2-2 公爵様
……
……寝苦しい。
アリエーフは、もう五回目になる寝返りを打った(ちなみに三回ほどベッドから落ちた)。
ベッドは上等。体だって疲れてる。なのに、眠れない。
(私って、これからどうなるんだろ……こんなところで寝てて、いいのかな。早く逃げないと、追っ手が……)
アリエーフは、思わず呻いて半身を起こした。額を伝う汗をぬぐい、何かにほっとため息をつく。浅い眠りの中で、ひどい夢を見たような気がした。
「水……」
ふらふらと起き上がって部屋を出ると、アリエーフは台所まで降りて行って水を飲み、再び二階の廊下に戻ってきた。夢うつつのまま、扉を開けて中に入る。そのままベッドに倒れ込もうとして、アリエーフは気づいた。
「……あれ、ここってシャリの部屋じゃん……何で誰もいないの?」
誰もいないどころか、シーツすら乱れていない。まるで最初っから誰もいなかったかのようだ。
「まさか、逃げたとか?」
自分で言って自分で笑い、アリエーフは少し不安になった。立ち上がって廊下に出ると、辺りを見回す。シャリの名を呼んでみるが、返事は返らなかった。
アリエーフはおぼつかない足取りで廊下をひたひたと歩いて行った。と、
「そっか……辛かったんだね。君の望みを叶えてあげる」
「シャリ?」
不安気に名前を呼ぶと、彼は振り返って、少し目を丸くした。
「おや、アリエーフ。どうしたの? 夜更かしは美容に悪いよ」
「美容なんてどうでもいいよ。それより、誰と話してたの?」
何となく剣呑な調子に面食らって尋ねると、シャリは何を思ったのか額に手をあてて、自嘲気味な笑みをもらした。
「ゴメンね、アリエーフ。君は好きだけど、僕にできることは限られている……」
わずかな諦念のにじむ声で、シャリはそう言った。そしてアリエーフが何も言えないでいるうちに、腕を広げて、奥を示した。
「こちら、あのダルケニス……レオナルドのお母様」
何を言っているのかと示された方を見遣り、――青白く輝く女性の姿を見て、アリエーフは大きく仰け反った。
「わわわ!? お、おおおお、お化け!?」
「しーっ、静かに。死者の眠りを妨げるものじゃない」
シャリにたしなめられて、アリエーフは自分の口を手で塞ぐと何度も頷いた。とはいえ汗が噴き出し、心臓が胸を突き破りそうだ。
シャリはしょうがないな、とでも言うようにアリエーフの方に手をのばして、――
腕を引っ張られたアリエーフはたたらを踏んで、青白い女性の前に引き出された。
(ごごご、ごめんなさい! 正直悲鳴を上げないようにするのが精一杯でとても視線を合わせるなんてことは……!!)
「いいのです……わたくしの姿形など、どうでも」
ほっそりとした女性は、涼しげな声でそう言った。
アリエーフは思っていたよりも理性的な声に、初めて女性とまともに視線を交える。……嘘かと思うほどに、美しい女性だった。銀髪は波打つ絹糸のようにしか見えず、真っ赤なドレスが瞳の赤によく映える。
「わたくしの懸念は、ただ一つ……レオナルドのことのみです」
彼女の声は、憂いを含んでいる。
「ああ、何て恐ろしい女……恐ろしい男……御覧なさい! 破滅の灯火は、今にもこの城まで燃え広がり、何もかもを焼き尽くしてしまうでしょう。このわたくしを焼いた、地獄の業火のように」
アリエーフは息を呑んで、「どういうこと!?」と声を張り上げた。
シャリがそれに答えるように、アリエーフの手を取って、窓際へ――
「あれは!」
村の方から、幾つもの明かりがこちらに向かって揺らめいている。
一緒に窓際に立ったシャリの瞳に炎が映り、揺らいだ。
「村の連中だよ。大方、誰かが扇動したんだろうね」
こんな時でも落ち着いているシャリの声に、アリエーフは焦って返した。
「落ち着いてる場合じゃないよ。早く逃げないと……」
「お願いです! わたくしのかわいいレオナルドを、どうぞこの地獄から救い出してくださいまし……ああ、お願いします、どうか……」
振り向くと、母親の亡霊がちょうど消えるところだった。力を使い果たしたのだろうか。
アリエーフはそれを確認するや否や、力強く頷いた。
「私、逃げるからね。隠し通路があるんだし、レオナルドは自分でどうにかするでしょ」
アリエーフは淡々と述べて、踵を返そうとし、――コケた。鼻を強く打ったのか、痛みが突き上げてくる。悶絶しつつ目線を上げると、呆れたような顔のシャリと目が合った。
「あーあ、悪いことするから、罰が当たったんだよ」
「悪いことなんか、してないよ!」
「レオナルド、見捨てようとしたし」
「見捨てて何が悪いの? 別に、何の義理もないじゃん」
シャリはもう、この世の終わりと言う顔でこめかみに手をあてて、大きくため息をついた。
「君のそういう男前なところ、大好きだけどさ。でもそういう頑固なところはホント手に負えないよ」
「男前!?」
「あー、抗議は後で聞くよ。今はさ、ほら」
シャリに手を取られる。
アリエーフは自分にできる限り嫌そうな顔を作って、それをねめつけた。
「レオナルドを助けないと。ね?」
「嫌、嫌だって、ちょ、引っ張らないでよっ、きゃー!?」
「にわかには、」
レオナルドは夜着のまま、眉間に皺を寄せた。
「信じられませんねー」
恋人の……ロゼッタは、もう村に帰ったらしくいなかった。天蓋つきのベッドがある寝室にいたのは、レオナルドただ一人である(ロゼッタと一緒でも困るが)。
アリエーフは途中でコケまくったせいで、ボロボロになった自分の服を見下ろしつつ「これで嘘に見える……?」とつぶやくが、誰一人として反応してくれない。
「村の人たちが、なんて。だってロゼッタが抑えておいてくれるハズですしー」
「仕方ないじゃん……来てるもんは来てるんだから」
アリエーフが渋々口を開くと、レオナルドは「うーん」と唸ったきり黙ってしまった。
(知るか。財布のためにもとっとと決断してよね)
静観していたシャリが、静かに口を開く。
「いちおう、避難しておこうよ。そうしたら、いずれにせよ安全だし。間違いかどうかは、それで分かるでしょ?」
「そうですねー。じゃ、隠し通路の入り口を開けましょうか」
レオナルドがにっこり笑う。
(……何なの、この待遇の差は)
内心で絶対零度の風に耐えていると、シャリが温かな微笑みでもってアリエーフに向き直った。
「次コケたら、置いて行くからそのつもりでね」
「……鬼」
ぼそりとつぶやいた心の叫びは、きれいに無視された。
隠し通路はじめじめした地下道で、アリエーフは出口が見えてくるまでに、泥だらけになっていた。さっきから、シャリもレオナルドも異臭がすると言ってアリエーフに近寄って来ない。
(シャリめ……後で見てろ、絶対に復讐してやる……)
内心硬く決意していると、レオナルドが嬉しそうに声を上げた。
「あ、そろそろ出口ですよー」
もはや走る元気もなく、アリエーフは最後尾をついて行く。歩くたびに靴が泥に沈み込んで最高に気持ちが悪い。
レオナルドは先頭で、石造りの階段を蹴って地上への扉を開ける。夜が明けたのか、(結局一睡もできなかった……)目を焼く暴力的な光が差し込んだ。しかし、なぜかレオナルドはそのまま硬直して動かない。静かに階段の脇で待っていたシャリも、何かに気づいたかのように顔を上げた。
「どうしたの、レオナルドさん――」
アリエーフはレオナルドの背を押して外の様子を覗き込む。すると、
「あなたたち……」
アリエーフは息を呑んで、レオナルドの背に隠れた。
朝日を背に立っているのは、数人の武装した村人だった。そして、先頭には村長と、そして――ロゼッタが立っている。
「ロゼッタ……これはいったい、どういう……? この隠し通路のことは、僕と君しか知らなかったはずです」
レオナルドが愕然と言葉を口に乗せる。ロゼッタが何か言おうと前に進み出たが、村長に押し留められて無念そうに口をつぐんだ。
「邪悪なダルケニスめ……よくも、わしの孫をたぶらかしてくれたな」
村長が村の連中に向かって合図すると、彼等は一斉に武器を構えた。どの面々の額にも汗が浮いているが、腰は引けていない。
「待って! お爺様、私に殺させてくれる、約束です」
「何だって……ロゼッタ」
レオナルドは青白い顔をさらに青くして、よろめいた。
ロゼッタは祖父から短剣を受け取ると、おぼつかない手つきで鞘から抜いた。手つきこそおぼつかないが、表情は悲壮感に溢れ、真剣そのものである。
「ある方にお話をうかがって、私、気づいたんです。あなたが、……ダルケニスが、この世に存在していてはいけないのだということに」
「何を……言って、」
「聞いて、レオナルド。あなたのことは、愛しているわ。本当に……お爺様、何も言わないで! ……だけどレオナルド、ダルケニスとは、悲しい存在ね。……あなたを愛してしまった、私が悪いのです。さぁ、レオナルド!」
一声叫ぶなり、ロゼッタはナイフを構えて、突進してきた。
アリエーフは巻き添えを食ってはたまらないと慌てて脇に飛びのくが、レオナルドは呆然と立ちすくむばかりで、動こうともしない。
アリエーフは叫んだ。
「レオナルド!」
次の瞬間、気がつくとロゼッタの動きは止まっていた。いや、止められていた。忽然と現れたシャリに腕を掴まれて。
「離して、ください……」
「離したら、レオナルドを殺すでしょ?」
シャリは、周りが凍りつく中悠然と笑み、ロゼッタが首肯するのを見ると満足そうに頷いた。
「じゃ、だーめ。アリエーフ、レオぽん連れて逃げて」
アリエーフは一も二もなく首を縦に振って、呆けているレオナルドの手を引っつかむと駆け出した。後ろから数人の村人が追いかけてくる気配があったが、
「お兄さんたち、僕と遊んでよ……」
シャリの声と共に、その気配も消える。アリエーフは全速力で走った。
背後から、胸を突く悲しげな声が、いつまでも追いかけてきていた。
「――ナルド、レオナルドぉっ!」
アリエーフは森まで駆けてくると、ようやく立ち止まった。胸が潰れるように痛む。息が喉を焼くようだ。
傍らで自失しているレオナルドを見ると、彼はへたり込んでしまった。
「……ロゼッタ」
――しばらくして、城から火の手が上がった。ごうごうと燃え盛る炎を赤い瞳に映し、彼は何を思うのだろう。
首を横に振って、アリエーフはシャリの姿を探した。
「アリエーフ、無事?」
と、タイミングよく声を掛けられる。シャリが木立の間から姿を現した。見たところ、服すら汚れていない。ただ顔は幾分か沈んで見えた。
アリエーフは頷いて、少し目を細めると、燃え盛る城に視線を移した。
誰へのものとも知れぬ怒りが、胸に沸き上がる。沸騰寸前の臓腑をもてあまし、アリエーフは歯噛みした。
(こんな風になるくらいだったら、恋人なんて作らない方がいい。他人なんて、信用するからこうなるんだ。どうして皆、そんなことも分からないの?)
レオナルドが、か細い声で言った。
「ロゼッタ、どうして……」
アリエーフは身を乗り出した。
「まだ、分からないの?」
二人の視線が集まる。アリエーフは叫んだ。
「愛なんて、信じるからこうなる!」
いくら叫んでも、彼の母親が地獄の業火と呼んだその炎は、留まることを知らぬかのように燃え盛っていた。いつまでも……まさしく永遠に、彼の思いの中で。
アリエーフはその後、一人散歩に出た。ずっと寝ていないのに、眠れない。あんなことがあった後では。
朝の森は静けさと、命の喜びに溢れていた。それが彼の、――レオナルドの救いとなればいいが。
彼は、炎がまだ消えないうちに姿を消した。アリエーフとシャリがどんなに止めても無駄だった(もっとも、アリエーフはほとんど見ているだけだったが)。村からの追っ手はない。だから、どうなったのかは分からない。知りたいともアリエーフには思えなかった。……
アリエーフは見覚えのある人影に、足を止めた。体が勝手に緊張する。
「――あなたは、」
「ディーヴァだ、我が娘よ」
くすんだ金髪、青い瞳、灰色の肌――、あの日、王宮でアリエーフの人生を滅茶苦茶にした、あの男だった。
彼は低い笑い声をもらすと、額に手をやった。
「見物であっただろう? あの二人の道化は」
「二人って……まさか、あなた、」
「そう!」
ディーヴァは傲然と笑うと、大きく手を広げた。
「あのダルケニスと、人間の娘を破滅に追い込んだのは我よ!」
アリエーフは思わず絶句した。
するとディーヴァは嘲笑を口の端に乗せ、アリエーフを見下ろす。
「娘にダルケニスが邪悪な種族であると吹き込むのは容易きことであった……そしたらどうだ、人間とは浅はかな生き物よのう」
アリエーフは無言でその言葉を聞いていた。
「だがお主と、我は違う。我は、神より強大な魔力を与えられし七王が一人、ディーヴァなれば、その娘であるお主にも強大な魔力があろうぞ。我と共に来い」
「嫌だ。私は、アンタの娘なんかじゃない」
アリエーフは半ば反射的に否定して、後ずさりしていた。
ディーヴァは大きく口を開けて笑う。
「否、否と申すか。さすればそれも良かろう……しかし、汝の偉大なソウルと体は我が物だ。そのためにお主を作ったのだからな」
「違う! 嘘つきっ……! 七王はとっくに死んだ! 今はもう、子孫が残ってるばかりなんだから!」
「虚言など吐いておらぬわ。頑迷な者よの。我はある方の尽力によってよみがえった。お主も同じこと」
アリエーフは大きく目を見開いた。
「何……私が、あなたと同じ? 亡霊だって、そう言いたいの!?」
「分かっておるではないか。我は亡霊よ。よみがえりし亡霊、ディーヴァ……しかしお主は違う。お主には若々しい体と、血とソウルがある。お主は我のための器よ……」
「やめて!」
アリエーフは思わず、耳を塞いだ。
この男の声を聞いていると、頭がおかしくなる……
「さぁ、我が娘よ、我と共に来い!」
「それは、困るなぁ」
声と共に、小さな光が薙いで、黒衣の少年――シャリが現れた。思わず、すがるように彼を見ると、彼は全てをあざ笑うように微笑んだ。
「ディーヴァか。厄介なのが出てきたね。でも、アリエーフは渡せない。別件で使うから」
「フン、邪魔が入ったか……」
ディーヴァは忌々しそうに舌打ちして、あっさり引き下がった。……シャリの実力を知っているのかも知れない。
「娘よ……我を、父を憎め。心の底から、な……」
耳障りな哄笑と共に、ディーヴァは姿を消した。
再び朝の森が、世界に戻ってくる。アリエーフはどっと疲れて、ぺたんと腰を下ろした。
「びっくりした……何なの、あれは。本当に本当の、七王ディーヴァ?」
「そうだよ」
シャリがゆっくりと近づいて来た。見下ろされる。……
「彼は、かつて地上の混乱を終わらせるために神が遣わした、七人の王のうち、一人」
「私の知ってる伝承では、」
「こうでしょ。ディーヴァは、同じ七王のシャロームと共に他の王を裏切った」
アリエーフはうなだれた。
「それがどうして、私の父親だなんて言うの……? シャリ、あなたは何を知ってるの?」
シャリはゆっくりと言う。
「彼は、君を陥れようとしているんだよ。今回の一件だって、一歩間違ったら君まで巻き込まれてた」
「だけど、じゃあ、あの人は私の父親なのに、私を殺そうと?」
「殺す、とは違うね。ただ、君の体が欲しいんだよ。復活のために必要だから」
「……あなた、は?」
「僕は、訳あって彼とは敵対してる。安心していいよ」
アリエーフは見定めるようにシャリの暗い瞳を覗きこんだが、そこから見えるものは何一つとしてなかった。
首を横に振る。何もかも信じられなかった。だが、ああまで執拗に父親を名乗るのであれば、もしかしたら……
「ねぇ、」
シャリに顔を覗き込まれ、アリエーフは鼻白んだ。
「こういう時に何て言うか、知ってる?」
「知らない」
シャリはなぜかクスクス笑った。
「アリエーフって、本当に何も知らないんだね。知ってるのは、人を拒絶することくらい?」
アリエーフはうつむいた。
「だって、それだけが私の全てだったんだもの。他には何も知らないんだよ、何も」
けれどそれでも、旅は続く。
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