……ロン
……? シャロンは、何か声が聞こえたような気がして、目を開けた。そして身を乗り出す。動くたびに強く縄が食い込んで痛んだ。
「誰? 誰かいるの?」
「シャロン、僕だよ」
声と共に、突然目の前に黒衣の少年が――、シャリが現れた。いつものように、何を考えているのかよく分からない笑顔を浮かべている。
シャロンは、昼間のことを思い出してそっぽを向いた。
「今さら、何?」
「うわ、ひどいなぁ。まぁ、さっきは悪かったけどさ。でもああでもしないと、油断させられないかなと思って」
シャリがおどけたように言うので、シャロンはそっと横目で彼を見た。
「それで……? ようやく助けに来てくれたの?」
「まぁね」
シャリが何やらつぶやくと、シャロンの体を締め付けていた縄が緩み、しゅるりと床に落ちた。
シャロンの中で張り詰めていたものが、同時に緩んだ気がする。シャロンはほっと息をついて、立ち上がると大きく伸びをした。
……シャリが見つめている。シャロンは腕を下ろして、小さく「ありがとう」と礼を言った。
「別にいいよん、これくらい」
「そう……」
シャロンはもう一度ため息をつくと、赤く跡になった腕をさすった。
「……シャリ、さっきね、」
シャロンは手短に夢のことを話した。
シャリは何度も頷いて聞いていたが、話を聞き終わると考え込むようにうつむいしまう。……それから目を輝かせてシャロンを見た。
「じゃあ探検だね! その子のためにめくるめく冒険を繰り広げる訳だ」
シャロンは思わず「はぁ?」と間抜けな返事を返す。
「ほら、何してるの? 早くその子を探しに行かなきゃ。フフ……」
シャロンはそんなシャリの様子を胡乱に思った。
だが、確かに急いだ方がいいと思い直す。床に置いてあったランプを取ると、厨房から出ようと――確かこの向こうは食堂だったハズだ――扉に手をかけた。
もしかして開かないかもとも思ったが、どうやらそんなこともなく、ノブは回る。
「あ、言い忘れてたけど」
シャロンが扉を押し開けた時、後ろからシャリの声がかかった。シャロンは不思議に思って肩越しに振り返る。
シャリは頭の後ろで手を組んで、とても楽しそうにこちらを見ていた。
「ここ、いわば夢の中だから、何が起こるかわからないよ」
「え――」
ちょうどその瞬間、シャロンの視界一杯にピンク色の顔が広がった。ピンク色の豚の顔が。
「!!」
豚の蹄がシャロンに迫ってきて、ドンと目の奥で火花が散ったような衝撃が掛かり、シャロンはそのまま訳も分からず押し倒されて、腰に衝撃が――体を貫かれるような痛みにすぅっと意識が遠のき、視界が白濁する――が、シャロンはなんとか意識をつなぎとめようと床に爪を立てた。
うめいて振り返ってみると、シャロンを押し倒して猛進した豚が、厨房の隅に置いてあったカメに鼻を突っ込んで、けたたましい声で鳴いている。
シャロンはどう反応すればいいのか分からず、とりあえず立ち上がろうと前を向き――、三頭の豚が同じく突進してくるのを見て、反射的に横に転がった。
視界がグルグルと回転する。恐る恐る顔を上げてみると、四匹に増えた豚が、お互いにカメを取り合っていた。
シャロンはまた意識が遠のきそうになるのを感じたが、今度もやはりこらえて立ち上がる。恐る恐る食堂の方を覗くが、もう援軍はいないらしい。
安堵が胸に広がった。しかしまだ鼓動は早鐘を打っている。
シャロンは、さっきから「アハハハハ」と笑い続けているシャリを振り返った。
「……早く教えてよ、そういうことは」
「フフフっ! だけど僕だってまさか豚が襲ってくるとは思わなかったしね」
「嘘よ! 警告した時、顔笑ってたもの!」
「気のせいだよ……アハハ! 気・の・せ・い」
シャロンは怒鳴る代わりに、思いっきり胡乱げにシャリを睨んだ。そして振り返りもせず、やたら広い食堂を抜けて玄関ホールまでやってくる。そしてそのまま突っ切って、外に続く大扉を開けようと取っ手を引っ張ってみるがやはりビクともしない。
ああもう、どうしろって言うのよ!
シャロンはイライラと舌打ちして、玄関ホールの真ん中へと引き返した。ぐるりと辺りを見回してみる。
「……う〜ん……」
右と左に廊下が伸びていて、さらに地下への階段と、二階に上がるための螺旋階段があった。二階には、最初にいた寝室があるので道順を覚えている。
とそこに、のんびりと構えたシャリが歩いてきた。
……シャリがまともに歩いてるところって珍しい。
その珍しいシャリはシャロンの隣まで来ると、足を止めた。
「で、次はどこに行くの?」
半ば声に期待が混じっている。「次はどんな馬鹿をやらかしてくれるの?」とも聞こえたが、シャロンは努めてそれを無視した。
「そうね……地下なんて、いかにも何かあり気だと思うんだけど、どう思う?」
「さぁね。それはシャロンが決めてよ。僕はシャロンの行くところに、どこまでもついて行くから」
シャロンはわざと疑うようにシャリを見た。
「……嘘でしょ」
「うん」
「……」
即答か……
シャロンはもう相手にせず、ぽっかりと闇への口を開けた地下への階段に向かって歩いて行った。
……でも、シャリがいるだけで、ずいぶん違う。私一人だったら、こんなに普段どおりにはできないもの……
それは、私がシャリを頼りにしているということ? いや、違う……私は、シャリについてきてくれるよう頼む時だって、助力なんて期待してなかった(だってシャリだし)。
私はただ側にいて欲しかった、それだけで。
地下は一部屋のみで構成されていた。それはいい。そこまでは普通だ。だが、――
「何、コレ……」
そこに隙間のないほど立ち並ぶさまざまな器具を見て、シャロンは思わずつぶやいた。
悪名高いアイアン・メイデン。どうやら塗り込め用に彫られた壁、十字架、おどろおどろしい色の薬瓶が並んだ薬品棚、脇には、大きなカゴの中に指錠、手錠、ロープや皮の拘束具などが大量に集められている。壁には鞭や――、なぜかモーニングスターのようなものが飾られている。何を切るのか想像もしたくないような、鋭利な刃先の鋏までそろえてある。
「拷問道具みたいだね」
さらりとシャリが言った。
「……そんなあっさりと……」
「シャロンも、一歩間違えてたらこれに掛けられてたかも知れないね。あ、まだ危機は脱出できてないかな?」
「……ちょっと黙っててくれる? 私、今猛烈にあなたを殴り飛ばしたいんだけど――って!?」
シャロンがジト目でぼやいていると、ガチャン、と何かの動く不吉な音がした。……
嫌な予感が背筋を走るのを感じつつ、シャロンがそちらを向くと――、全ての拷問道具がガチャン、ガチャンと動いている。ただの鉄の塊であるアイアン・メイデン――鋼鉄の処女という拷問道具というよりは処刑道具で、女性の形をした鉄の棺おけのようなものであるが、しかしその棺おけの中には無数の鋭い針が生えている――が動いて、なんとシャロンの方に向かってくるではないか。それも針だらけの蓋をおいでませとばかりに開いたり閉じたりしている。
……例え全財産を失っても、この乙女に抱擁を受けることは拒否したい。
シャロンは一歩、二歩と後ずさりし――、さっとシャリの手を取って階段を駆け上がった。後ろから、まるで金物の祭りのようにやかましい音が追いかけてくる!
「どうして私ばっかり……!」
「日ごろの行いだよね」
「あなたよりはいいわよ!!」
シャロンは涙混じりに絶叫した。
階段を駆け上がり、さらに二階への階段も上って、とにかく目についた部屋に飛び込んだ。
扉をしっかりと後ろ手に閉めて、肺病のようにひどい音をたてる胸を何とかなだめようと押さえる。
「ねぇ大丈夫? 真っ青だよ」
シャリが無邪気に言った。
ああ、もうこの子は、無邪気を装ってはいても、全て分かっていてやっているに決まってる。何が無邪気よ。……でも、そんなシャリを選んでしまったのは自分な訳で、さらに助けを求めてしまったのも私な訳で……、つまり自業自得だと思って納得するしかないのだろうか。
シャロンは人生の悲哀をかみ締めた。
と、その時、クロースの袖をちょいちょいと引っ張られる。シャロンは、まともに入った部屋も見ていなかったことに気づいてランプを掲げた。
「……おっきい」
シャロンは端的に感想を言った。そこは、まさしくベッドルームと呼ぶにふさわしい場所。巨大なベッドが部屋のほとんどを占領しているのだ。とは言っても、部屋が小さい訳ではなく、この部屋だけで一軒の宿屋が建ちそうなほどの広さがあった。
その空間を占領してしまうほどの大きさのベッド――、シャロンと同じサイズの人間であれば、ざっと五十人は眠れそうだ。
「こんな大きなベッド、誰が寝るのよ……」
思わず突っ込むと、隣でクスクスと笑い声が聞こえた。理由も分からず笑われて不快に思わないわけがなく、シャロンはシャリに視線を送る。
彼は、さもおかしそうに口を開いた。
「そりゃ、決まってるよ。君と伯爵様さ」
シャロンは余りの内容に頭の中が真っ白になった。
四肢が軟体生物になってしまったかのように全く力が入らない。いや、もともとそんなものは備わっていないのかもしれない……
へたりこんで、シャロンは額に手の甲をあてて天井を見つめた。
「ああ……お星様が見えるよ、それはそれはきれいなお星様でね……」
「おーい、帰ってきてよ。ゴメンゴメン。謝るから」
「シャリ……」
シャロンは臨終間際のような息遣いのままシャリに生暖かい視線を向けた。
「シャリってきれいだよね。いいなぁ……、私もシャリくらい美人だったらなぁ……」
「……? ありがと」
「……私、短い間だったけど、シャリに会えてよかったわ……」
シャリが失礼にものけぞって後ずさりした。
「ちょっち、やばいかな? シャロン、シャロンってば、戻ってこないと、ホントにここで伯爵と寝ることになっちゃうよ?」
「そ、それは……」
シャロンは寒気を感じて自分の腕をさすった。
出し抜けに、シャリにその腕を掴まれる。見上げてみると、シャリは珍しく微妙に不機嫌そうな表情をしていた。
「まったく、しょうがないなぁ。嫌なら、ほら、早く立ちなよ。さっきの拷問器具に捕まりたくないでしょ?」
想像するだけでも吐き気がこみ上げた。
シャロンは頷くと、何とか足を動かして立ち上がる。
シャリに心配されたらお終いよね……
シャロンはそう自分に言い聞かせて、彼の前ではちゃんとしていようと決心した。
「さて……、次はどこに行きましょうか」
声には意識的に強い色を込め、うかがうようにシャリを見ると、彼は巨大なベッドの向こう側にある扉を指差した。
幸いなことに、もう機嫌は直ったらしい。
「あそこは? 何かいかにも意味ありげって感じだよ」
「そうね……、特に目的がある訳でもないし」
そっと吟味するようにつぶやくと、シャリが唐突に笑った。
「シャロンって立ち直るのホント早いよね。やっぱり飽きないや」
「……光栄ね」
シャロンは吐き捨てるように言って、ベッドを迂回するように注意深く扉に近づいて行った。
「あ、シャロン」
「何?」
少しだけ振り返ってシャリを見ると、彼は少し上目遣いにシャロンを見ている。シャロンはなぜか狼狽して視線をさ迷わせた。
「フフ、君の熱烈なファンがおいでだよ」
「え」
シャロンが何のことか聞く前に、突然出口への扉が大きな音をたてて開いた。……まるでこの部屋の主役は自分であると宣言するかのように威風堂々とした、――アイアン・メイデン。
シャロンはそれを認識するなりシャリのことなんぞほっぽって逃げ出した。
とは言っても退路なんてある訳もなく、シャロンは何度も足を取られて転びそうになりながら、ベッドの向こうに走った。走りながら振り返る――鋼鉄の処女が間近に迫っていた。あれに体当たりされたら――!
シャロンはドアノブに手をかけると、全精力を注ぎ込んで手早く扉を開けた――鍵はかかっていない。
シャロンは半ば倒れるようにして部屋の中に転がり込むと、すぐに扉を閉めようと飛びつく。アイアン・メイデンが飛び込むのが早いか、シャロンが扉を閉めるのが早いか……
シャロンは全力でドアノブを掴んで扉を閉じた。そして鍵をかける。直後に、扉に何か硬くて重いものがぶつかるような音が響き、扉そのものが大きく軋む。シャロンは身をすくめた。
……しばらく様子をうかがってみるが、それきり向こうから物音は聞こえない。……何とか危機を脱したようだった。
シャロンはそこまで確認して、大きく息を吐いた。安堵感が、さざなみのように胸に広がる。
シャリを置いてきちゃったけど……まぁシャリなら大丈夫でしょ。
シャロンはそう自分に言い聞かせると、改めて自分が逃げ込んだ部屋を見る。だが、ランプを置いてきてしまったせいで、暗闇が広がるばかりだった。それほど広い部屋にも思えないが……
仕方なく、シャロンは小さく詠唱して火の精霊に語りかけ、明かりを灯すように命令する。すると、すぐに部屋中の光源という光源に炎が灯り、そして浮かび上がったのは――
「書庫?」
そこは書庫だった。くすんだ色の本棚が立ち並び、中にはいかにも古そうな分厚い書物がたくさん収められている。
ああ、そう言えば――、先ほどから鼻をついているのは、古い本の匂いだ。
シャロンは、もしかして本が飛び上がって噛み付いてくるかも知れないという恐怖を捨てきれず、いつでも対応できるように恐る恐る近づいた。
一歩、二歩、三歩……しかし何も起こらない。
シャロンは一番近い本棚の前で足を止める。さっと左右を見渡して、何もないことを確認した後、一冊の本を試しに抜いてみた。
それは緑色の装丁の分厚い本で、わざわざ角を使わなくても十分人が撲殺できそうな本だ。
タイトルは、……? 『古代の怪物とその起源』?
なかなか興味深いが、これじゃあ埒があかない。シャロンはきょろきょろと辺りを見回して、「シャリ? シャリ!」と呼んだ。
「そんなに連呼しないでも、フフ、聞いてるよ」
いつの間にかシャリが本棚の一番上に腰掛けている。膝に頬杖をついて、笑みもあらわにこちらを見下ろしていた。 シャロンはそれを見上げて口を開いた。
「悪いけど、一緒に探してくれる? 何か、分かるかも知れないし」
シャリはひょいと肩をすくめ、薄ら笑いを浮かべた。
「そんなに都合よく、行くとは思えないけどね」
「……なぜ?」
シャロンがややカチンときて聞き返すと、シャリは手をさっと広げて、立ち並ぶ本棚を示した。
「ねぇ、ここにある本を全部調べる気? 現実的じゃないよね」
「全部調べるなんて言ってないわ。手垢がついてるとか、何か目印があるとか……、そういう本を探せばいいのよ。そうでしょ?」
シャロンは言下に反駁して、『古代の怪物とその起源』を本棚に戻した。
「ふーん……、じゃ、僕はここで応援してるよ。がんばって! シャロン!」
手伝う気はないらしい。シャロンはため息をついて、一列ずつ本を確認して行った。
『世界の魔術』……『これであなたもプロ格闘家!』……『簡単クッキング百選』……
シャロンは足を止めてため息をついた。
「何よ、この節操のなさは。あの伯爵、どういう趣味してるの?」
シャリが頭上でアハハと笑い出した。シャロンは不機嫌にそれを睨み、「何がおかしいの」と聞く。
「いや、そんな変わった趣味の伯爵に見初められた君も、なかなかきわどいよねと思って」
シャロンは静かにその列で一番分厚い本を抜き出すと、両手で振りかぶってシャリに投げつけた。
「おっと、危ない危ない」
シャリはふわりと浮いて、軽々とかわした。本はその向こうに飛んで行き、盛大な音をたててどこかに突っ込んだ。
「よけないでよ! もう、我慢できない……! ホントにあんたって奴は!」
シャロンは自棄になって何冊も本を抜き取ると、手当たり次第に投げつけた。
しかしシャリはウフフアハハと楽しそうに笑いながら、全て踊るようにかわしてしまう。シャロンはますます躍起になって次の本を手に取ろうと――
「……ん? あれ、シャロン。その本、栞が挟んであるみたいだよ」
シャリは笑みを収めて、シャロンが次に投げようと手に取った本を指し示した。
「え?」
しかしもう、投げる体勢に入っていたので、急にはとまれない。シャロンは体勢を崩して本棚に頭から突っ込んだ。
「っ!」
シャロンが振り返ってみると、ちょうど本棚がシャロンの方に向かって倒れてくるところだった。シャロンは思わず目をつむり、顔を腕でかばおうとする。次の瞬間、大量の木が押しつぶされるような音が響き渡り、埃が舞ったのか息苦しくなった。
これ、死んだかも……
……心臓が跳ね、何秒が経っただろうか。シャロンが恐る恐る目を開けてみると、どうやらまだ生きていた。というか、気がつくと宙に浮いて――
「クスクス……、ホントシャロンって、何をしでかすか分からないよね」
どうやらシャロンは、シャリに腕一本で抱えられている、らしい。
「は、……! 離してよ!」
シャロンがもがくと、シャリは何がそんなに嬉しいのか、心底嬉しそうな笑みでもって答えた。一言。
「やだ」
「あ……え? ちょっと、離してってば!」
「それよりシャロン、コレなんだか分かる?」
シャロンは足をばたばたさせて抜け出そうと苦心したが、シャリは全く放す気がないのか、飄々ともう片方の手で一冊の本を掲げた。
さっきシャロンが投げつけようとした本なのか、真っ黒い栞が挟まれているようだった。
「あ、それ……」
シャロンはいったん抵抗を休み、しげしげとその本を眺めた。……表紙の文字を読もうと目をこらしてみるが、ミミズののたくったようなシャロンの知らない文字で綴られている。
「ねぇ、何て書いてあるの? シャリ」
シャリは初めて本に興味を示したかのように本を裏返したりしてしげしげと眺め、「これは、隣の大陸の文字だね」と口にした。シャロンは思わず身を乗り出して本を凝視する。
「え? お、お願い! 解読して!」
「えー、面倒だなぁ」
「お願い、ね!」
シャリは嘆息してシャロンを見る。そして、渋々と言った調子で床に降り立つと――シャロンもその時に解放された――、壁にもたれて本を開いた。
「えーと……『闇の怪物、その生態』。これがタイトルで、栞の挟んであるところから読むけど、いい?」
「ええ、お願い」
シャロンは胸に手をあてて、じっとそれを見守った。
「要約すると、こうだね。名前はシュランゲ。その怪物は、知能が高く、朝は赤子大のトカゲのような姿に擬態する」
「え、それって……」
「そう。永久の宝のことを言ってるみたいだね。続けるよ? シュランゲは捕食対象と定めた共同体や個人を無条件で守って、一定の範囲内に本人や周囲の夢を実体化させて、願いを叶えるんだって。ただしその対象は、人間に限るみたい」
「それでシャリには反応しないんだ……」
「そうだね。……シュランゲは、捕食対象に一定期間絶対服従する。歴史に登場するたび、まるで便利なアイテムのように使われるけど、シュランゲを体から離したまま夢の効果範囲から出ることはできないみたい。それにシュランゲを誰かに預けて遠くに捨てさせようとしても、いつの間にか戻ってきちゃうんだって」
「……え? 戻ってくるのに燃料が必要だって伯爵が言ってたけど」
「かつがれたんでしょ。怖がらせようとしてさ。まぁ信じる方も信じる方だけどね」
シャロンはシャリを睨んだ。どうしてこう、一言多いのだろう。
「……フフ、それで、完全に捕食対象を取り込んだら、シュランゲは牙を剥く。身も心も弱って、殺して欲しいと哀願する捕食対象を食べちゃうんだ」
シャリはそう言って、肩をすくめた。
「シュランゲにしてみれば、宿主の最後の願いを叶えただけなのかも知れないけどね」
「……ねぇ、今の捕食対象って、やっぱりあの……夢の少年?」
シャリは考え込むように首をかしげた後、頷いた。
「そうだね。すっごく珍しい怪物なのに、目をつけられちゃうなんてよっぽど運がないんだね」
シャロンはうつむいた。
「あ、ちなみにシャロンも今は捕食対象に入ってると思うよ」
「……」
「……あ、シャロン。喜んで。面白いことが書いてあるよ」
シャリは字面をずっと指でなぞっていたが、突然ぱあっと顔を明るくしてシャロンに言った。
「何?」
シャロンはシャリのもたれている壁に自分も背を預けると、本を覗き込んだ。……やっぱり読めない。このみみずののたくったようなのは、本当に人間の使う文字なのだろうか。シャロンには逆立ちしても書けそうにない。
「ほら、見て。『シュランゲは、朝はトカゲの姿だが、夜になるとまれに正体を現して巨大な蛇になる。したがって、シュランゲの近辺では大蛇の目撃例が絶えないから、そういった噂のあるところに近づくのは厳禁だ』」
「蛇……?」
シャロンはごくりと喉をならした。
と、ちょうどその時――さっき逃げ出してきた巨大な寝室の方から、何か大きなものを引きずるような、不気味な音が聞こえてきた。
「え、何この音……」
というか、こういうパターンの時って、大体――
シャリが笑った。その笑い声にかぶさるように、また寝室の方から大きな音が聞こえてくる。
「……なんか、嫌な――」
予感、と続けようとしたが、その時突然、先ほどアイアン・メイデンがぶつかってきた時とは比べ物にならないほど大きな何かが扉を――、というか、扉側の壁を――揺らしている。轟音が鳴り響き、パラパラと上から何かの欠片が降ってきた。
シャロンは部屋全体が揺れるので、思わずシャリの腕を引っつかみ、息もできずに壁を凝視した。
次の瞬間、壁が膨らんだように見え、そして――、飴細工のように、木端微塵に砕け散った。
もうもうと粉塵が立ち込め、視界が真っ白になった。しかしそれも刹那のことで、すぐに晴れる。すると、煙の向こうから姿を現したのは、緑色のぬめった光を放つ巨大な瞳だった。爬虫類のように瞳孔が縦に裂けている。その瞳孔はシャロンの身長と同じくらいの高さだった。
「……」
シャロンはもはや自分が何を見ているのかもよく把握できずに、かかしのように突っ立っていた。
――が、何度も目を瞬いて何とか自分に戻ると、浮きそうになる意識を必死に留めながら、姿を現したものの全貌を掴もうと目を皿にする。
そこを這っているのは、明らかに間違いなく、蛇だった。ただし、瞳が人一人分ほどの大きさがある蛇。全体を見れば船か何かのように大きい。
この蛇こそが、あのトカゲ――、シュランゲなのだろう。あの馬鹿に大きいベッドの使い道がようやく分かった。
蛇がシャロンを見て、ばちっと瞬きした。
「……っ、い、い、いやーーー!!」
シャロンは瞬間的に背筋を這い登った悪寒を堪えきれず叫び、手ごろな障害物――シャリの後ろに回った。
「? 騒ぎすぎだよ。何も、今すぐ殺されるって訳じゃないんだからさ。……その後どうなるのかは知らないけど」
シャリに半ばからかうような顔で肩越しに見られたが、シャロンは何度も何度も首を振った。妙に寒気がして目が自然に潤んでくる。
「……ごごご、ごめんなさいシャリ。でも、本当に、私蛇だけはすっごく苦手でもうホントに……」
どもりながらシャリの肩越しにシャロンは蛇を覗き見た。
「よよ、よく平気で話してられるわね。私初めてあなたを見直したわ」
「邪竜まで倒しておいて、まだそんな口が聞けるなんて、僕の方こそ見直したよ、シャロン」
シャロンはさすがにムっとして黙り込んだ。シャリはそんなシャロンにも、さっきからこっちを観察している蛇にも無頓着にニコニコとこちらを見て機嫌がよさそうだが、この状況で何をどうやったら機嫌良くできるのかと不思議でならない。
と、その時蛇が巨大な体をズルズルと引きずり、さらにシャロンたちの方に近づいてきた。
「……!? ど、どうしようシャリ」
「あらら。この子、さすが伯爵様の願いを叶えようとしてるだけあって、ずいぶんとシャロンがお気に入りなんだね。僕も見習わなきゃ」
シャロンはシャリの肩を引っつかんでガクガクと揺さぶった。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、どうにかしなきゃどうにかしなきゃ、……! こっち来る!」
蛇がさらに近づいてくる。シャロンはそれを見て、大きく目を開いた。
「逃げるしかないでしょ」
シャリはそう言って、少し振り向いてシャロンに手を差し出した。
「……え」
シャロンが一瞬眉をしかめてその手を見ると、シャリはもう待つ気もないのか強引にシャロンの手を握った。
「あ、ちょっと……シャリ、」
手を引っ張られて、シャロンは声をかけた。
「?」
シャロンはシャリの不思議そうな顔を三秒ほど見つめて、さっと目を伏せた。
ずっとこうならいいのにと望んでも、それは望めないことなのだろう。こんなハプニングでもなければ、会うことすらきっと私はできない。私はシャリに甘えたくないし、シャリも無意味に会いに来たりはしない。だから、これが一緒に過ごせる最後の時なのかも、知れなかった。
「……なんでもない」
でも、それを嘆いたりは意地でもしたくない。それに、これは……こうなるのが分かっていて、私はレムオンと離れたのだから。
シャロンは駆け出した。