3 くものいと
アリエーフは走っていた。そりゃもう、必死に走っていた。筋肉がねじ切れるほど走っていた。
しかし無情にも、彼女の目前で船が水の上を滑り、出航して行く。
アリエーフはがっくりと膝をついた。
神聖王国領内の、港町である。旅を始めてから、すでに一週間が経過していた。
石畳で固められた港。人通りが多く、今も数隻の船が停船していた。潮の匂いが立ち込め、人いきれと相まってむっとした熱気が漂っている。
シャリがあっけらかんとした顔で現れ、アリエーフの隣に立った。
「シャリが、くだらない話を始めるからだよ!」
アリエーフは地団太を踏んで、連れの少年をねめつける。
シャリは心外そうに眉を寄せ、「くだらないって、」と抗弁するように口を開くが、アリエーフは聞く耳持たずに腕を組んで、そっぽを向いた。
「やれ、魔法を覚えろだの、もっと強くなれだの……余計なお世話だよ、他人の癖に」
シャリはあからさまにカチンと来たように目を細めて、薄笑いを浮かべた。
「へぇ? アリエーフにとって、他人じゃない関係の奴なんていたっけ?」
「いるよ。敵とか、味方とかね。シャリは他人だよ。どっちか分からないから」
「でも、敵は味方になったり、味方は敵になったりはするでしょ? そんなにころころ変わるのが、ホントの関係って言えるのかなぁ」
「何が言いたいの?」
「別に」
「言いなよ」
「やだ」
「ひねくれ者」
「ケチ」
だんだんと低レベルになって行く口喧嘩に嫌気が差して、アリエーフはそれ以上言い返さなかった。
するとシャリが、小首を傾げて「それにしても、」と口を開ける。
「どうしようか? さっきも話したけど、あの島に行くには、ここで海を突っ切っちゃった方が早いんだよね。そうそう、悠長にしていられないんだし、方法は限られてくるよ」
アリエーフはまだ苛立たしげにシャリを見た。が、あまりにもあっけらかんとしているので、かえって気勢を殺がれ、息をつく。
「……例えば、どんな方法があるの? もう次の船は、一週間先にならないと出ないんだよ?」
「いい? アリエーフ。僕たちが行こうとしてるのは、」
シャリはどこからともなく地図を広げて、指し示した。
アリエーフは記憶をたどりながら、大陸の南西部を指差す。
「大陸の南西にある漁村でしょ? で、今いるのが……」
「東の港。ほとんど大陸を横断することになるね」
アリエーフは顎に手をやって、眉をひそめた。
「確か、最短の道を行っても、後一、ニ週間はかかるんだったっけ」
「ま、ここで船に乗れれば、後はいくつかの町を通って、ちょっと寄り道するだけですぐに着いちゃうんだけどね」
「……シャリ、その言い草だと、着いて欲しくないみたいだよ」
「そんなことないよ」
シャリは地図をたたむと、明るく笑った。
「つまり、そのためにも、戦力の強化は必須ってわけさ。いつまでも、僕が側にいるとは限らないんだから……それに、」
シャリは少し目を伏せた。そうすると、笑みが妖しいものに見えてくるから不思議だ。
「君には絶大な魔法の才能があるよ。きっとね」
「あの……もし」
妙に甲高い声に話を中断して振り返ってみると、目深にローブをかぶった人影が立っていた。
アリエーフは胡散臭げに人影を見て、険しい雰囲気もあからさまに「何か?」と尋ねる。
(こういう手合いに、ロクなのはいない)
ローブの……女? は小さく息を呑むように身を引き、布を口元に引き寄せた。
「さっき、あなたが走って船を追いかけるのを見たものですから……わたくし、自分の船を持っておりますの。良ければ、ついでに送って差し上げますけど――」
「結構です」
アリエーフはにべもなく断って、犬でも追い払うように手を振った。
隣でシャリが嘆息する。
「せっかく、そう言ってくれてるんだから、ちょっとくらい話を聞いてあげようよ。どうしてそう、人の世話になるのを嫌がるの?」
アリエーフは見下すようにシャリを見て、当然の事を口にするように言った。
「絶対に、下心があるに決まってるから。好意だけで、他人のために何かするなんて初対面じゃあり得ない」
「ギクっ」
何か反駁しようとしたシャリと、迎え撃とうとしていたアリエーフはほぼ同時に、ローブ姿を注視した。
『……ギク?』
言葉が重なる。アリエーフはシャリと一瞬目線を合わせ、すぐに逸らした。
ローブ姿は慌てて手をパタパタ振ると、慌てふためいたように、
「ぎ、ぎぎぎーっ――くり腰が痛むので、早く決めていただけますか?」
と言い繕ったが、アリエーフは渋い顔をして口を開いた。
「……大変だね。その若さで、ぎっくり腰なんて」
「ああ、そう――いや、そうですわね。オホホ」
口に手をあてて笑うが、すでにこのローブ姿が女であるのかどうかも疑わしい。アリエーフはとっとと断ろうと――
「いいんじゃない? 乗せてもらおうよ。アリエーフ」
「シャリ……」
もはや諦念すら漂う声で、アリエーフは少年の名を呼んだ。
彼はどうやら、厄介事が好きらしい。わざわざ胡散臭げな話に進んで乗ろうとしたのは、これが初めてではなかった。
アリエーフは反論するために大きく息を吸い込む。
「あのね、言いたくなかったけど、私、船に乗ると絶対に海に落ちるの。一度なんて、それで遭難しかけたことあったんだから確実だよ。普通の船だってそうなのに、そんな――」
「何してんの、アリエーフ? ほら、そろそろ出航だってよ」
「人の話を聞けー!!」
アリエーフはぼんやりと船の縁に肘をついて、海を眺めていた。
(結局、乗ることになっちゃった……ああ、最悪。何も悪いことがなければいいけど)
隣で暇そうに突っ伏しているシャリはさっきから動かない。ただのしかばねのようだ。
あのローブ姿が案内したのは、港の端だった。個人所有の船としては大きい方だが、客船と比べれば貧弱もいいところである。実際、さっきから揺れに揺れる。船酔い持ちでなかったことを神に感謝。
「……ねぇ」
突然、シャリが顔を上げた。何かと思ってぼんやりした視線を送っていると、彼は頬杖をついてこっちに向き直る。
「僕、考えたんだけどさ、君の破滅的で絶望的で喜劇的な運の悪さって、」
「三回も強調しないでよ」
「君のお父さん、ディーヴァの呪いなんじゃないのかなぁ」
アリエーフは思わず、眉根を寄せて聞き返した。
するとシャリが、俄然元気づいて語り始める。
「だって、普通に考えてあり得ないでしょ? そんなに運が悪いなんてさ」
「そりゃ、そうかもだけど」
「今度聞いてみるといいよ。きっと彼が掛けた呪いなんだから」
「シャリって、魔導師でしょ? 邪悪な気とか、感じるの? 私から」
「え、……まぁ、呪いがかかってるっていうのは分かるよ」
「何でもっと早く言わないの……?」
ぼやきながらも、何か沸々と怒りがこみ上げた。あの男のせいで十五年間の人生を棒に振ってしまったかと思うと、悔しくて涙がこみ上げそうになる。
お祭りの日になると、必ず鶏にドレスを破られた。
毎朝毎朝、自分のパンだけカビが生えていた。
そして何より許せないのは、男の子に告白しようという時に限って雨が降ること。
「許すまじディーヴァ……!」
不運少女は硬く拳を握り締め、闘志を燃やした。
シャリがなぜか乾いた笑いを上げる中、アリエーフは立ち上がると、踵を返した。
「そうと決まれば、さっさとあの男に復讐する算段を――、って」
踏みしめたはずの床をちゃんと蹴れず、滑って体が傾ぐ。
(海に落ちる――!)
と思った時、腕を掴まれた。
海とキスする寸前。
アリエーフは縁を掴んで、そろそろと半ば乗り出した体を戻した。
「あ、ありがとう」
シャリの方を見て言うと、
「どういたしまして」
小さく笑いながら言われ、アリエーフは少し顔が熱くなるのを感じた。
(きれいな顔……人形みたい)
思って、ハッと我に返る。
「じゃあ、私、今度こそ――、」
「あ、あぶな――」
立ち上がろうとしたアリエーフは、バランスを崩して海にダイブした。
「へっくしゅんっ」
アリエーフは毛布を引き寄せた。
日も沈んだ後、船室である。客用なのか、ベッドが一つと、暖炉があった。
アリエーフはその前で毛布をかぶり、座っている。頭はしっとりと湿っていて、毛布の下は下着しか着ていない。クロースとベスト、ブーツはその隣で仲良くびしょ濡れになっている。
「結局、こうなるんだよね……だから嫌だったのに」
アリエーフは布か何かないかと、鞄を引きずり寄せて探した。
「えっと……常備薬、携帯食料、ブラシに、……これ、何? 本!?」
アリエーフは自分の目を疑って、入れた覚えもない、赤い表紙の本を眺めた。
「何、これ……ふぁ、『ファイアの書』?」
中をパラパラめくって見ると、どうやら初心者向けの魔導書だった。
アリエーフはがっくりと肩を落とす。シャリだ。
「シャリ……あんたね、しつこいよ」
魔導書を脇に置こうとすると、何かが間からはみ出た。黄ばんだ……カード?
手に取ってしげしげと見る。
訝しく思ってひっくり返してみると、裏に何か書いてあった。
『憎しみ合う血の連なり。そのソウルでもって、死した魂は血と肉を得ん』
かなり流暢な筆致でそう書き記されている。じっと見つめていると、どんどん文字がかすれて、消えてしまった。
幻かとも思うが、それにしては……
このカードを挟んだのは、シャリだろうか? それとも……?
とその時、
「お食事をお持ちしました」
扉越しの声。アリエーフはひらひらと手を振った。
「そこに置いておいて。後で食べるから」
まさか毛布一枚で出て行ったりはできない。そう思っての答えだったが、扉の外にいた人物は沈黙してしまった。
どうしたのかと思って振り返ると、突然扉が勢いよく開いて、三人の男女が入ってきた。
アリエーフは毛布の合わせ目をきつく握って立ち上がると、見定めようと目を凝らす。
「あなたたちは……」
「久しぶりね。小娘」
真ん中に立った女――いつぞや会った、組織の妖艶な始末屋が言った。今日は露出度の高い、踊り子風の格好をしている。
アリエーフは一つ頷いた。
「ケバいおばさん」
「ミリアムよ! 誰がおばさんだ!」
ミリアム――とやらはくわっと目を見開いて叫んだ。
脇を固める無口そうな男と、そして幼馴染だったレオンがため息をつく。
「……全く、こんな罠にかかるとはな。どうしてこんな女と結婚しようなんて思ったのか、自分の気が知れない」
蔑むように見られての言葉。アリエーフはレオンを見て、拳を握り締めた。
(そっちから結婚申し込んできた癖に……)
カッとなる頭をどうにか静めて、アリエーフはミリアムと視線をぶつけた。
「最初っから騙されてたってわけ?」
聞くと、彼女は優越感に満ちた笑顔を浮かべる。
「そうよ。レオンにあなたたちを連れてこさせたの」
アリエーフは思わずレオンを見た。目を逸らされる。
「あなたを一人にしてしまえば、もう邪魔も入らない。おやり!」
レオンと、それから無口な男がこっちに向かって走ってくる。アリエーフは咄嗟に、ファイアの魔導書を拾い上げてレオンの顔に投げつけた。
が、本はレオンの脇をすり抜け、壁にぶつかって跳ね返り――そしてなんと、アリエーフの方に飛んできた。アリエーフは慌てて手を差し出し、受け止めよう――、次の瞬間、気持ちのいい音と共に鼻の辺りを強烈な痛みが突き抜けた。
(……)
アリエーフは無言で、鼻にぶつかった本を床に投げ捨てた。
「何、立ち止まってるの? ガリラヤ! さっさと取り押さえなさい!」
ガリラヤ、と呼ばれた無口な男が目前に迫る。アリエーフは毛布一枚の姿で格闘戦を演じる気にもなれずに焦った。
(何か――、何かない!?)
しかし目につくものは他になく、そうしている間に腕を取られて――ねじり上げられた。関節がちぎれそうなほど痛む。唇を噛んで見上げると、ミリアムとかいう女の顔が目前にあった。手が振り上がり――
頬の衝撃と共に、乾いた音が響き渡る。
アリエーフは次いで頬を襲う、鞭で打たれたような痛みに顔をしかめた。
「本当は始末しろっていう命令だったんだけど、あなたには聞きたいことがあってね……」
ミリアムは意地悪そうに笑った。本を避けるためにかがんでいたレオンがゆっくりと立ち上がる。
アリエーフは思わずうつむいた。
「レオン、あんたは邪魔だから、あのガキの足止めに行きなさい」
レオンが部屋を出て行くや否や、ミリアムに顎を掴まれた。
「あのガキは何者なの? あんなに強力な魔法を使えるなんて、只者じゃないわ」
「知らない」
「とぼけるんじゃないわよ!」
もう一度、頬を叩かれる。
頬が焼けるように熱い。アリエーフは強く、ミリアムとかいう女を睨んだ。
「誰がアンタなんかに教えるもんか。このアバズレ年増」
「わ、私はまだ二十六よ!」
「私より十一歳も上じゃん! このクソババァ!」
アリエーフはミリアムがたじろいだ隙をついて、蹴りつけた。だが当たらない。
「遅いわね……止まって見えるわよ。あなた、訓練所でも落ちこぼれだったんじゃなくって?」
「余計なお世話だよ……」
アリエーフは小さく唇を噛んだ。
ミリアムは勝ち誇ったように鼻を鳴らして、
「ガリラヤ、手を離しなさい。……いいから、早く!」
と指示した。すぐに解放される。肩に鈍い痛みが走った。
アリエーフは肩を軽くさすって、どういうつもりかと油断なくミリアムを見据える。
「二度と私に向かってクソババァなんて言えなくしてあげる。さぁ、かかってきなさい?」
ミリアムは軽く拳を握って構えた。
アリエーフは戸惑ってガリラヤ……とか言う、無口な男に視線を飛ばす。
下着姿で戦えと?
「ハッ……誰も、あんたみたいな小娘の体になんて期待してないわよ。安心なさい」
「何だって!?」
アリエーフはもう迷わず毛布をかなぐり捨てた。ガリラヤがなぜか慌てて後ろを向く。
「うっ……小娘のわりに……」
ミリアムがたじろいだように構えを崩した。
アリエーフはそれを好機と取って、踏み込むと拳を振り上げる。
だが次の瞬間、みぞおちに強烈なフックが入り、地べたを這ったのはアリエーフの方だった。痛みが頭まで突き上げ、胃の中がひっくり返りそうな吐き気がこみ上げる。
「ハッ、やっぱりね」
髪の毛を掴まれ、引きずり起こされる。皮膚が剥がれるような痛みに悲鳴を上げそうになるが、アリエーフは黙っていた。
「弱い、弱い、弱いわ……何て無様なのかしら。そんなんで、よくあそこを出られたわね? 訓練所にいたのはいったい、何年? 半年? 一月?」
「四年半だよっ……!」
「それで、この有様なの? 弱すぎて話にならないわ……聞けばあなた、王女の暗殺役だったんですって? どうしてあなたなんかが選ばれたのか、全く分からない。ねぇ、どうしてアンタなのよ? 私じゃなく?」
アリエーフは笑った。
「それは、アンタと違って私が、家事だけは得意だからだよ! 二十五超えても買い手のつかない、売り残りと違ってね!」
急に髪の毛を放された。アリエーフは息も荒く膝をつき、――突然頭を踏みつけられて、床に顔をぶつけた。
「お黙り! あなた、自分の立場が分かってないようね。このまま頭を踏み砕いてやろうかしら……」
アリエーフはその言葉を聞いて、必死に抜け出そうと床を掻いた。だがどうにもならない。どうにかする力が、アリエーフにはない。
(っ、畜生、畜生! 悔しい……悔しいよ……!)
頭にかかった圧力が強くなる。アリエーフは唇を噛んだ。
とその時、
「ね、ちょっと待ってくれる? その子を殺されちゃうのは、困るな」
聞き覚えのある声と共に、頭の上から重いものが消える。アリエーフは顔を上げた。
「シャリ……」
扉に少しもたれるようにして、シャリが立っていた。
アリエーフの胸に安堵が広がる。
シャリは這い蹲ったアリエーフと視線を合わせると、からかうように笑った。
「やぁ、何か、来ちゃいけないところに来ちゃった?」
「っ……!」
アリエーフは慌てて、床に落ちている毛布を拾った。
ミリアムが鼻を鳴らして、シャリに向き直る。
「あら、ぼうや。シャリって言うのね?」
「そう。海を超えて、遥か東から来たんだ。どうぞよろしく、お姉さん」
シャリは帽子を取って、軽く頭を下げた。その後に笑い声を上げ、どこからともなく剣を取り出す。透き通った紫色の、真っ直ぐな剣。
「私はミリアム。でも、残念ね。私たちって、どうやら敵同士」
ミリアムも大きく開いた胸元からナイフを取り出す。
シャリは無造作に剣を構えた。
「一応聞いていいかな?」
「なぁに? 君みたいにかわいい少年からの質問なら、何でも答えてあげる」
ミリアムが色めいた答えを返したその時、アリエーフは立ち上がって駆け出そうとし――、髪の毛を引っつかまれて転んだ。
そのまま首に腕をまわされて、――喉元に刃を突きつけられる。
シャリがフフフ、と笑って言った。
「僕のお姫様を返してくれる気は、ない?」
「他の頼みなら、何でも聞いてあげたのに」
ミリアムは言葉の内容と裏腹に冷たく言い捨て、無口な――ガリラヤとか言う男に向かって顎をしゃくる。
「さっさと時間稼ぎしなさい。その間に小娘を殺すから」
アリエーフは喉に触れる冷たい感触に息を呑んだ。
「さっきの男みたく、間抜けな刺客はいらないよ。僕の――」
「シャリ、レオンを殺したの……?」
アリエーフは青ざめて聞いた。
シャリが処置なし、と言った風に首を振る。
「全く、やってられないなぁ。せっかく助けにきても、他の男の心配されたんじゃ」
「人を無視するんじゃないわよ!」
ミリアムが地団太を踏んだ。
「さぁ、シャリとやら。おとなしく、ガリラヤに捕まりなさい。でないと、この娘を殺すわよ」
「どっちにしろ、殺すんでしょ? それじゃ困るんだけど」
シャリは動かない。ミリアムからも、さすがに緊張した空気が流れてくる。ガリラヤさえ、従うべきか否か迷っている風に立ち止まったままだ。
(これじゃ、私は……私はただの足手まといだよ)
アリエーフは苦しげに眉をひそめた。
(このままずっと、見てるくらいだったら……)
唾を呑む。やるしかない……
「離して!」
アリエーフは叫んで、がむしゃらに暴れた。
「わっ、ちょっ、暴れないでよ――!」
ナイフが一瞬、ひやりと喉に触れる。アリエーフは思わず動きを止めそうになったが、思い直してミリアムの腕を跳ねのけた。
その瞬間、にこりと笑ったシャリの剣が、禍々しい光を放つ。
火の爆ぜるような音。ミリアムとガリラヤの上に激しい閃光が落ちる。二人は悲鳴も上げずに、大きな音をたてて倒れてしまった。
アリエーフは目の前で繰り広げられた光景に身をすくめて、へたり込む。
(な、ななな……)
シャリが何でもない風に近づいてきて、言った。
「お怪我はありませんか? わがままなお姫様」
その夜、海上に三つの大きな水音が響き渡った。
着替えたアリエーフは船の縁に肘をついて、それを眺めていた。
つまり、シャリが喜々として縁に立ち、三人組を海に突き落とすところを。
「ま、運が良ければ死なないよ。じゃね!」
「ふざけんな! か、必ず復讐してやる!」
レオンが立ち泳ぎしながら叫ぶ。
(……ホント、どうしてこんな男に惚れてたんだか)
アリエーフは過去の自分を冷ややかな目線で思い返した。気の迷いだ。違いない。
「よしなさい! ……運があったらまた会いましょう。ぼうや、それに子猫ちゃん!」
ミリアムの声を最後に、三人はどこかに向かって泳いで行った。
「……ねぇ、シャリ。運が良かったらも何も、こんな沖で放り出されたら死ぬんじゃない? 別にいいけど」
シャリはぴょんと縁から飛び降りて、振り返った。
「大丈夫だよ。もう次の港が見える頃だしね」
はーっ、とため息をついていると、シャリが何か目の前に差し出してきた。
「……ファイアの書? あのね、私は――」
「強くなりたいでしょ?」
アリエーフは黙った。
シャリは小さな声で笑う。
「教えてあげるよ。僕にできる限りの魔法をね。アリエーフ、力は必要だよ。君が……君として生きるために」
アリエーフはゆっくりと手をのばして、その本を受け取った。
「ねぇ、恋を叶える魔法って、ないの?」
シャリは首を傾げた。
「面白いこと、聞くね。愛に目覚めちゃったり?」
アリエーフは首を横に振る。
「ううん……何でもないの。なんでも」
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