その剣に花束を


8-2 嵐



 気がつくと、見たこともないほど不気味な場所に、彼女は立っていた。ここはどこだろう……?
 ……地面がひどく粘ついている。まるで生きもののように脈動していて、赤黒い。天を仰ぐが、天井は見えなかった。ただ闇が広がって、それ以上のものは見えない――
 アリエーフは、思わず目を逸らした。この空間には、悪意が満ちている。ただ立っているだけで怨嗟の悲鳴が聞こえてきそうだった。肌から何かがしみこんで、魂まで根こそぎ吸われてしまいそうな――そんな恐怖がアリエーフの身を包む。
「ここは次元の狭間。……憎しみ合う血の連なり。そのソウルでもって、死した魂は血と肉を得ん」
 突然の声に、顔を上げる。宙にディーヴァとシャリが浮いていた。特にディーヴァは、この空間の中にあって力を増したように思える。青ざめた肌がさらに白くなり、乾燥したようにひび割れた唇がめくれ上がった。
「アリエーフ、我が娘よ。聞いたことがあろう」
 アリエーフは眉間に皺を寄せた。
(憎しみ合う、血の連なり――? 死した魂は――血と肉を、……)
 シャリからもらった、ファイアの魔導書。それに挟まっていた、カード……に、確かそんな文言が書かれていたはずだ。
(そうだ、シャリ……)
 アリエーフは、ディーヴァの隣で何食わぬ顔をして目を閉じているシャリに目をやった。彼は、ディーヴァと対象的に落ち着いて、全く普段と変わりがない。――宙に浮いているということ以外は。
 アリエーフはよろめきながら、二人に近づいた。
「どういうことっ? シャリ、どうして――
 一旦言葉を切る。鼻の奥がツンとして、涙がこみ上げたがアリエーフはこらえた。
(そう……そういうことだ。認めたくないけど、これはそういう――
 拳を握る。
「どうして裏切った!」
「裏切る?」
 シャリはゆっくりと目を開いて、薄い笑いを浮かべた。
「裏切った覚えなんてないよ。君は、僕を味方だなんて思ってなかったんでしょ?」
「そっ……」
 アリエーフは絶句した。口を開け閉めすることしかできない。
「そんな――
「薄々、気づいてたんじゃない? 君に僕が何をしようとしてるのか、教えてあげようと思って――
 気がつくと、シャリの手に一枚のカードがある。彼はそれをこっちに放った。
「そんなものを挟んであげたくらいだしね」
 アリエーフは地面に落ちるそれを、捕まえた。カードには、『憎しみ合う血の連なり。そのソウルでもって、死した魂は血と肉を得ん』と書かれている。
「どういう……」
「我が教えてやろう――こういうことだ」
 ディーヴァがこっちに向かって、手をかざす。
「っ――!」
 アリエーフは、思わず胸を掻きむしった。体中から"何か"が抜けて行く。体中の精気という精気を吸い取られるような。アリエーフの中で、大事なものが次第に失われて行った。
 思い――――記憶。
 どんどん薄れて行く。アリエーフはついに立っていることすらできず、無様に倒れこんだ。
「古の呪、血と肉の呪法よ。我が身を憎む血縁からソウルを奪い、これを転化すれば、実体のない怨霊であっても得ることができる――滾る血潮と、精力に満ちた肉を!」
「うぅ……あぁ」
 アリエーフは喉を押さえた。目の前が白濁する。生命の根源を奪われて行く――ソウルを!
 哄笑が響き渡る。
「シャリ殿には感謝せねばならぬ……我を救ったばかりか、力すらも与えると言うのだから」
「どうして……」
 アリエーフは地を掻いた。爪をたて、ほとんど意識が飛びそうになりながら顔を上げる。
「どうして……そこまでして、復活しようなんて……」
「我は世界を闇に滅す――そのためによみがえるのだ。感謝するがいい、アリエーフよ」
 闇……それはアリエーフの眼前に迫っているものだった。このままでは、完全に動けなくなる時が近い。
「破壊神を復活させて、彼の肉体に降ろす。そのために、君のソウルが必要だったんだよ、アリエーフ」
 笑いを含んだシャリの声がする。アリエーフは未だに信じられなかった。シャリが自分を――
(シャリは……どうして……)
「さぁ、そのソウルを我に奉げ、ゆっくりと眠るがいい!」
 思考が途切れ途切れになる。目の前が闇に包まれつつあった。まぶたが重い。心地良い脱力感に身を任せればどんなに楽だろう――? もしかしたら、そっちの方が楽かも知れない。シャリのことも考えずに済む、全てから解放される。考えてみれば、このまま身を任せるのもいい。それはきっと、楽だ。
 アリエーフはすっと目を閉じた。何も見えなくなる。そのまま、思考も薄れて、
(でも……なんだろう。何か忘れているような気がする)
 死のまどろみから意識を浮上させ、アリエーフはぼんやりと目を開いた。
 自分の手に、カードが握られている。まるで絶対に離してはいけないもののように、無意識に折れそうなほど握り締めて。
――シャリ)
 今までのことが思い返された。シャリはいつもアリエーフの隣にいた。守ってくれた。例えそれが、偽りだとしても。楽しかった。ずっと彼がいたから楽しかった。
 何を勝手に、傷ついて諦めたりしてるんだろう。
 アリエーフは頭を強く殴られたような気がした。
 シャリがもしずっとアリエーフを利用しようとしてたんだとしても、彼がアリエーフをずっと助けてくれたことに変わりはないのに。
 目じりに涙が浮かんだ。ぎゅっとカードを握り締める。
(関係ないよ。私は、シャリといて楽しかったんだもん……思いは本当だったんだもん)
 頬を熱いものが流れた。歯を食いしばる。
「……んだ」
 アリエーフは最後の力で唇を開いた。
「ん? 何だ? 聞こえぬ。末期の台詞があるなら聞いてやろう、何だ」
 少しだけ体が楽になる。アリエーフははっきりと、告げた。
「決めたんだ。私は、絶対に――
 私にはできる。
 アリエーフは強く思った。シャリは何て言った? 絶大な魔法の才能があると、そう――
「生きて、この大陸を出る」
 言い切った瞬間、アリエーフの魂から小さな光がこぼれた。それは体中に行き渡り、彼女に力を与える。体から青い光が立ち昇る。
(私には……力がある。シャリがそう言ったから、私は信じられる)
 アリエーフはうつむいたまま、立ち上がろうとした。崩れる。もう一度、立ち上がろうとする。さぁ唇を噛め。立ち上がれ。まだ舞台は終わってない。
 そして――立ち上がることができた。弱くなんてない。足手まといなんかじゃない。アリエーフは今、自分一人の足で立っていた。
 ディーヴァが狼狽したように声を上げる。
「何? くっ……小娘が!」
 ディーヴァがさらに突き出そうとした手が、煙を噴いてジュっと音をたてた。火傷でもしたように、狼狽した顔で彼は手を引っ込める。
 アリエーフは毅然と顔を上げ、ディーヴァの相貌を射抜いた。
「分からないの? 私は、あなたの娘なんだよ。魂だけになって、力も殺がれたあなたが私に勝てるはず、ない」
「何!? この状況で、才能を開花させたというのか……呪いの力にも屈せずに!?」 
 アリエーフは光る手を自分の胸にあてた。
「決めたもん。負けないよ」
 敢然と言い切って、手の平をディーヴァに向ける。
 アリエーフはふと、シャリに儚い視線を向けた。
 シャリは軽く目を細めた。
 一瞬、視線が交錯する――
「……いいであろう」
 ディーヴァが泰然とした声で、言う。
「我も本気で相手になってやろう。それでこそ我が娘」
「その前に、聞かせて」
 アリエーフは手を一旦下ろして、代わりに視線を叩き付けた。
「どうしても、私をこのまま行かせてくれる気はないんだね?」
「くどいわ。……我は、世界への怨嗟のみでよみがえった亡霊よ。世界を滅ぼしてくれるまでは、この憎しみも収まらぬ」
 アリエーフはうなだれた。
「分からないよ……分からない」
 ディーヴァは鼻で笑う。
「お主などに我が心が理解できるべくもない……不肖の娘よ、我の前にかしずくがよい。そしてその魂を、我に渡せ!」
 ディーヴァの体から闇が噴き出し、アリエーフに迫る。
 アリエーフはそれを腕に集めた魔力で払い、距離を取った。目を閉じる。冴え冴えとした世界がまぶたの裏に広がる。
(大地は水に帰る――
 アリエーフの周りに、氷の刃が舞った。指を振ると、一斉にディーヴァに向かって飛んで行く。彼はしかし、ニヤリと笑って、腕を一振りした。
 とたんに、激しく暗い風が巻き起こる。――氷の刃が、風にまかれてこっちに飛んでくる。アリエーフはとっさに横っ飛びになった。
「っ……!」
 地面に体を打ち付ける。柔らかいのであまり痛みはない――と思っている暇もなく、真正面から炎が飛んだ。
 アリエーフは転がるように逃れると、荒くなる息を抑えてさらに深く意識の根をのばす。
(神聖なるもの……断罪の光!)
 アリエーフは手の平を突き出した。光が手の中に収束し、一筋の線となってディーヴァの胸に向かう。
 と同時に、ディーヴァの方も手の平を突き出した。アリエーフに対抗するような、暗い光の筋がこちらに向かってのびる。精霊がせめぎ合い、アリエーフの額に汗がにじむ。ディーヴァの顔が優越感に笑んだ。
 ――『魔法の真髄は、集中にあるんだよ。そうすれば、精霊が耳を傾けてくれる』――
「負けないっ!」
 アリエーフの中に力が戻った。それは、宵闇に輝く一条の星に似ていた。それは彼女の中でしっかりと息づいていた。
 手の平が熱くなる。
 アリエーフは知らずに声を上げていた。ディーヴァの顔が引きつる。シャリが驚愕したように目を見開き――
 光が、視界を薙いだ。アリエーフはすでに立ち上がる力もなくし、膝をつく。
「はぁっ……はっ、ディーヴァは……」
 顔を上げると、彼は――父は薄れて行く自分の両手に、信じられないものを見るような目を向けていた。その堂々たる体躯も、青白い肌もアリエーフと同じ色の瞳も髪も、全てが精彩を失って、薄れて行く。
「馬鹿な……我が、娘に負けるというのか……我が」
 ディーヴァがアリエーフの方を見た。アリエーフもディーヴァを見た。
 それは最初で最後、親子として視線が交わった瞬間だったのかもしれない。
 ディーヴァはどこか、満足げな笑みを浮かべた。
「お主のために我は死んだ。それも、無駄ではなかっ――……」
 アリエーフは思わず手をのばす。
「ディーヴァ――おと――
 彼の姿は、蜃気楼のように……消える。アリエーフは手を下ろした。
 涙はもうこぼれない。泣くほどの絆などなかった。
 それでも、彼はアリエーフの、たった一人の父親だった。
「……アハハ、これでめでたしめでたしって訳?」
 シャリが地に降り立った。近づいてくる。
 アリエーフは緊張した面持ちでそれを見ていた。
 彼は、アリエーフの目の前で足を止めると、アルカイック・スマイルを浮かべた。
「でも、そうは行かないよ。アリエーフ」
「……もう、おと――ディーヴァはいない。破壊神なんて降ろせない」
 アリエーフは挑戦的に見上げて、言い放った。
 シャリが口元に手をあてて、無邪気な笑みを浮かべる。
「ねぇ、僕が君に魔法を教えたのは、何でだと思う?」
 アリエーフは困惑して顔をしかめた。
「何でって――それは、」
「気まぐれだとでも思った? 違うよ」
 シャリの手が迫ってくる。アリエーフはあえて動かなかった。
「王様が使えなくなった時の、スペアさ」
 顎を掴まれる。
 アリエーフは不意に胸の苦痛を感じて、その手を振り払った。
「何を言い出すの? 私に破壊神なんて――
「僕は、十五年前に君を封印から解き放った」
 シャリは淡々と語り始める。
「そしてディーヴァの魂も復活させた。それからは、君がディーヴァを憎むように仕向けてきた。君の育ての親を殺せと彼に命じたのも、僕だよ」
 アリエーフは言葉も返せないまま、聞いていた。
――シャリが? 私を?)
「そして旅をしながら、君に魔法を教えた。全ては、この時のためにね」
 彼は笑い声を上げた。どこか険のある声で。
「さっき、ディーヴァと君の戦いに手を出さなかったのはなぜだと思う?」
 シャリは笑いながら、宙に舞い上がって剣を手にした。
「君の方が、ウルグの肉体にふさわしいからだよ! アリエーフ、君が」
 剣の先を向けられる。アリエーフは尖ったその切っ先を見て、ようやく我に返った。
「だっ――て、私は……そんな、そんなの嫌!」
「君がいくら嫌がったって、もう準備は整ってる」
 シャリが指を鳴らすと、何かたくさんのものが宙に浮き上がった――
「それは……束縛の腕輪!?」
 アリエーフはそのうちの一つを指差して、呆然とつぶやく。
 シャリが蔑むように笑った。
「そう、君と旅する道すがら、ずっと集めてたんだよ――闇の神器をね。だからわざと、大陸を横断した」
「じゃあ、アレは嘘? ここから、他の大陸にって」
 アリエーフは、五――六個もあるそれらの神器を次々に見た。
「当たり前だよ」
「ずっと騙してたの」
「今さら気づいたの? さっきから、何度も言ってるのに」
 シャリがおかしそうに笑う。アリエーフはその顔を思いっきり睨んだ。
「私を……どうする気?」
「もちろん、礎になってもらうよ。滅びのための礎にね」
 アリエーフは苦悩に顔を歪めた。打開策がないかと思考をめぐらせる。
「……今、舌噛んで自殺してもいいんだよ?」
 シャリは全く動揺せずに、逆に笑みを深くした。――妖しい笑みを。
「やれば? どうせ無駄だけどね。次の候補を連れてくるだけだから」
「あなたを倒せば――
 シャリが笑みを消した。剣がギラリとした光を放つ。
「できる? 君に」
 アリエーフは無言で、手のひらを構えた。再び青い光が立ち昇る。そうしながらも、胸に何かがつっかえている。何かが。
 だからアリエーフは、何か言葉はないかと探した。最後の幕が降りる前に――
「……どうして世界を、滅ぼすなんて言うの?」
 シャリは少しだけ首を傾け、かすかな微笑を取り戻した。
「僕は、虚無の子。闇と虚無の狭間に滞った、叶えられなかった願い、ひしめく苦しみ……そういうものから生まれたんだ」
「ならどうして――
「この世界を虚無に帰す。そして、全ての悲しみを救う。それが僕の存在する意味。人々の悲しみが終わらない限り、僕は何度でも生まれる」
「悲しみを救う……? どうしてそうなるの?」
 シャリが馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「さっき、君は生と死の間に立っていた。どうだった? 死に触れた感想は。安らぎがなかったって言える?」
「……でも私は、戻って来たよ」
「君は、ね」
 彼は剣を引いた。アリエーフも手を下ろす。
「だけど、人は生きている限り悲しみを生み続ける。君だってそうでしょ?」
 アリエーフは何か反論しようとして――できない。
「全て消えてしまえば、悲しみも消える」
「それじゃ、楽しみも……消えちゃう」
「そうだね。でも、安らぎがある」
 アリエーフはシャリの顔を見上げていた。その虚ろな瞳を――微笑む顔を。
 シャリがおもむろに剣を構えた。
「そろそろ、問答の時間も終わりだね。決着を着けようか」
 アリエーフはゆっくりと、手を上げて――上げて、そのまま止めた。
(私は……だって、シャリがいたからここまで――!)
 胸が引き裂かれるような気がした。上げかけた手を頭にやって、何度も首を振る。
「あなたに生かされたのに……できないよ戦うなんて。できないよ!」
(もう、戻ってこないの? 楽しかった日々も、何も――だったら私はどうすればいいの? シャリと戦って――そして勝ったって、負けたって結局、待ってるのはシャリのいない世界――そんなもの、私は、)
 アリエーフは唇をかみ締めて、顔を上げた。シャリの冷静な視線とぶつかる。
「もし……この世界が滅びたら、」
(私、何を言ってるの……?)
「シャリは、幸せなの?」
 彼は目を丸くした。そして、無表情に口を開く。
「そうだって言ったら、どうする?」
 アリエーフはふらりと立ち上がった。どうしようもなく胸がいっぱいになって、涙がこぼれる。自分は今、許されないことをしようとしている――どう考えたって、許されないことを。彼女は思った。シャリのいない世界なんていらないと。
 彼女は涙も拭かずに、泣き笑いのような顔をした。そして言った。

「いいよ……私の体、使って」

 その瞬間、闇の神器が禍々しい光を発し、アリエーフの意識は闇に呑まれた。 


 



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