8-1 嵐
風が轟々と唸っている。雨が横殴りに叩き付け、一寸先も見えはしないという状態だった。アリエーフは一人、村の外に立って、雨空を見上げていた。
風雨の凶暴な音が耳朶を揺らす。
アリエーフは、体に張り付いたローブをぎゅっと握り締めた。それはもはや、体にまとわりついて絶えず体を冷やす無用の長物でしかない。すでに体のどこに触れても水が滴り落ちる有様なのである。
なぜこんな所にぼーっと突っ立っているかと言えば、シャリが言ったのだ。いわく――
『危険かもね。騎士たちがここまで来たってことは、もう他の町や村にもアリエーフを追討するよう通達が行ってるんじゃないかな? 僕が探って来てあげるから、アリエーフはここで待っててよ。じゃあね』
――などと言われては、アリエーフもここを動くわけに行かない。はぐれたらコトだ。アイツめ帰ってきたらとっちめてやる。
アリエーフは硬く決意して、目を閉じた。
ぼんやりと頭の中に地図を思い浮かべる。
(……ここから船に乗れば、もうすぐに旅は終わり……崖から落ちたのが良かったんだね。思ったより早く、ついちゃった)
早くついたのが、幸運だったのか否かアリエーフは考えたくない。……この旅が終わったら、自分はどうするのだろうと、そういう問いに直結するからだ。
(もっと早くに、死ぬと思ってたんだよ。私は……生きて海を渡れるなんて思っても見なかった)
しみじみと考え、アリエーフは我に返ってその思いを掻き消した。
「違う。まだ終わってない。最後までがんばらなきゃ……絶対に船に乗るんだ。たとえ何があっても」
アリエーフは、祝詞をつぶやくような峻厳な面持ちでそう言って、唇を閉じた。
(最後まで一緒に旅が出来ればいい……それが叶わないことだとしても、私はシャリが――)
「アリエーフ」
一人の世界から戻ってみると、シャリの姿が目に飛び込んできた。不思議な微笑みをたたえた顔、全てを隠すように真っ黒な服。なぜか彼の周りだけは雨が避けて通るのか、アリエーフほどびしょびしょには濡れていない。
アリエーフは、シャリのマネをしてからかうような笑いを唇に乗せた。
「遅かったね? シャリ。もしかしてわざととか? ウフフアハハ!」
シャリは猛烈に腐った何かを口にしたような顔になって、げんなりと手を振った。
「どうでもいいけど、全然似てないよ」
「人をこんな嵐の中放置しておいて、最初の言葉がそれ!?」
「アリエーフこそ、こんな嵐の中探りに行った親切な僕に対しての言葉が、それ?」
アリエーフは言葉に詰まった。確かに最初、ふざけたのは自分だが。
謝った方がいいかと思いつつ謝りかねていると、シャリが話題を変えた。
「それで、探ってきた結果なんだけど――」
「うん、どうだった?」
シャリは、アリエーフから見てもかわいらしい微笑みを浮かべた。
「ごっめーん。全然分かんなかったんだよね」
「……」
アリエーフは地獄の底から睨み殺すような目でシャリを一瞥した後、とっとと村の入り口に近づいて行った。
「ちょっとー、危険だよ?」
「うるさいな、追われたら逃げればいいだけだよ」
「そうじゃなくて、君の――」
足元の石畳にブーツの踵が引っ掛かる。アリエーフは躍起になって、引き抜こうと引っ張っ――見事な音をたてて、アリエーフは地面に倒れこんだ。痛い。
「――運の悪さが」
アリエーフは目じりに涙を浮かべて、口をへの字に曲げた。
「っくしゅん」
(風邪、ひいたかな……)
アリエーフは厄介だなと思い、渋面を作った。
宿の一室だった。あまり上等とは言えないが、宿があったのはラッキーだった――こんな小さな漁村では、宿もないことも多々ある。
まだ嵐は過ぎず、建物の軋む音がさっきから絶えない。
アリエーフはドレッサーの前に座って、髪についた水滴を布で拭き取っていた。ランプの火がチロリと揺らめく。
「……何か、今日は寒いな」
声は一人きりの部屋に落ちる。そしてすぐに消えてしまう。せめてもの温かさが欲しくて、自分の肩を抱き締める。胸がドクンと鳴った。
「もうすぐ、……この大陸を出るんだね」
瑞々しい空気が肺の中を一杯にする。アリエーフはゆっくりと息を吐き出して、自然に口元をほころばせた。
(でも、この大陸を出たら、シャリはどうするんだろ)
少し不安げに眉を寄せる。
「……でも、私、もしどうなったとしても、シャリは――」
とその時、扉の外に気配を感じて、アリエーフは口を閉じた。
『ねえ、ちょっといい? 話があるんだけど』
シャリの、高くも低くもない、嬉しそうでも嫌そうでもない、独特の声だった。もうすっかり耳に馴染んだそれを思い、アリエーフは立ち上がる。ランプの光が届く範囲から、闇の中に近づいて行く。扉に、背を預ける。
「いいよ。入れてあげないけど」
髪を一筋、耳の後ろにやる。ずいぶんと短くなってしまった――最初のあの日に、切り落としてしまったのだった。長い金髪の髪。アリエーフの自慢だった。それと一緒に捨てたものはたくさんある、それでも全て捨てずに済んだのは、シャリのお陰だろうか。あんまり認めたくないが。
シャリからの返事は、まるでためらうように返ってこなかった。何をためらうというのだろう。今さら。
『……すぐに終わるよ。もうすぐ、旅がね』
「そうだね」
アリエーフはすぐに答えた。シャリの明るい、あっけらかんとした笑い声が返ってくる。
『感慨とか、ないの? 淡白だね』
「シャリに言われたくないよ。そんなコト話しに来たんじゃないんでしょ、どうせ」
一瞬、沈黙が走った。
『へぇ、よく分かってるね』
「だって、すごく……」
『すごく?』
「色々なことがあったから、まるで何年も一緒にいるような気がする、シャリとは」
素直に、アリエーフは言った。焦るように胸元を押さえる。
「ねぇ、シャリは、どこまで一緒について来る気?」
アリエーフは、息もできずに答えを待った。
『……君が考えなきゃいけないことは、他にあるでしょ? 今、そんなこと言ってたら、立ち止まったまま動けないよ』
「ふざけないで! 私――」
『神聖騎士団がこの辺りを探ってるみたいなんだ』
アリエーフは言おうとした言葉をひゅっと呑みこんだ。
「……え?」
『行こう。今夜船を出してくれる人を見つけたから』
「だって、こんな嵐――」
アリエーフは困惑を隠そうともせずに、扉から背を離して向き直った。
早すぎる。まだ何の決意もしてないのに。
『奇特な人もいるもんだよね。感謝しなきゃね?』
彼は普段と変わらない、明るい調子の声で言うが、アリエーフはもどかしく扉を開けた。
シャリがどうしようもない、と言いたそうに首を横に振る。
「時間は待ってくれないよ。さ、早く行こう」
「待ってよ。何かおかしい――」
「で、アリエーフは、」
シャリは勝手にアリエーフの部屋に入ると、ベッドに転がっている鞄をこっちに放った。
アリエーフは受け止める。ずっしりと重い。
「愛を信じられそう?」
胸の中を突かれたような気がした。とっさに言葉が出ない。
シャリは、呆れたようにため息を吐いた。
「行こう」
彼は言下に部屋の外に出ると、後も振り返らず歩いて行く。外で雷が大きな音をたてた。
「ちょっと、待ってよ――待ってってば!」
アリエーフは胸をかき乱すような不安をじっくり吟味する暇もなく、鞄を抱えて飛び出した。
開け放たれたままの扉が、いつまでも風に揺れていた。
外に出ると、せっかく乾かした髪が雨に打たれる。
シャリの背は、すでに遠い所に見えた。もともと雨のせいで視界はゼロに等しい。
見失うわけに行かないから、ためらっている暇もない。あまりの身勝手さに閉口して、アリエーフはその背を追う。
「シャリ!」
やっと追いついたのに、彼がこっちを見たのは一瞬だけ。
アリエーフは額に張り付いた髪を払って、隣に並んだ。
「ねぇ、その人って、信用できるの?」
「大丈夫」
アリエーフは目も開けていられないような雨脚の強さに苛立ちながら、叫んだ。
「船着き場は、どっち!?」
シャリは道の真ん中で足を止め、不意にくるりとこっちに向き直った。
「何……!?」
彼はおもむろに口を開き――閉じた。雨のせいで、細かい表情までは分からない。
「どうしたの……?」
「良かったね、アリエーフ」
アリエーフは不快そうに手を振った。
「何が?」
彼の声は、不思議な色を含んでいた。いつもとは違う。その感覚に、不穏なものを感じる。
「もっと喜んでよ。もうすぐ、逃げられるんだよ? 君は生き残ったんだから」
「……何、言ってるの」
アリエーフの顔が強張る。この言い草では、まるで……
シャリはさらに口を開き――
その時、嵐の中に哄笑が響き渡った。
「この時を我は待っていた! 万感叶う、この時を!」
突如として、目の前に暗い闇が噴き出した。曖昧模糊として形の定まらなかったそれが、邪悪な――全身の毛が逆立つような――気を伴って、像を結ぶ。
アリエーフは思わず顔をかばった。目を疑う。現れたのは――古の怨霊、ディーヴァだった。
(せっかく、ここまで来たのに! また、邪魔をする気なの?)
雷が轟音をたてて天を裂く。
アリエーフの背をひやりとしたものが撫でた。だが――
と、アリエーフはシャリを見る。
(迷っていられない。最後まで)
アリエーフは今にも逃げ出そうとする、自分の心を叱咤した。無理やり足を動かして、一歩、前へ。
「また、私を殺しに来たの?」
「殺す? 殺すだと?」
おかしくてたまらないと言う風に、ディーヴァは笑いながら堪能するように緩やかな足取りで距離を詰めてくる。
アリエーフは同じ分だけ下がりながら、唇の端を無理やり上げた。声を張り上げる。
「何がおかしいの? とうとう、狂っちゃった?」
「狂う? 狂うと言ったのか? 最初から、我が魂は狂気の内にあるわ。今さら、何を恐れることがある? ん? 娘よ」
彼はいつにもまして饒舌に、まるで極上の美酒を舌に乗せたような声音で言った。近づいてくる彼に、アリエーフはもう逃げなかった。ただ決意を秘めた静謐な眼差しでそれを見つめる。
(負けない。絶対に生きて……ここを出る)
が、一瞬ディーヴァの姿が掻き消える。次に現れた時、父の顔がすぐ間近にあった。
「っ、離して!」
腕を掴まれ、沸き上がる不快感に身をよじる。
「愚かな娘よ。ここに至っても、運命をこばむか――良いか、娘よ。お主が生まれたのは、単なる気まぐれに過ぎぬ。お主は我がために生まれ、ここまで成長したのだ」
「勝手なこと、言わないでよっ! 私は、ずっと一人ぼっちで生きて来たんだから、これからだって、誰のためにも生きない!」
ディーヴァは雨が額を伝っても気にならないのか、嘲弄の眼差しでアリエーフを見下ろしている。
「相変わらずだな、娘よ――アリエーフよ。どうした? 連れに助けを求めないのか?」
アリエーフは必死に逃れようとする動きを止めて、助けを求めるようにシャリを見た。
「シャリ……」
「ふ、フハハハハッ!」
ディーヴァが再び嘲笑を上げる。
アリエーフはきっとなって、ディーヴァを睨みつけた。
「本当に、我が言葉に従うとはな、アリエーフよ……! これほど滑稽なことはないわ。まだ気づかぬか、シャリがなぜお主を守ったか、執拗に執着したか?」
アリエーフの体が、一瞬にして凍りついた。
「……な、何を」
アリエーフは顔を真っ白くした。胸が詰まったように息ができない。
「では教えてやろう」
ディーヴァは顔全体を歪めるようにして愉悦を浮かべた。アリエーフは、それをじっと見上げることしかできない。
「我が誰によって冥界から呼び戻されたのか――誰がお主の封印を解いたのか?」
「何を……」
彼は滔々と続けた。
「不思議に思わなかったのか? 何の見返りもなく、お主を守る奴のことが。人とは思えぬその力が」
「何を、――言って」
「シャリ! 全てはその方の仕組んだことよ。お主をこの場に連れて来ることも、我を呼び醒ましたことも、全てはかの方の計略の内よ!」
アリエーフは一瞬、言われたことの意味が分からなかった。雨の音と混じって聞き間違えたのかもしれないと本気で思う。
(計略? ……誰の? 私をここに連れてくるって、どういうこと……?)
とにかく頭の中が真っ白で、まともな思考が浮かばない。アリエーフは目を見開いて首を振った。
「シャリ……嘘だよね……」
シャリはしばらく、何を考えているのか分からない、透明な微笑みを浮かべてこちらを見た後――後、うなずいた。
「本当だよ」
彼の、笑みが深くなった。
アリエーフは愕然と濡れた大地に膝を落とす。服がびしょびしょに濡れるが、全く気にもならなかった。
彼は、軽く地を蹴った。いかなる法則によってか、彼は宙に浮いたまま、くるりと回る。再びこちらを向いた時、彼の手には紫色の剣が握られていた。雨が叩き付けるが、その剣は全く輝きを損なうことなく、妖しい光を放っている。
シャリは、流れるような動作で一礼した。――宮廷式の礼。彼の口から笑い声が上がった。ぴりぴりとした悪意のにじむ声。
「まったく、見事に騙されてくれたみたいで嬉しいよ」
「嘘……」
アリエーフは、そうつぶやくことしかできない。何がどうなっているのか、今自分が何を言われているのかも分からない――分かりたくない。
「嘘じゃないさ。嘘なんてつく余裕はなかったしね――」
その時、目の前が真っ白になった。
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