1-2 序章
……理由なんてなかった。流されるままに生きてきて、気がついたら、ここに……この場所にいた。
さわさわと、水の流れる音が側に聞こえる。
(水……ダメだ、水のある場所にいたら)
もがきながら浮上するような感覚と共に、アリエーフの視界が開けた。強い太陽の光に目が焼かれ、一瞬、猛烈な吐き気が襲う。
アリエーフは首を振ってそれをやり過ごすと、慌てて身を起こして、左右を見渡した。
「ここ……どこ?」
森の中……川原らしい。強い陽射しの下で、鳥達のさえずりがこだまする。傍らには川が流れており、光を反射してきらきら輝いていた。
「やっとお目覚め? 君、三日も眠ってたんだよ」
突然降ってきた声に、アリエーフは身を硬くした。
(敵――!? そうだよ、暗殺が失敗したんだから、王国の追っ手が来たっておかしくない)
緊張に息を呑むが、木の上から地面に降り立ったのは、少年だった。
「あなた、誰!?」
鋭く誰何の声を上げて、アリエーフは気づいた。あの少年は、意識を失う少し前に突然現れた――
「僕の名前は、シャリ」
長い黒髪の少年は、帽子を取って礼をした。
「君を助ける魔導師。……とでも思ってくれていいよ」
アリエーフは厚かましい言葉に眉をひそめそうになり、はたと気づいた。あの場から連れ出してくれたことを、「助けた」と言っているのか。
アリエーフは差し出された手を無視して立ち上がった。
(うさんくさいったらないよ……あの状況で、どうやって助けてくれたのかも分からないし。それに、絶対下心があるに決まってる)
せいぜい、アリエーフと同い年程度にしか見えない。細い体と、底の知れない瞳。身を包むのは、闇を象徴するような黒い衣服。そしてドキっとするほど秀麗な面差しをしていたので、アリエーフは少したじろいだ。
だがすぐに目を離すと、エプロンの裾から埃を払って、ため息をつく。
(あれから三日が経ったって? 組織に戻らないと、追っ手が来る)
「助けてくれてありがとね。じゃ」
そう言って、すたすたと立ち去ろうとし――、けつまずいて川に落ちた。
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アリエーフはじっと押し黙って、ドレスの裾を掴むときゅっと絞った。大量の水が地面にこぼれて、水溜りを作る。
「ねえ、」
川に飛び込んでまでアリエーフを助けてくれた少年が、半眼で見てくる。
アリエーフはちらりとそちらに目を向けて、たっぷりと水を含んだ髪を払うと、口を開いた。
「礼は、言わないからね……」
「別に、いらないけどさ」
シャリ……とか名乗った少年もやはり、髪から水滴を滴らせているが、不快ではないのか静かに座って、こちらに視線を投げるのみである。
「ね、一人で大丈夫? 良かったらさ、」
「黙ってよ」
アリエーフは強く彼を睨みつけると、詰め寄った。
「さっきから、いったい何を期待して私に近づいてくるの? やめて。こないで。構わないで。いい? 私は、他人なんて信じない。無償の愛なんて、もっと信じない!」
「そりゃ、いいけど――」
「じゃ、これで」
アリエーフは体に布がまとわりつく不快感をこらえ、靴を脱いで歩き出し――、何かにつまずいて、泥水とキスした。
顔全体にべっとりとした感触が張り付く。
重い沈黙が横たわった。
「……ねぇ、君ってさ、もしかして」
「言わないで」
「間抜け?」
「違うよ!」
アリエーフはすぐさま顔を上げると、顔の泥をこそぎ落とした。
「あ、こすると……」
「にぎゃー!!」
目をやすりで削られるような痛みに悶絶して、アリエーフは川に顔を突っ込んだ。何度か目を瞬いて、……
「イタッ! いたた、痛いってば!」
突然鼻を襲う痛みに水から顔を上げると、鼻先に魚が噛みついていた。
「……ねぇ、やっぱり君ってさ、」
「運が悪いだけ!」
アリエーフは魚をひっぺがすと、ひりひりと痛む鼻先を撫でながら振り返った。少年の服はいつの間にか乾いている。
「昔っからね、運が悪いの! そのせいで、私の人生メチャクチャだよ。分かる? 別に、間抜けとかそういう、」
「それで、反王国組織に?」
思いのほか鋭く切り返されて、アリエーフは少し戸惑った。
(落ち着きすぎてるね……やっぱり、心を許すべきじゃない)
「何の話?」
「今さら、すっとぼけないでよ。それに、君は僕に聞きたいことがたくさんあるんじゃない?」
いたずらっぽく言われて、少し目を伏せる。
(疑問がないわけないよ。……でも、さっさと逃げないと、追っ手が)
「ねぇ、君は、これからどうするつもり?」
首を傾げたシャリが言う。
「組織に戻るよ」
適当に答えて、アリエーフは黒いドレスの裾を結んだ。森を歩くには邪魔だ。
「ねえ、」
気がつくと、目の前にシャリの顔があった。
アリエーフはわずかに顔を赤くして身を引き、――
「僕もついて行っていい?」
「ダメ。絶対にダメ」
即答して腕組みすると、シャリはつまらなそうに頭の後ろで手を組んだ。
「ひどいねー。せっかく助けてあげたのに。どうして?」
「だって、――危ない!」
アリエーフは少年を突き飛ばして、自分も脇に身を投げた。額を石に打ちつけたが構っていられない。起き上がって確認すると、さっきまで立っていたところに数本のナイフが刺さっている。
ぞっと怖気が背筋を這った。
(訓練、まじめにやっておいて良かった)
気を取り直して、眉をつり上げる。
「誰!? 奇襲は失敗したんだよ、姿を見せな!」
叫ぶと、小さな舌打ちと共に、木々の間から三人の男女が現れた。
「アリエーフ……この厄介者め」
「我々は、貴様の暗殺を仰せつかった」
「なぜ、自害しないのよ。任務の失敗者には死あるのみと、教えられなかったの?」
アリエーフは信じられない思いで立ち上がると、その面々を見渡した。
覆面姿の三人組。うち一人の声には、聞き覚えがあった。
「レオン……? レオンだね……じゃあ、これは、組織の総意……?」
「当たり前でしょう?」
右端に立つ女が、一歩前に進み出た。艶やかな肢体と、豊かなハニー・ブロンド。知り合いではないが、顔は見たことある。アリエーフが属する組織の、優秀な始末屋だった。
「総帥は、お前を殺せとおっしゃったわ。失敗した暗殺者に利用価値なんてないの。さあ、素直に死ぬか、それとも私たちに殺されるか、選びなさい」
「レオン……」
助けを求めるように、灰色の髪をした男――レオンに目を向けるが、彼は目を背けるだけだ。
アリエーフは彼の瞳に軽蔑の色を見て取って、唇をかみ締めた。
(信じたのが間違いだった。少しでも、気を許したのが……そうだ。どんなところにいたって、愛なんてものは存在しない)
だが、やられるわけには行かない。
「簡単に差し出すわけに行かないよ。この命……今だって、これからだって!」
アリエーフは身を低く落として呼吸を整えるが、三人は鼻で笑った。
「じゃあ、死ね!」
三人が一斉に迫る。アリエーフは身を硬くして、
「はーい、ちょっとタンマ!」
三人とアリエーフの間に割り込むように、突然シャリが現れた。
(何!? 今の、動きすら見えなかった……)
「あなた……」
思わずつぶやくと、シャリはアリエーフの方を肩越しに振り向いて、少し笑った。
「ね、やっぱ、君一人じゃ難しいと思わない? 今ならシャリ君の詰め合わせ、お買い得だよ」
「いらないよ!」
「あ、そんなこと言っちゃうんだ。へー……ま、助けないわけにも行かないんだけどさ」
少年は愚痴るように言って、何か術を唱え出した。その瞬間、――静かな森に爆音が響き渡り、視界が真っ赤に染まった。鳥たちが一斉に飛び立ち、熱風がちりちりと肌を焼く。
「クッ、何だこの力は……」
女の声――
炎がおさまると、二つの人影が転がりまわって火を消していた。紅一点は一人離れたところにいたのか無事だが、軽く前髪が焦げている。
アリエーフは喉を押さえて、せき込んだ。
(ちょっと、何――!? 何が起きたの!?)
「……やり過ぎちゃった? まぁいいか。君、大丈夫?」
シャリに手を差しのべられ、しかしアリエーフは首を横に振って、にじむ涙をぬぐった。
「……いったい、何者!? あんなすごい魔法が使えるなんて」
「お気に召しましたか? お姫様」
「ふざけないで……あの時私を助けてくれたのも、その力?」
少年は肩をすくめた。
「そうかもね。そうじゃないかも知れない」
「答える気がないなら、私に近づかないで! いい? 最後に一度だけ聞いてあげる! 何者?」
強くねめつけると、彼はとぼけるように肩をすくめた。
「君の、味方かな」
アリエーフははさらに、詰め寄ろうと口を開きかけ――、
ふと我に返って辺りを見回した。そういえば、あの三人はどうしただろう? ……すでに姿がない。逃げたらしい。
それを確認したアリエーフは、細く息を吐くと座り込んで膝を抱えた。
少年……シャリが勝手に隣にきて腰を下ろす。
アリエーフはそれを横目にしつつ、特に反応しなかった。
もう全てがどうでもいい。今はもう、この怪しい少年の正体にも興味がない。そんなことよりも重要なのは……
「……これで、帰る場所もなくなっちゃった」
「……隣の大陸に逃げるってのはどう?」
喜々とした声にそちらを向くと、シャリが素晴らしい提案をするような顔で指を一つ立てていた。
「そこまで逃げたら、誰も追いかけてこないと思うよ」
アリエーフはあいまいに微笑んだ。
「……シャリさん、だったっけ。ねぇ、愛って何かな。あなたは、誰かを愛したりする?」
「愛?」
シャリは何がおかしいのか、口元に手をあてて笑った。
「愛、ね……君のことは愛しいよ」
「からかわないでよ。愛なんて存在しないって分かってる。ああ、馬鹿みたいなこと聞いちゃった……忘れて」
アリエーフは立ち上がると、きびきびと靴を履き、煤を払った。
「ねえ、やっぱり、僕もついて行ってあげるよ」
「いらないってば」
「これをあげるって言っても?」
目の前に何かを突きつけられて、アリエーフは半歩後ずさりした。
「な、何?」
手に取ってみると、短剣だった。上等のなめし皮で鞘が作られていて、抜いてみると軽く、切れ味も良さそうだった。
胡乱気に持ち主を見る。
「……私に? どうして」
「君が、自分で自分の身を守れるように。そう願うのは無駄じゃない。愛も同じことだと思うよ? ねえ?」
アリエーフは剣を鞘に収めて、クスクス笑う少年を凝視した。
「だいたい、組織にも国にも追われてる今、君一人で、落ち延びられるとは思えないけど」
「それは……」
「協力者は多い方がいいだろう? 少しくらい、胡散臭くてもさ」
シャリはおかしそうに笑った。
アリエーフは少し眉根を寄せる。
「だけど、」
「僕、隣の大陸まで行く方法を知ってるよ。って言ってもダメ?」
「どういうこと?」
「大陸の南から、ある孤島に行く船が出てる。その孤島を根城にする海賊が、隣の大陸まで船を出してくれるんだってさ。案内してあげるよ。タダで」
アリエーフは慎重にじろじろと少年魔導師を見て、もう一つ聞いた。
「何で、そこまでして私について来たいって、言うの?」
「助けたついで、とでも言っておこうかな」
アリエーフは納得し切れないものを感じたが、渋々頷いた。
「……分かった。これをもらう代わりに、あなたの同行を認めてあげる」
そう言って、彼女は自分の髪に短剣の刃をあてると、思い切って肩で切り落とした。はらはらと黄金色の髪が舞う。
「私の名前は、アリエーフ・イーリア。けど今日からは、ただの……アリエーフ」
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