5 冷たいふるさと
夜。アリエーフは焚き火を見つめて、数秒ほどじっとしていた。
なぜ自分がこんなにも苦しまねばならないのか。
(私は今、渇きに命を燃やす思いだ)
なのにそれを癒すべき水はない。いや、水はあっても、その方法がないと言うべきか。ああ世は、世はなんと非情なことか!
火をはさんで向かいに座ったシャリが、ひょこっと顔を覗かせた。
「あれ、アリエーフ。カップないの? じゃ、これ使っていいよ。はい」
アリエーフは差し出されたゴブレットを受け取るやいなや、一気飲みした。
「ありがと。やっぱり、水は冷たいうちがいいね」
追っ手の襲撃を受けてから、三日が経った。
街道の脇で野宿をしながら、アリエーフとシャリは進んでいる。
アリエーフはたった今、水を飲み干したゴブレットを観察した。金の装飾がしてある。かなり高そうで、なおかつ古びてそうな代物だった。
こんなもの、シャリはどこで見つけたのだろうか。……なんか、禍々しい感じがするし。
「ねぇシャリ、このゴブレットって、なに?」
シャリは「え、どれ?」と顔を出してアリエーフの隣まで来ると、ゴブレットを手に取った。
「ああ、これね……聖杯だよ。こないだ見つけた」
アリエーフは再び返されたゴブレットを受け取って、気味悪げに見た。
「聖杯ってことは、……聖人の血でも受けたの?」
「そうかもね」
投げやりな答えに、アリエーフはやはり投げやりな返事を返して、ゴブレットを地面に置く。
それっきり構わず、本を取り出してパラパラとめくった。
「……あれ?」
本から顔を上げると、シャリの不思議そうな顔に出会う。アリエーフは「何?」と尋ねた。
「気持ち悪くないの? 血を入れてたゴブレットで水飲んで」
「ああ、そのこと」
アリエーフは思いっきり遠い目をした後、ゆっくりと口を開く。
「私、もっとすごいもので水飲んだことあるから」
言ったとたん、なぜかシャリが焚き火三個分くらい距離を取った。
「……へー」
「ちょっと、何してんの? 早く戻ってきなって。大丈夫だよ、口はゆすいだから」
「へー……」
アリエーフはなかなか戻って来ようとしないシャリに呆れて立ち上がると、星空を見上げて唇を尖らせた。
怒りをふっと忘れてしまうような、恍惚としたものがそこには広がっている。夜の海に散りばめられた宝石は、明るいものもあれば暗いものもある。だがどれも皆一様に美しい。
アリエーフはたちまち興奮して、空を指差した。
「あ、あれ何座だろう。何か、あれってシャリの帽子の形に似て……」
はしゃいで喋っていたアリエーフは、ふと我に返って首を傾げた。
何か見覚えがあるような気がしてならない。この星座って……
「あっ!」と声を上げて辺りを見回す。見覚えがある。街道にも、植わっている木にも。ここにある全てを、アリエーフは知っている。
アリエーフは嬉々としてシャリを振り返った。
「ねぇ、この辺りって、私の住んでた村の近くだよ!」
「住んでたって……組織の?」
シャリが聞き返してくる。アリエーフは走ってシャリの前に膝をつくと、手を組み合わせて顔を近づけた。
「違うよ。組織は、村じゃなくて城だったもん。ねねね、いいでしょ? 寄っても。ね、一日くらいで出発していいから」
彼は死ぬほど嫌そうな顔を一瞬だけした後、諦めたように長嘆をついた。
「いいよ、別に」
アリエーフは手を組んだまま、ウザがられるまでありがとうと三回繰り返した。
そしてその場――焚き火から少し離れた場所――で座って膝を抱えると、空を見上げる。
「おばあちゃん、元気かな……村の皆は、どうしてるだろ?」
シャリが首を傾げた。
「おばあちゃん? 血縁者はいないよね……君を育ててくれたシスターのこと?」
アリエーフはきょとんとシャリを見返した。
「……あ、あの人? そう。育て親のシスター・イーリア。あのね、あの人は、私を組織に売った人なの。でも十になるまで育ててくれた。だから嫌いじゃないよ」
「へぇ。普通、そういう人のことは嫌いになると思うんだけど。面白いね、君って」
「ありがとう」
アリエーフは少し高揚する気持ちを隠すように、頬を手で覆った。
「楽しみだな」
にっこり微笑むと、シャリが驚いたように目を大きくした。
「悪いものでも食べた?」
シャリはおそるおそるさっきのゴブレットを掴んで、ひっくり返した。
微妙に気味悪げである。
「そういう効果はないはずなんだけどね」
アリエーフは逆にいい気になって、パンと手を叩くと立ち上がった。
「そうと決まったら、早くねむ――」
アリエーフはその時、いつものように足をすべらせて――、焚き火の中に顔を突っ込みそうになった。思わずきつく目をつむる。
――が、いつまで経っても熱さは襲ってこなかった。信じられない思いで目を開くと、いつの間にかシャリに腕を掴まれている。
「ご、ごめん……」
アリエーフは一気に胸がしぼむような気がした。
(そういえば、村にいた時もよくコケてたっけ。そのたびに周りの子が助け――てはくれなかったんだよね。むしろイジメられてたような)
アリエーフは胸から全部息を吐き出すつもりでため息を吐いた。座ってクロースの裾をなでつけ、何となくうつむく。
「……私って、迷惑かけてばっかりだよね。生まれた時からそうだった。私、失敗しかしたことない……本当にない」
シャリが隣に腰を下ろして、こっちを見る。……ような気配がした。少し元気づいて、アリエーフは続ける。
「でも、一番の失敗は……こんなところまで来ちゃったってことかな」
シャリが首を斜めにして、目を瞬いた。
「どうして? 良かったじゃない。命あっての物だねなんだしさ」
アリエーフは小さく首を横に振る。
「ううん……、あのね、死んだ方が良かったの。最初に……あそこで死ねば、お父さんだって……」
シャリの声が一段明るくなった。
「おや、彼を父と呼ぶの? 君の体を狙う、浅ましい男を?」
アリエーフはますますうつむく。
「……私は誰のことも嫌いじゃない。どんなに謗られても、嫌いになんてなれない。あの男がお父さんだって言うなら、それを受け入れる」
「……君って、ホントに誰も愛してないんだね。だから、誰も嫌いになれないんじゃない?」
髪をかきあげて、アリエーフは言葉を継ぐ。
「愛……、違うよ。愛なんてないもん。愛なんて存在しないよ。だって、愛は不滅で、奇跡も起こるんでしょ?」
ちょっと沈黙した後に、シャリが言った。
「場合によっては、そうかもね」
「もしそうだったら、私は今頃もっと幸せだよ。そうじゃないのは、誰も愛してないからだよ。私だけをじゃなくて、みんな愛なんて持ってないんだよ」
アリエーフは一旦言葉を切って、続けた。
「そうじゃないと、不公平だもん……」
翌朝、村に足を踏み入れたとたん、村人たちはアリエーフを白い視線で見た。
いや、正確には、最初の瞬間だけハッと目を疑うようにこするのだが、どうやら彼女と見定めると冷たい目で見るようになるのである。
アリエーフは口の中でつぶやいた。
「忘れてた。そういえば、私ってすっごく、嫌われてたんだっけ」
「何か、悪いことでもしたの?」
白い視線も一顧だにせず、ほとんど大物の風格すら漂うシャリ。
アリエーフは首を縦に振った。
「まず、あそこのロザリンドさんだけど」
「ふむふむ」
「昔、頼まれて犬に餌やった時、間違えて毒草入れちゃって」
「……はぁ」
「殺しちゃった。犬を」
シャリが沈黙状態になってしまったので、アリエーフは次の人を指差した。
「んで、あっちのナルドさん」
「今度は何したの?」
「育毛剤を買って来いと言われて、」
「……何か分かった気がするけど、続けて」
「除毛剤を買ってきてしまった」
「……で、彼はあんなに禿げてるんだ」
「で、でも! 仕方なかったんだよ。あの時は確か、道具屋が休みで……もぐりの子どもから、買わなきゃならなかったんだもん」
「……次の日まで待てばよかったじゃん」
「お祭りの日が近かったんだよ」
アリエーフはシャリを伴って住宅街を歩いていたが、奥に向かうにつれ――アリエーフのいた教会が近くなるにつれ――白い視線が増していく。
思わず身震いして、アリエーフは教会への道を急いだ。
立ち止まる。隣でシャリが「どうしたの?」と言った。
「……道、どっちだったけ」
「……僕が知るわけ、ないでしょ?」
アリエーフは仕方なく一番近くの民家に駆け寄って、戸を叩いた。
「すみませーん。お届けものなんですけどー!」
シャリが笑いをこらえて震える。
戸の軋む音を共にして、乳飲み子を抱えた女が顔を出した。
「誰だい? ……!! お前はアリエーフ! アリエーフ・イーリアじゃないか!」
アリエーフはたじろいだ。仇敵中の仇敵、ベロエおばさんだったからだ。何でよりによって……!
どもっている間に、ベロエおばさんは鼻を鳴らす。
「今日は変な日だよ! お前のような出来そこないが戻って来たかと思えば、おかしな男がやたらと、お前について聞きまわってるし……」
アリエーフはえっ、と声を上げた。
「おかしな男って、」
聞こうとしたその鼻先で、ドアを閉められる。アリエーフは、思わずがっくりと肩を落とした。
シャリが隣で、
「君ってとっても人気者なんだね」
とほざく。
アリエーフは恨みがましくシャリを見て、……顔色を変えた。
「ねぇ、今の聞いた? おかしな男が私について、聞きまわってたって」
「もちろん。で、どうするの?」
アリエーフは胸のあたりを押さえた。
「何か……胸騒ぎがするの。早く教会に行こう」
「道は?」
「どうにでもなるよ!」
大きな音をたてて、扉を開く。影の中に光が差し込み、埃が照らされて浮かび上がった。
誰の姿もない。
「……シスター! シスター・イーリア! アリエーフ・イーリアがただいま、戻りました」
アリエーフは叫んだが、どこからも声は返ってこない。こだますら返ってこないのに気づき、アリエーフは悄然と肩を落とした。
シャリがアリエーフの脇をすり抜けて、靴音もたてずに奥の教壇に歩いていく。どこか興味深そうに物色する様は、何かひどく場違いなもののように思われた。
アリエーフもシャリの後を追うように、教壇に向かってゆっくりと歩く。
「私、ライラネートを崇める家で育ったの。信じられる? ライラネートって、愛の女神だよ」
シャリが振り返った。窓から差し込む朝日が、彼の顔半分を照らす。光の当たらないもう半分は、すべるように影に隠れた。その顔に、初めて神聖……と呼べるようなものを感じ、アリエーフは思わず目を細める。
きれいで、善も悪も備えていて、誰よりも慈悲深い人。そういう存在を、人間はそう呼んだのではなかったか。
「……神様」
我を忘れてつぶやき、アリエーフはハッとなった。
「何言ってるんだろ、私……忘れて」
彼はゆっくりと近づいてきた。わざとなのか、今度は足音も高らかに。
「神? 僕が?」
シャリは失笑する。
「まぁ、いいよ。僕の正体が神様なら。……願いを救う神様かな?」
アリエーフは黙って、近づいてくるのを待つ。
シャリは目の前まで来ると、ゆっくり帽子を取った。内面をうかがわせない笑みで……全てを覆い隠して、何を思うのか。少年は続ける。
「何か望みはない? 叶えてあげるよ。君の願いを」
アリエーフは魅入られたように視線を離せないまま、ゆるゆると首を振った。
「……ないよ。あのね、自分で叶えるから、いい」
彼は小さく笑う。
「欲がないねえ。ダメだよ、若いのに」
「だって、シャリ……私、生きてるだけで十分だよ。じゅうぶん」
「どうして君は、そうなんだろうね。……もう少し、君が、」
「私がどうかしたの?」
シャリはふっと目を逸らして、疲れたように息を吐いた。
「……いや、何でもないよ」
沈黙。アリエーフは居心地が悪くて、身じろぎした。
「あ、そうだ」
シャリがうって変わって明るい声を出す。差し出された紙……のようなものを見ると、何か文字が書いてあった。
「さっき見つけたんだけど。君宛てみたいだよ?」
アリエーフはおずおずとそれを受け取った。目を落とす。
『偽りの母は、我が手にあり。我は木立の奥に隠された祭壇で、娘を待つ』
「おばあちゃん……」
アリエーフは息もできずに声を上げた。
(偽りの母って、イーリアのことだよ! これ、娘を待つ、って言葉といい、文章の調子といい……書いたのはディーヴァだ)
「シャリ、大変だよ! シスター・イーリアが……」
「さらわれたの?」
のんびりと言うシャリに、アリエーフは食ってかかった。
「そんな、落ち着いてないで、何か考えてよ」
アリエーフは髪の毛をかきむしった。
シャリは全く無頓着にあくびまですると、背を向ける。
「助けに行く? やめといた方がいいんじゃない? ディーヴァ、強いよ?」
「そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ?」
アリエーフは強い語調でまくしたて、床を踏みしめた。
「とにかく、行こうよ。シャリ、さっきのお願い、やっぱり聞いてくれる?」
「気が変わったの? 何?」
「うん、……あのね、最後まで見て欲しいの。ううん、生まれ変わっても、本当に本当の最後まで、私のことを、見守っていて欲しい。もしも私が、あなたのことを忘れても。最後まで……」
シャリは後ろを向いた。
「……うん、いいよ」
教会の裏手にある森の奥。鎮座する祭壇は、いつも祭りの時などに使われるそれだ。
アリエーフとシャリは、慎重な足取りで木の影から様子をうかがった。
……修道服を着た老婆が倒れている。シスター・イーリアだ。
その老婆を見下ろし、祭壇にもたれて立っているのは翳った金髪の、……ディーヴァ。
アリエーフはシャリと視線を交わして、小さくうなずく。
と、彼が動いた。
「そのようにこそこそと隠れずとも、我には知れる。シャリよ、そのような足手まといを連れていては穏行もままならぬか」
ディーヴァはこちらの方を正確に向いて、嘲笑する。
アリエーフは何も答えず、ぴくりとも動かなかった。
さわさわと木の葉が揺れる。
ディーヴァが鼻で笑った。
「出てこぬか。あくまでもそうすると言うのであれば、我にも考えがある」
ディーヴァは足を振り上げ、老女の細い首の上に下ろした。
「この女の首を折られたくなければ、早く出て来るがよい。先に言い置いておくが、我の忍耐を試すような真似はしないことだ……」
アリエーフは一瞬迷って、シャリの方に視線をやった。
彼は透徹した眼差しを返してくる。本当に、最後まで見ていてくれるつもりなのだ。
アリエーフは緊張を心の底に押し込めて、木の影から出た。ディーヴァのもとに歩み寄りながら、小さく唾を呑む。
父は、口の端をつり上げるようにして笑った。
「この女が、お前の母親だった……そうだな?」
「……育ててくれたのは、その人」
アリエーフは気絶しているのか、動かない老婆……イーリアを指差した。
ディーヴァが喉の奥で笑う。
「で、どうなのだ? この女を愛しているか? え?」
アリエーフは少し顔が強張るのを感じた。
「……いいえ」
「ほう。では、この女の首を折られたくなければ我が物になれと告げよう。で? 解はもちろん、否であろうな」
アリエーフは、唇を引き結んだ。
「教えてよ。あなたが本当に私の父親だって言うなら、どうして私を……殺そうとする?」
父と名乗った男は、暗い目でこちらを見た。
「それは、お主が我の娘であるからよ……お主の肉体こそが、我が新たな血肉となり、全てを無に還す序曲となる」
「どういう――」
意味か、とたずねようとしたその時、突然ディーヴァが声を張り上げた。
「さぁ、答えよアリエーフ! この女は、汝の母か! 愛があるのか? 答えよ、我が娘!」
「その人は、私にとって――」
アリエーフは、ふと言葉を止めた。
……イーリアが小さく身じろぎする。彼女は薄っすらと目を開けた。
「ここ……は……」
アリエーフは棒立ちになって、彼女が立ち上がろうとするのを見ていた。
きょろきょろと辺りを見回した彼女は、恐ろしげにディーヴァを見上げた後、アリエーフに目を留め、――硬直する。
「アリエーフ……」
老いた顔いっぱいに驚愕を浮かべ、イーリアが立ちすくむ。
アリエーフは、口を開こうとし、――
「お前、死んだのではなかったのですか!? 死亡通知が来たのは、もう何年も前の話です……!」
「おばあちゃん……私は、」
アリエーフが近づこうとすると、イーリアは恐怖の色を浮かべて後ずさりした。
「よらないでください! あなたは呪われているのです! 私に呪いが移ったら、どうしてくれるのですか!」
犬でも追い払うように手を振られ、アリエーフはその場で足を止めた。
「……総帥にあなたを引き渡したのは、あなたがせめて分別というものを、身につけてくれると信じてのことです……それが、こんな」
彼女はアリエーフの、短くなった髪や薄汚れた服をじろじろ見た。
「こんなひどい有様になるなんて! おお、恐ろしい……寄らないで、寄らないでください!」
「さあ、どうだ? これでも、お主はこの女を愛すると言えるのか?」
ディーヴァが笑みをもらす。
アリエーフは黙った。
「私は、……それでも――」
「愛を信じる負け犬になるか? アリエーフ。お前はどうやって生きてきた? その女にも迫害され、ついには愛を否定し……最後までそれを貫くと、決めたのであろう」
(言わなきゃ、愛してるって……嘘でも言わなきゃ……なのに、どうしてこんなに辛いの? 愛なんて、私……どうして……)
アリエーフはぶるぶると震えた。唇が勝手に動く。
「……んかじゃ……い」
(何を……何を、私は……)
アリエーフはやっと言った。
「何? 聞こえぬぞ……もっとはっきり宣言するがよい、そなたの孤独をな!」
アリエーフは全てを捨てて、たった一つを守るために叫んだ。
「愛してなんか……ないよ! 母親……なんかじゃない……」
アリエーフはその言葉が自分の口から出てきたと、信じられなかった。倒れこむように膝をつく。
まだ体が震えていた。
ディーヴァが勝ち誇ったような笑い声をもらす。
「やはりな。お前には、父がいればそれで良いのだ。この女は……不要だ。そうであろう?」
彼はそう言って、たちまちイーリアを引きずり倒すと、足を振り上げ――、アリエーフが止める間もなく、イーリアの首に勢いよく下ろした。
くぐもった悲鳴が響く。
アリエーフはそれをただ、黙って見ていた。見ていることしかできない。
塩の塊が割れるような音がした。呆気ない、音。
それと共に、もがいていたイーリアが完全に動かなくなる。
目の前が真っ暗になりつつあった。
(私……私が……いなければ、)
自分の首を絞めたい衝動に駆られる。だがそんなことをしても……
「アリエーフ、」
いつの間にか、シャリが横に立っていた。
「しないの? 復讐。お母さんを殺されたのに」
アリエーフは、言われてようやく気づいた。のろのろと鞄の中を探って、シャリにもらった短剣を取り出す。構えてみるが、足は動かなかった。心の中がやけに静かで、何を考えても現実感がついてこない。
風が吹く。シャリの黒い髪の毛が、風に揺れた。
「復讐、しないの?」
静かな問い。アリエーフもまた静かに、「分からない」と答える。
「復讐なぞ、する必要もないわ」
ディーヴァが口を挟んだ。
アリエーフは首をかしげてそちらを見つめる。
「我と共に来る決心も、増したであろう。アリエーフ……さぁ、その体を我に渡せ」
ディーヴァがこっちに近づいてくる。
アリエーフはわずかに身をよじるものの、なぜかそれ以上逃げようという気も起こらない。
「何やってるの? 逃げるよ」
そうしているうちに、いつの間にかシャリに手を取られ、走る。アリエーフは夢うつつのまま、まるで操り人形のようについて行った。
村に逃げ帰る頃には、すでに日が暮れていた。
教会の中に入るなり、アリエーフは椅子に腰を下ろす。
シャリが静かに扉を閉めた。近づいてくる。
「……ねぇ、」
アリエーフは声をかけられて、ようやく顔を上げた。
「どうして泣かないの? 憎くないの? あの男が」
アリエーフは「分からない」と答えた。
「どうして泣かなきゃいけないの? どうして、憎まなきゃいけないの……? ここは、愛の女神の教会なのに」
淡々と、アリエーフは問いかけた。
「どうして……?」
少年は痛ましそうな顔をした。
「憎めば、楽になれる。人がこういう目にあった時、一番安易な道が、憎むこと、だよ。君も、そうすればいい」
アリエーフは頷けなかった。
「憎む、理由がない……私は、別に傷ついてなんかいない。愛してなんかいなかった」
「でも、」
シャリが向かいに腰掛けた。
「アリエーフ、ここに来る時、ずいぶん嬉しそうだったよね。君は、愛してたんだよ。この村と、お母さんを」
「違う。そんなこと、ない……」
「……ねえ、アリエーフって、本当に悲しいね。君は、何もかもを持ってるのに、それを使えない。使う術を持たない」
――次の瞬間、アリエーフの目に涙がこみ上げた。
アリエーフは目を何度もぬぐった。でも止まらない。全然、止まらない。
「私……、シャリ、私は、」
顔を両手で覆う。
「辛い? アリエーフ」
アリエーフは首を横に振った。
「辛くなんか、ないよ。何で、辛くならなきゃいけないの? ご飯だって、ちゃんと食べたし、喉も渇いてないのに。全然、辛くないよ……」
アリエーフはしゃくり上げて、もう一度言った。
「分からないよ……」
アリエーフは墓を作ろうと思った。たくさん花でかざった、墓を。……そして自分が死んだら、絶対に同じ墓に入ろうと思った。
そう、墓に。
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