

 声が出ない。息が、出来ない。
 あたしは、今、自分がどこにいるのか――忘れそうになっていた。

 手足の感覚がない。胃の辺りを妙な浮遊感が襲っている。今目の前で行われた出来事が、信じられなかった。

「あ……」

 目を見開いたまま、けれどもあたしの瞳は何も映してはいなかった。
 白い、ライオンに似た、何かの動物が、頭から赤い液体を流し、倒れているだけだ。
 この映像が、何を意味しているのか、分からない。理解、出来ない。

「あああああ」

 口からおかしな声が漏れる。あたしは白い毛並みに手を伸ばし、それを、誰かの手に押さえられた。白く、握ったら今にも壊れてしまいそうな手だった。

 それを最後に、あたしの意識は、途絶えた。

 /*■*■*/

 目を開けると、朝日が網膜を焼いた。
 
 ここは――

 あたしは、ぐったりとして力の入らない体を、腕の力だけで支えて起き上がった。柔らかいシーツが、あたしの体にまとわりついている。床には青い絨毯が敷かれ、ビロードのカーテンが窓を飾っていた。
 榊原家で、あたしが泊まっていた家だった。

 意識がうまく覚醒してくれない。あたし、何でこんな所にいるの?

 手のひらでくしゃりと前髪を押しつぶし、何度も何度も瞬きをした。

 その度に、何故か分からないけれども――涙が、こぼれて落ちた。


 扉を開けて、一階のリビングに下りると、黒衣の少年が椅子に腰掛け、所在なく足をぷらぷらさせていた。
 少年の頬を、朝日が照らしている。形の良い輪郭が浮かび上がり、まるで、それだけで完成された一枚の絵画のようだった。

 あたしは小さくその名前を呼ぶ。
「シャリ」
 彼は、足を動かすのをやめ、目線だけをあたしに向ける。
 あたしはおはようと声を掛け、テーブルを挟んだ対面に座った。

 ……ひどい頭痛がする。背中がじんじんと痛み、目が腫れぼったい。

 あたしは目元の辺りを手のひらで覆い、両肘をついた状態で、口を開いた。

「シャリでしょう」

 信じられないほど平坦な声音が漏れた。かさかさにひび割れ、今にも砕けそうな弱々しい声なのに、何の感情も含まれていない。
 目を覆っているので、シャリがどういう反応を示したのかは分からなかった。いずれにしても、声は聞こえない。でも本当は、返事なんてどうでも良い。

「シャリがパールをあそこにおびき寄せたんだ」
「……」
「また幻覚剤を使ったんでしょう。あの時の三頭犬みたいに、薬で前後不覚にさせて」
「……」
「あの子、あたしの気配を頼りにあそこまで来たんだよ。不安で不安でしょうがなくて、あたしに縋りたくて。なのに側に来ても、あたしの声が全然届いてないみたいだった。逃げていればきっと助かったのにそれもさせてあげられなかった」
「……」
「あんたは――
 あたしは腰を浮かせ、テーブルの上に拳を振り下ろした。

「あんたは、どれだけあたしから奪えば気が済むの!?」
 シャリは故意にか無意識にか、目を伏せていて、表情が読めない。
 あたしはまくし立てた。感情のままに怒鳴った。

「最初は、人を殺させた!! 次は父さんを殺せと言って――人としての道を完全に断たれたあたしから、パールまで奪った! 掛け替えの無い親友だったあの子を――あたしから、奪った!!」
 温かい涙が、頬を切り裂いてテーブルにぽたぽたと雫を落とす。あたしは、肩で息をしながら、声が枯れるまで叫んだ。

「どうして、あたしを信じてくれないの!? こんなことしなくたって、あたしはシャリを裏切ったりしないのに――裏切れるわけがないのに、どうして!!」

 息が切れた。それと同時に、体の中で燃えていた炎が、弱まる。涙が後から後からこみ上げた。体に力が入らず、あたしは、どすんと腰を落とした。

 シャリは微動だにしない。あたしは手で口元を覆い、一瞬たりとも視線を外してなるもんかとシャリを見据える。

 そのまま、硬直した時間が永遠に続くかと思われた。時計が時を刻む音だけが響く。

 シャリが突然、顔を上げた。

「クスッ――フフ、アハハハハハハ!!」

 思わず、呆然となる。シャリの口から漏れたのは、説明でも謝罪でもなく、哄笑だったからだ。

 シャリは唖然とするあたしに構わず、ひとしきりお腹を抱えて笑った後、嫌な目であたしを見た。悪寒がした。

「さぁ、どうするの? メイ。今からシャナの側に走る? それとも、ここまでされても僕に未練があるワケ?」
「な――
 何を言ってるの!?

「無理だよね! 君の性格じゃあさぁ。今更、憎み疎んじ、まして愛犬の直接の仇であるシャナの元に走れるワケないもんねぇ。じゃあ、どちらにも付かずに、惨めに怯えながらどこかに隠れてる?」
――
「どうせ、それも出来ないんでしょ? メイは、面白そうなことがあったら、首を突っ込まずにはいられないんだからさぁ。それとも第三勢力として、モンスターを引きつれて僕と戦ってみる? まぁどうせ、モンスターなんていくら連れて来たって、僕の敵じゃないけどね」
 シャリはだんだんと冷めた口調になりながらも、新しい玩具で遊ぶ子どものように目を輝かせた。
「さぁ、言ってご覧よ。君がどうするのか、興味あるなぁ。ねぇ、メイ。僕はね、ずっと、君の絶望した顔が見たかったんだよ!」

 アハハハハハハ、とシャリは笑った。人形めいた、空ろな笑いだった。

 ――あたしは思いきり唇を噛んだ。
 シャリの性格が悪いのは知っていた。
 シャリがあたしを見ていないことも知っていた。

 ――でもこんな風に思われていたなどと、考えたことは無かった。じゃあ、何? あたしは、ずっと、シャリに絶望を見せるために側に居たの? それじゃあ、別にあたしじゃなくても良かったじゃない。適度に好奇心があって、適度にシャリに惚れる女なら、誰でも良かったってこと?
 ……ふざけないでよ。

 笑えて来た。そこまで、見くびられていたなんて。

 口元が、笑いの形に歪んだ。腹の底からおかしさがこみ上げて、あたしは声を上げて笑った。

「あはははははははっ――
 シャリの笑い声と被さる。しかしあたしのそれは、シャリの笑い声ほど空ろではなかった。むしろ、怒りに満ち満ちて、天井を突き破らんばかりだった。シャリは、途中から笑うのをやめて、不思議そうに首を傾げた。
 しかし、あたしは笑い続けた。沸きあがる怒りの奔流に任せて、馬鹿笑いを続けた。続けて続けて、いい加減喉が枯れそうになった時、あたしは笑いを止めた。

 ――バカにしないでよ。
 シャリを真っ直ぐに睨みつけた。
 泣いて、怒って、笑って、完全に腹が座っている。

「シャリはあたしを見くびってるわ」

「……は?」

「馬鹿じゃないの」

 すぅっと息を吸い込み、あたしは椅子を跳ね飛ばす勢いで立ち上がりながら怒鳴った。

「勅使河原 明はね、その程度のことで絶望するほどヤワに出来てないのよ!!」

 ぽかんとするシャリに、指を突きつける。

「いい? あたしはねぇ、実の父親を、この手で殺してるのよあんたの命令で。
 今絶望するぐらいだったら、あの時に、とっくに、人生諦めてるわよ。その辺がまずあんたの見込み違いなの。分かる?  あたしを絶望させたいなら、父さんを三人ぐらいまとめて殺させなきゃ駄目よ。そんじょそこらの、よわっちいお姫様と一緒にしないでくれる!?
 それに、あたしは、あんたの提示した選択肢のどれも選ばない!
 あんたがその気なら、いいよ、あたしは、あたし自身の意志で、勝手に、モンスターを率いて、どんなに嫌って言われようとあんたを援護するから。
 言っておくけど、これは、あんたに付くってことじゃないから。あたしは、もう絶対にあんたの命令は聞かない。自分の意志と判断で動くし、ヤバイと思ったら逃げるし、もしあんたが死にそうになってたら、掻っ攫って逃げてやる。
 いい!? 覚悟しなさい、シャリ。今まで抑えてた分、あたしはあんたの都合なんて、ぜっんぜっん考えないで動くから。不利益になろうと、知ったことじゃない。
 こうやって開き直ったあたしがどんなに厄介か、死んでもへばりついて、教えてやる!」

 ほとんど息継ぎもせずそう言い切ったあたしは、荷物も持たずに榊原家を飛び出した。あたしの怒りの意志に呼応して、数多のモンスター達があたしを取り囲む。

 真昼間の百鬼夜行に囲まれて、あたしの、本当の戦いが始まった。

前へ  /  目次へ /  次へ