COLORs(59)

 まるで、闇そのもののような色の獣が踊る。そこは榊原家の廊下だった。あたしの目の前に、広々としたフローリングがのびている。電気もついていない完全な闇の中だった。

「シャリ!」

 あたしが駆けつけた時、シャリはすでにあお向けに倒れ、ぴくりとも動かなかった。黒い髪が床に流れ、痛々しく散らばっている。その側には、戦ったのか、紫色をした剣と、倒れた拍子に外れたらしく、いつも被っている帽子が転がっていた。

 あたしは濡れそぼった服からぽたぽたと雫が落ちるのにも構わず、駆け出した。

 シャリの手や膝に噛みつき、あるいはのしかかり、唸りを上げている獣たちがあたしの姿を見て威嚇するように牙を剥く。真っ赤な歯肉が、いやに目についた。

 あたしが構わず一直線にシャリに飛びつくと、獣たちは一瞬ビクッと震えた後、飛びすさった。あたしはシャリの背に手を回し、軽い体を抱き起こす。
「シャリ、しっかりして――

 そうこうするうちに、驚きから立ち直った獣たちが低い唸り声を上げながら包囲を狭めて来る。あたしは目を閉じたまま動かないシャリを一旦床に寝かせ、立ち上がって庇うように両腕を広げた。あの獣たちの爪を受ければ、あたしみたいな小娘は一瞬で引き裂かれて終わりだろう。そう思うと手が震え、雨で冷えた顔が熱くほてった。
 でも――
 あたしは唇を噛んで、体の底から沸き上がってくる恐怖を、吹きつけてくる獰猛な殺気をやり過ごす。目に涙が滲む。
 でも、それでも、
「意地でもここはどかない。――あんた達なんかにシャリは渡さな、」
「邪魔だよ」

 どこか苦しげな声が割って入る。息遣いが荒く、掠れていた。振り向く間もなく腕をぐっと掴まれる感触。思ったよりも強い力で後ろに引っ張られたあたしは、よろめいて尻餅をついた。

 あたしと入れ替わりに、今まで庇っていた少年が前に進み出る。その姿を目にした瞬間、獣たちの殺気が爆発的に膨れ上がり、肌を刺して痛いほどだった。

「シャリ――

 彼は、乱れ、ほつれた髪を直そうともせず、白い右手で自分の胸の辺りを鷲づかみにしている。表情は今まで見た事も無いほど痛々しく唇を噛み、半眼になって獣たちを睨んでいた。

「っ……」

 シャリの苦々しげな視線が一瞬逸れ、何故か背後のあたしに向いた。隙を窺っていた獣が、好機とばかりにシャリに向けて飛びかかる。シャリは庇うように腕を上げ、振り払うような仕草をした。それと同時に、数匹の獣たちが重力を無視した動きで地面に叩きつけられる。

「どうせ同じことだったのに」
 シャリは苛立ったような声を上げ、振り上げた手でぐっと握りこぶしを作った。その瞬間、メキ、と骨が砕け、肉のよじれる音が響く。地面に叩きつけられた数匹の体が、何か大きな拳に握りつぶされたかのようにひしゃげて行く。有り得ない角度で手足が曲がり、口から泡が漏れ、そして血をぶちまけて半分にねじ切れた。

 ――

 あたしはその凄惨な光景から目を逸らす。

「去りなよ、闇の化身たち。どうせいくらやったって、君たちには僕を殺すことなんて出来やしない」
 言葉と共に、生き残りの獣たちからシュウシュウと煙が上がった。否、獣たちが煙となって蒸発して行くのである。あたしはその異常な光景から目を離せず、思わず口元に手をあてて悲鳴をこらえた。

「……くっ」
 全ての獣が消え去ると、シャリはがくんと体勢を崩し、糸の切れたマリオネットのように膝をついた。あたしは咄嗟のことに驚き、中途半端に手を差し出したせいで、倒れ込んで来たシャリを抱き止める形になった。驚くほど近くにあるシャリの体からは、体温と言うものが全く感じられない。ひんやりと冷たく、あたしは死体を抱えている気になってぞっとした。

「大丈夫!?」
 抑えようとしても、声が上ずる。シャリはぴくりと動き、凄い力であたしの肩を掴んだ。
「痛っ……」
 眉をしかめ、苦痛をこらえる。シャリはあたしの肩を押し戻すようにして体を起こすと、正面からあたしを見据えた。

「どうして来た?」
 ただ一言が、聞いたことも無いほど鋭くて、耳に痛かった。
 あたしは鼻白み、動揺しそうになるのを何とか抑える。

「ブレーズが教えてくれたの。シャリの様子がおかしいって――
「……君は、屋上で戦い続けるべきだった。アレは、この世界に本来存在すべきでない僕を、殺すために生まれた神の遣い。どうせ倒しても、倒されても、いずれにしろ僕から力を奪って行く」
 あたしは息を呑んだ。それじゃ、シャリに勝ち目はないじゃないか。放っておけって言われたって、例え役に立てなくなって、見て見ぬ振りをするなんて無理だよ。

 そういう事なら、と、あたしは間近にあるシャリの顔を見つめた。
「……あたし言ったよ。もうシャリの言うことなんて聞かない」
 すると、突然シャリが手をのばした。あたしの頬にひやりとした手のひらが触れる。

「君は愚かだ」
 感情を込めずに言い放たれた声が、あたしの胸に突き刺さった。あたしは思わず、目を逸らした。そうする間に、体にのしかっていた重みが消える。視線を戻すと、シャリが立ち上がって剣を拾おうとしているところだった。

「どこに……」
「戦場に行くんだよ」
 シャリは剣の柄を握り、剣を拾い上げながら言った。入念な視線で刀身を確かめ、満足そうに頷き、剣をどこかに消す。

 あたしは信じられないものを見るような目でシャリを見た。シャリは立ち上がる力を取り戻したとはいえ、ふらふらと足元がおぼつかない。こんな体で戦うなんて無理に決まっている。

「無理だよ! 何考えてんの!? もう計画なんて止めちゃいなよ。あるいは他の日にするとか、色々あるでしょ?」
「それこそ無理だよ。それに、僕が初めてこの世界に来てからずっと溜め続けて来た負の感情は、間違いなく今日、臨界点に達する。そうなれば、何が起きようと問答無用でソウルイーターは目覚める」
「そんな――それじゃ、つまり、時限式みたいなものじゃない!」
「だからそう言ってるんだよ」

 シャリはゆっくりと振り向き、表情もなくあたしに手を差し出した。
 ……

 あたしはシャリの手を見つめ、戸惑いを顔に浮かべる。

「メイも一緒に戻ってよ。それとも、それも嫌なの?」
 シャリは小さく笑みを浮かべた。でもそれは、皮肉気な、幼い外見には全く不似合いな笑みだった。

 ……シャリが戦場に行くなら、あたしがついて行かない道理はない。そこに不満はない。でも、シャリがこんな体で戦うのかと思うと、焦燥感で体が焼けそうだ。

「……一つだけ、聞いていい?」
「手短になら、いいよ」
「……どうして戻るの? それは、――シャナのため?」

 これだけは聞かずにいられない。あたしがゆっくり首を傾げると、シャリは差し出した手を引っ込め、首を横に振った。
「僕は最初から最後まで、たった一つの願いを叶えるために動いてる。メイ、君が、最初から最後まで僕のために動いたように」
「シャリ……?」
 彼らしくない言動に戸惑いを覚え、確かめるつもりで名を呼ぶ。シャリがあたしを認めるようなことを口にするなんて。

 するとシャリは、ぱっと顔を背けて手で顔を覆った。

「……早く行こう。せっかくシャナやヨウジを呼んだんだ。僕は」
 シャリの手が落ちる。そこに浮かんでいたのは、いつもの虚ろな微笑みだった。

「僕は、最後まで手を抜かない主義さ」

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