その剣に花束を


1 その剣に、花束を




 アリエーフは魂が体から無理やり引き剥がされるような感覚に、目を開けた。辺りを見回す。暗い。暗すぎる。何も見えない――何も聞こえない。
 アリエーフは立ち上がって、足元もおぼつかないまま歩き出した。
 歩けども歩けども、光は見えない。無明の闇――ここが死後の世界なのかと、アリエーフはぼんやり思う。
 ……死後の世界……? 死後の……
「そうだ、私は――シャリは!?」
 その瞬間、今度は世界に暴力的なほどの光が溢れた。眩しすぎて何も見えない。
 声が響いた。
『人間よ……』
「あなたは……」
 気がつくと、光の果てに小さな闇が見える。それは、じょじょにであるが光を侵食して、だんだんとこちらに向かって来ていた。声はそこから聞こえているように、アリエーフには思われた。
『我が名は破壊神ウルグ……お前の肉体を貰い受けよう……』
 アリエーフはその悪意に満ちた声に、我が身を抱き締めた。この声の主に体を渡すのかと思うと、吐き気がしてくる。
「あなたが……破壊神?」
『礼を言おう……人間。我は再び、現世に戻りて世界を無に帰すことができる……』
 アリエーフはゆるゆると首を振った。闇はこちらに迫ってくる。
「違う。私はシャリのために――
『虚無の子か……アレも哀れな存在よ』
「哀れって、どうして? だってシャリは――
 アリエーフはすぐに聞き返して、不安な予感に胸を押さえた。
 闇から、笑うような気配が返ってくる。
『幾つもの世界に現れては、世界と共に滅び行く人形……哀れでなくて、何だと言う?』
「……んだって……?」
 アリエーフは愕然となった。
(世界と共に……滅ぶ?)
「どういうこと? シャリは虚無に帰るんじゃ、――
『我が望みは、全てを闇に葬ること……当然、虚無の子であろうと我が爪を逃れることはできぬ……』
 アリエーフは、雷で全身を貫かれたような気がした。
「シャリを……殺す気?」
『殺すも何も、アレは虚ろな人形よ……我はアレを壊す。それで終いだ……』
 人形。壊す……?
 アリエーフの体の中に、炎が宿った。燃えるような視線で、迫り来る闇を睨む。
「そんなの、ダメだよ! 私は――シャリのために体を捧げたんだ!」
『お前が今さら何を言ったところで……変わらぬこと。お前には我を退けるだけの力がない……』
 耳をつんざくような哄笑が響き渡った。
 実際その通りだった。闇はどんどん光を侵食し、アリエーフの方に向かってくる。アリエーフは焦って眉をひそめ、爪を噛んだ。
『お前には、力がないのだ――
 追い討ちのような声。アリエーフはたまらず膝をついた。
(何もできないの――? そんなはずないよ……何か、きっと何かあるはず……)
 そんなの絶対にダメだ。シャリのために――考えろ。考えろ。
 しかし時間だけが経って行った。すでに闇はすぐ側まで迫っている。
 そしてアリエーフは、気づいた。たった一つだけ――方法があることに。
 信じられないものを発見した気持ちで、アリエーフはその考えを何度も確かめた。
(……こんな方法……でもこれしか――
 アリエーフは一度だけフッと息を吐いて、傲然と口の端を曲げた。強い目で、顔をさっと上げる。
「あの人は、殺させない! 私の、命に代えても……私の命が尽きようと!」
 闇が、アリエーフの体を包もうとする――アリエーフは目を閉じて一心に祈った。
(お願い、もう一度、一度だけ現世に――

 アリエーフが目を開くと、まだ次元の狭間にいた。体中が脈打っている。燃えるように熱い。それに地面が遠かった。周りで、闇の神器が守るように浮いている。
 下にシャリがいた。彼はアリエーフが目を開けると、驚いたような顔になった。
 アリエーフは口を開こうとし――体が動かないことに気づく。全身を縄で縛られているかのように、動かない。
(ダメだ――時間がない)
 思考がまとまらない。おかしな思考が割り込んで、すでにアリエーフの意識は半分も残っていないのではないかと思われた。
(何をする気だ――? お前にできることなど、ありはしないと言うのに――うるさい! 離して――
 アリエーフは汗が滴り落ちるのにも構わず、必死に腕を動かそうとした。自分の腕なのに、まるで熊と格闘しているような汗が流れた。
――い」
 アリエーフは、この願いが叶うなら死んでもいいと思った。意識の死は甘美だ。それが――
(黙れ!)
 破壊神の思考を何とか押しのけて、腕を腰に這わせる。ズズ……ズ……と少しずつ、上に移動させて――お前は無力だ、何の力もありはしな――指の先が、冷たい感触に触れる。
「馬鹿な!? そんなことをして、何になる――
 口が勝手に動いた。
 アリエーフが掴んだのは、いつかシャリにもらった短剣だった。




 無力なんかじゃないよ――恋する女の子は、人の何倍だって強くなれるんだから。
 アリエーフは微笑んだ。鞘から引き抜いて、今度はそれを胸の前に持って行こうとする。
(完全に降臨する前に、肉体が滅んだら……シャリを殺したリできないでしょ? 愚かな――
 死が怖くないと言えば、嘘になった。それでもアリエーフは、何かに憑かれたように自分の胸元へ剣を引き寄せる。胸のちょうど手前まで引き寄せた時、一層抵抗が激しくなった。腕が痙攣するように震える。最後の力を振り絞ろうとするが、動かない。
 そうしている間にも、意識が呑まれて行く。もうほとんどまともな思考はできなくなっていた。ただ、剣を自分の胸に――その思いしか頭にない。
「お……っ願い――どうか……誰でもいい、私に力を――!!」
 汗だけでなく、涙までこみ上げる。アリエーフは歯を食いしばって――


 その日、遠い空の下で、命を救われたダルケニスが空を仰いだ。
 その日、永劫の闇に包まれて、一人の父親が娘を祝福した。
 その日、妻を失い、嘆いた末に町へ戻った老人が、彼女らの未来に思いを馳せた。
 その日、遠い三人の旅人が、焚き火を囲みながら彼女の名前を口にした。

 そしてその日、一組の夫婦が、食事の手を止めて不意に涙を流した。


 ――食いしばって、微笑んだ。なんだ。一人じゃないじゃん。

「ごめんね」

 すると不思議なことに、アリエーフの腕はすとんと動いた。痛みはなかった。やりとげた――という思いだけが胸にあった。
 闇の神器が力を失い、虚しい音をたてて落ちる。闇は去った。
 アリエーフも、薄れ行く意識の中、自分が落ちて行くのを感じた。だが痛みはいつまでたってもやってこない――目を開けると、シャリの顔があった。抱きとめてくれたらしい。
 アリエーフは、笑った。少なくともそのつもりになったが、意識が朦朧として、よく分からない。
 
 ……誰も、私を大事になんて思ってくれなかった。ひどいことばかりされて。
 皆が皆、そんな人ばかりだと思ってた。でも、結局、全ては信じてみないと始まらないんだね。あなたと旅して、初めて知った。
 だからこれは私の答え。
 今なら信じられる……愛を。

 ね、ありがとう。シャリ。楽しかったよ。……ごめんね、あんまり役に立てなくて。

 アリエーフは、言葉の代わりに微笑みだけを残して、目を閉じた。



■□■□■□■□



「アリエーフ」
 シャリは何の表情も浮かべずに、彼女の名を呼んだ。
 しかし、彼女の魂はすでにここにない。
 彼は座ったまま彼女の体を抱きかかえて、目を閉じた。
「見事だよアリエーフ……だけど君は、愚かだ」
 彼は彼女の涙をぬぐい、胸に刺さったナイフを引き抜いた。
 彼女の横顔は満足そうだった。
 シャリはそれだけ確認すると、彼女の体を抱えて、とある村に転移する。
 彼女の体をそっと横たえて、彼は姿を消した。永遠に。







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 ※こちらの背景画像は、
NANOMEMOの珠越さまよりいただきました。謝々!