パールはもう居ない。
あたしはがらりと扉を開け、教室の中に足を踏み入れた。冷え込んだ廊下から、むっとするほど暖かい教室の中へ。そのとたん、御羅田がぱたぱたと駆け寄って来た。おろおろと、心配そうに顔をしかめている。
「メイちゃん、昨日、あの後大丈夫だった?」
「……、何が?」
努めて感情を込めずに言うと、御羅田は何故か視線をあちこちに逸らし、胸の前で手を組み合わせた。
「メイちゃん、ばたっと倒れた後、高宮君に連れ去られちゃったから……」
あたしは"高宮君"の辺りで眉をぴくりと動かしたが、それ以外はあまり心動かされない風に聞いていた。御羅田はそんなあたしの様子が気になるのか、こちらを覗き込んで来る。
「そうなの? ――初めて知ったわ。気がついたら家の前に倒れてたから」
「寒くなかった!?」
よほど心配していたのか、御羅田がぐいっと身を乗り出した。あたしはそんな彼女の姿に苦笑を浮かべながら、何度も頷いて見せる。
「だいじょぶ。そんなに長く倒れてたわけじゃなかったし、近所の人が介抱してくれたから」
「そっか……良かった」
御羅田はふにゃりと微笑み、眼鏡をはずして目元を拭った。
一方あたしの脳裏には、昨日目に焼きついたシーンがリフレインしている。御羅田の魔法――? が、パールの脳天を貫いたシーンだ。あたしの記憶の中で、パールの体がどさりとアスファルトに倒れ込む。真っ赤な血がどこまでも広がり、あたしを飲み込んで行く。
「……メイちゃん?」
あたしの目が、よっぽど虚ろになっていたのだろう。御羅田が不安そうにしていた。あたしは無理やり微笑みながら何でも無いと手を振ってみせ、彼女の脇をすり抜けて席に着いた。鞄を横に引っ掛け、ぴんと背を伸ばす。
そうしていないと、思考が暴れ出しそうだったからだ。
でも、御羅田は、そんなあたしを放っておいてはくれない。人の少ない教室で、あたしを目指して一直線に近づいてくる。顔を上げると、すぐ目の前に彼女が立っていた。
「ねぇ、メイちゃん――」
神妙な面持ちで、御羅田は口を開いた。
「メイちゃんは、どう思う? この町の、現状について」
「……どうもこうも」
最悪よ、とあたしは肩をすくめた。わざとおどけて見せれば、悲しいことなんて何もなかったかのように振舞える……ような気がした。
「だよね。私も、そう思うんだ。だから……戦わなくちゃいけないと思う。私たちは、あの妖魔たちにも、そして高宮君にも」
御羅田は言ってから、あたしの反応を窺うように視線を寄越して来た。一瞬、どういう意味かと考え、思い至る。
――そっか。御羅田は、あたしがシャリの正体をまだ知らないと思ってるんだ。
本当は誰よりも先に知っていたのに。
「……高宮君が?」
仕方なく付き合うと、御羅田はこくんと頷いた。
「そう、高宮君は、この町を陥れようとしている黒幕なんだよ。だから、昨日メイちゃんが高宮君に連れ去られてしまった時、本当に怖かった。メイちゃんが、もう二度と帰って来ないんじゃないかと思って」
御羅田はそう言って、ほぅと息をついた。
「でも、良かった。メイちゃんが生きててくれて……ここに帰って来てくれて」
ふわり、と花開くように微笑む御羅田を見て、あたしの中に意地悪な気持ちがこみ上げた。ここで、この場で、あたしがシャリの味方であることを御羅田にバラしたらどんな顔をするだろう。きっと真っ青になって呆然と口を開けるだろう。そして嘘でしょ……? とか、そんな感じのことを言うのだ。
その想像は快感だった。
でも、それを実行に移す前に、予鈴が鳴り響く。御羅田が口元を動かさずにつぶやいた。
「メイちゃん、私、頑張るから、見ていてね」
/*■*■*/
朝のHRが始まる。
桜井がすたすたと入って来て、教壇の上からあたし達を見下ろす。そして口を開いた、それとほぼ同時に、ガタっと強い音が鳴り響いた。
御羅田だった。
彼女は、またか、とうんざりした様子の教室中を眺め、武者震いのように一度だけ震えた。それから、席を離れ、教壇に向かって一直線に歩いて行く。
困惑したような、同情するような表情の桜井と向き合った御羅田は、いきなり首がもげそうな勢いで頭を下げた。
「先生、お願いします。HRの時間を私に貸してください」
「御羅田――」
「お願いです。これで、最後ですから」
桜井は、困ったように辺りを見回し、それから再び御羅田に視線を据えた。こちらに背を向けている御羅田の表情は見えないが、桜井が突然表情を変え、驚いたようになったところからして、よっぽど決意に満ちた顔でもしていたのだろう。
あたしは御羅田の背中を見ながら、うつらうつらと記憶を再生していた。初めて会った時、御羅田はおどおどびくびくとしていて頼りなく、もたれ掛かったら折れてしまいそうに見えた。
あの時の少女と同じ人物が、全然違う表情を浮かべてここにいる。
「お願い。皆、考えて」
くるりと向き直った御羅田が、言った。
大きく声を張り上げて、まるで瀕死の白鳥のように気高く言い募る。
御羅田は必死だった。
「私たちの育ったこの町が、今、消えようとしている。ある人の企みによって、この町は利用されようとしている。ねぇ皆、それでいいの?」
教室の中はしんと静まり返っている。
「確かに、化け物に襲われたら、怖いよ。昨日まで隣にいた人が、今日はもういないなんて、想像しただけで恐ろしくなってしまうよね。私もそう。好きな人が、大事な友達が、私の目の前から消えたら……そう思うと、足が震えて、立てなくなってしまう。だって、私たちの存在はちっぽけで、力無くて、この町を襲う異変に立ち向かうには、あまりに頼りないもの」
でも、と御羅田は声を張り上げる。
「でも。一人なら頼りなくたって、たくさんの思いが一つになれば、きっと出来ないことなんてない。立ち向かえないものなんてない。私は、信じてる。この絶望にまみれたT町の中にあっても、希望はきっとあるって。きっと、この町を救うことが出来るって」
御羅田の凛とした声が迸り、教室を揺らす。
あたしは眩暈がした。
これが本当にあの、御羅田紗那? あたしの知っている、あの泣き虫な女はどこに行ってしまったの?
教室の中が、にわかにざわめいた。お互いの顔を見て、御羅田の張り詰めた表情と見比べる。
しかしその時突然、高くなった温度を切り裂くように、一人の女生徒が席を立った。
「……そんな保障どこにもないじゃない」
牧瀬だった。
常に御羅田の前途に立ちふさがっていた少女が、またしても御羅田を追い詰めようとする。
彼女は、ずかずかと教壇に歩み寄ると、有無を言わせず御羅田の首根っこを掴んだ。
「ふざけんなよ。何、調子いい事言ってくれちゃってんだよ。普通に考えて、そんな上手く行くわけないじゃんか。お前、そんな事言って自分だけ助かろうとしてるんじゃないだろうな。皆を犠牲にしてさぁ」
ざわめていた教室が、再び静けさの中に落ちる。誰もが固唾を呑んで見守る中、御羅田は胸を張った。そうすることで、身長で負ける牧瀬に呑まれまいとしているのだ。
「何とか言ったらどうなんだよ!?」
「……悲しい人」
御羅田はつぶやいた。思わぬことを言われ、一瞬動きの止まる牧瀬を見つめて、きっぱり言う。
「不安でしょうがいんだね。あなたはそうやって無理やりにでも他者の上に立っていると言う実感を得なければ、精神を保っておけないのよ。可哀想な人。本当に」
「なっ――」
「でも、私の邪魔はしないで。私は他人を犠牲にして、自分が助かろうなんて思ってない。自分にそこまでして生き延びる価値なんかないって分かってるから。やろうとしたってきっと出来ない」
「ふざけんな!!」
牧瀬は怒りに任せて、御羅田の頭を黒板に叩きつけた。これには、今まで静観していた桜井も慌てて駆け寄ろうとする。でもその前に御羅田は震えながら立ち上がり、牧瀬の腕を強く振り払った。
こめかみから、一筋の血が流れる。
「どんなことされたって私は、――私はもう二度と貴方に屈したりしない!」
「こ、の……」
牧瀬が力なく腕を振り上げる。御羅田が痛みを覚悟したのか目を瞑ったその時、飛び込んだ桜井が、牧瀬の腕を引っつかんだ。
「やめなさい。もう勝負はついたでしょう」
「っ……まだ……!!」
「落ち着きなさい」
静かな声で言われ、牧瀬はがっくりと肩を落とした。そのまま手を目にかぶせ、嗚咽を上げる。肩が小刻みに震え、雫がぽたぽたと落ちた。
桜井は、牧瀬を宥めながら、彼女を引きつれて教室の外へと出て行く。最後に一度だけ御羅田を振り返り、それから扉を後ろ手に閉めた。
御羅田は、強い感情の揺れにか、目を潤ませ、肩で息をしていたが、教壇に取りすがって何とか立ち上がった。そして、教室中を見回すと、自信に満ちた、微笑みを浮かべた。
長い冬に耐え、シャナと言う名の花が、咲き誇った瞬間だった。
「皆で、頑張って見ようよ。きっと、頑張ったら、出来ないことなんてないから」
今しがた、自分の過去と対決した御羅田が言うと、その言葉はとても力強くあたしの鼓膜を打った。
「……やろうよ」
誰かがぽつりとつぶやいた。
「出来るんじゃん? あの御羅田がここまでやるんだから」
誰かがそれを追うように、声を上げる。
「そうだよ――このまま見てるだけなんて、シャクに障るじゃん」
「そうそう。誰だか知らないけど、勝手に人の町を玩具にするなよな」
静かな興奮が、水を打ったように静まり返っていた教室中に沸きあがる。誰もが顔を見合わせ、久方振りの笑顔を浮かべ、目をきらきらと輝かせている。
御羅田と目を合わせたリュウトウが、かすかに微笑んだのがあたしの席から見えた。
御羅田の顔が輝く。リュウトウに向かって満面の笑みを浮かべ、頷いた。
「でさァ、黒幕って一体誰なのよ。敵が分かんないと、燃えないじゃん?」
出し抜けに誰かが言った。
皆がお喋りを止め、その答えを知っているはずの御羅田に注目する。
御羅田はすっと息を吸い込み、不在のままのシャリの席を睨みつけ、――
「敵の正体は」
それまでただじっと黙り込み、成り行きを窺っていたあたしは、教室中に響き渡る、大きな声で言った。さっと周囲の視線があたしに突き刺さって来る。でもあたしは、それを故意に無視して、立ち上がった。窓際まで歩みを進め、困惑した表情のシャナと真っ向から向き合う。
――潮時だな。
と、一人冷めた心で思った。
シャナ、あんたはあたしの友達だった。
でも、今は違う。今のあんたは――
あたしは口の端を吊り上げて、言い放った。
「あたしは、あんたの敵よ、シャナ」
唖然と、息を呑む音がした。シャナは目を限界まで見開き、理解を拒むように首を横に振った。
「何……言ってるの?」
「シャナ」
あたしは、彼女の――友達だった女の名前を呼びながら、同時に強く意志を放った。それに答え、まさに瞬間、窓ガラスが割れる。陽光に照らされた破片がパラパラと降り注ぐ中、あたしはシャナを――シャナだけを見つめていた。
「サ・ヨ・ナ・ラ」
降り立った大鷲型のモンスター――ネイビーの背にまたがり、あたしは唖然としているクラス内を見渡した。リュウトウだけが、一人冷静にあたしを見ている。――いや、限りない悲哀の色を込めて、あたしを見ている。
あたしはふと笑みを漏らし、そしてそれを大きくしながら、モンスターに飛び立つよう命令した。
あたしから沸き出る哄笑が、シャナの表情を抉ったように変えて行く。
蒼白になるシャナの顔を最後に、あたしは再び窓から飛び出した。
……それが、あたしとシャナの、決別の時だった。