古臭いカルラの部屋で、ラシェルは痛いほど唇を噛んでいた。
破滅の足音が近づいてくる。一体誰なのだ? こんなシーンを見つけられたら、もうお終いだ。
言い訳のしようがない。カルラか、それとも――
冷えた、汗が。頬を、伝った。
ラシェルは、追い詰められたウサギのような視線で、逃げ場はないかと探る。
――時間がない。時間はないという言うのに、足音は少しずつ近づいてくる。
逃げなければならない。今すぐに。コツコツコツ……! コツコツコツ……!!
ラシェルは小さく息を呑んだ。血走った目で周囲を探る。目についたのはクロゼットだった。反
射的に飛び込んで、扉をぴたりと閉める。
自分の心臓が跳ねているのを、彼女は感じる。ひどく寒い。寒いのに汗が止まらない。
息を潜めていると、扉の開く音が聞こえてきた。――来た!
鼓動が一気に高鳴る。
足音は近づいてきた。コツコツコツ……!!! コツコツコツ……!!!!
近づいてくる。どうして。
ラシェルは引きつった顔で、クロゼットの壁に張り付いた。
コツコツコツ……!!!!!
そして。
……戸が開いた。差し込んでくる光。ラシェルはまぶしさに目を細めた。
「あれ? ラシェルじゃん。どしたの? 汗びっしょりで」
……
ひょっこりと顔を覗かせたのは、シャリだった。
「……へ?」
ラシェルの目が点になる。
シャリは不思議そうな顔でそれを見た後、首を傾げた。
「遅いから、心配して来ちゃったよ」
「……あらそー。そりゃー、どーも。ありがとー」
「アハハ。某読みだね」
「そうねあはははは」
あはは……と二人は笑いあった。ラシェルはガクっと全身の力を抜く。
「何よ……カルラかと思ったじゃない」
「そう言えば、首尾はどうだったの? 証拠は見つかった?」
シャリはそう言って、揶揄するような色を目に浮かべた。戸にもたれかかって、偉そうにラシェ
ルの目を覗きこむ。
ラシェルはそれで我に返った。
「あっ、そうだった! 見つけたのよ、そこで手紙を――」
コツ、コツ、コツ……
二人は、ビクっと硬直した。
……顔を見合わせる。
「……誰か、」
「来るね」
しばしの沈黙。
ラシェルは一瞬の空白をはさんだ後、輝かんばかりの笑顔でクロゼットの戸を閉めようとした。
その縁に手を掛けて、同じく輝かんばかりの笑みのまま、ギリギリと力比べを始めるシャリ。
高い靴音が連続する。どうやらこちらに近づいてくる。
ラシェルの顔から笑みが消え、同時にシャリの口元が引きつる。
「くぬぬぬぬ……」
力を込めるあまり、ラシェルの顔が真っ赤になった。
「……」
シャリも負けじと応戦する。
が、いよいよ部屋の扉が開こうとするその瞬間、シャリは不意をついてラシェルの腕の下を潜り抜けた。
と同時にパタンとクロゼットが閉まり、ほぼ同じタイミングで部屋の扉も開く。
『……』
二人して耳を澄ます。部屋の中にいる何者かは、真っ直ぐ歩いて行った後、クロゼットを通り過ぎて机の方に移動したようだった。
ひとまず、ほっと息をつく二人。
……沈黙。
ラシェルはひそひそ声で囁いた。
(ちょっと、変なところ触らないでよ……)
(しかたないでしょ? 狭いんだから)
(ちょっ、どこ触ってんのよ変態! やだってば……)
(あ、ゴメン)
(ゴメンじゃなくって、さっさとその手を……ぎゃー! 動くなー!)
(動けって言ったり動くなって言ったり、ラシェルは気まぐれだなぁ)
(気まぐれ違う! わざとやってるでしょ!!)
ラシェルは思わず身じろぎした。ゴトっ……っと大きな音が鳴る。
硬直するラシェル。
足音の主がたてていた、ごそごそという音がぴたりと止んでいる。それが意味するところは、
ラシェルはハッと口を押さえた。
しかし時すでに遅く、足音は警戒するような、慎重な感じで迫ってくる。ラシェルは仰け反りそうになったのをこらえた。
手が震える。足音が近づいてくる。震える。近づく。
そうだ、インビジブルを唱えて――いや、間に合わない!
そして、ついに足音がクロゼットの目の前で止まり――
「インビジブル」
シャリが早口につぶやいた。それと同時に扉が開いた。
カルラであった、と思っていただきたい。
彼女はそこに立って、難しい顔をしながらクロゼットを覗き込んだ。
目が、合う。
ラシェルはだらだらと汗をかきながら、息さえできずに喘いだ。
永遠のように長い、沈黙。
カルラは首を傾げて、パタンとクロゼットを閉めた。
「気のせいにしては、はっきり聞こえたと思ったんだけどなぁ……」
遠ざかって行く声を聞きながら、ラシェルはほっと息をつく。
シャリがにっこりした。
「良かったでしょ? 僕がいて」
そもそもシャリが来なければ、とっくに手紙を取って逃げ出していたはずなのだが、ラシェルは安堵のあまり、勢いで頷いた。
「ありがとう。助かったわ、ホント、で――」
パタンと、扉の閉まる音がした直後、ラシェルは半眼になった。
「……いつまで引っ付いてる気?」
ラシェルはさっさとクロゼットから出た。
シャリも後に続く――こころなしか、残念そうに見えるのは果たして気のせいだろうか。
ラシェルはあらゆる疑いを込めてシャリを見ながら、彼が出てくるのを待って、手紙の件を話した。
「……で、どこにあるの?」
シャリが、飽くまで冷静に言った。ラシェルはそうだったと答えて、文机に向かう。
「えーっと確か、この辺りの引き出しに……」
ごそごそと探る。
……探る。
…………探る。
………………ない。
ない!
ラシェルは顔を紙のように白くした。
「……ラシェル?」
「……ない」
「え?」
「ない、なくなってるのよ! さっきまで、あったのに……」
シャリは疑わしそうな顔をした。
「えぇ? 本当? 最初っから、ラシェルの夢だったんじゃないの?」
「違うわよ! ホントにないんだってば……!」
「なんてね」
シャリは微笑む。
「分かってるよ。ラシェルがウソつくはず、ないもんね?」
「……もう……!」
ラシェルは悔しさと苛立ちに任せて、激しく地団太を踏んだ。
「とにかく、ネメアの暗殺計画が書いてあったの! 激に見せかけて、あれは暗殺計画なんだわ。あのカルラの――」
「証拠がないんじゃ、いかんともしがたいよね」
シャリは静かに言った。
全くその通りであったので、思わず黙りこむラシェル。
シャリは全くマイペースに続ける。
「……、じゃさ、こうしない? 劇の途中で暗殺が行われるんでしょ?」
「う、うん……」
「じゃ、同じく劇に出演してる僕達って、すっごい近い位置にいるよね」
「それは、そうだけど……まさか、」
「そう。そのまさか。僕達で、ネメアの暗殺計画、止めちゃおうよ」
「……えぇえええ!!!??」
ラシェルは叫んで仰け反った。なだめるように両手を付き出して、へらりと笑う。
「ま、まぁ落ち着いて。まずは、皆に相談しましょ――」
「駄目だよ。カルラのことだから、突然態度が変わったら気づく。確実にね。そしたら、もうチャンスを失うことになっちゃうんだよ。千載一遇の、チャンスをね」
ラシェルはあーとか、うーとか意味のないことを口にしながら、頭を掻き毟った。
ええい、もうどうにでもなれ。
「どうやって!!?」
「そうだね……」
シャリはニヤリとした。彼独特の、悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「ネメアに怪しい奴が近づいたら、さりげなくガードする。もちろん、全部アドリブでね」
ラシェルはぽかんとした。