いつもは人気のない公園のステージに、今日は大勢の人が集まっていた。ステージは、紫色の天蓋が立てられ、覆いになっている。
木製の観客席が立ち並んでいた。その中でも木製の柵で囲われた最前列に、ネメア用のやたら豪華な椅子が置かれている。
人々は顔を見合わせて、今回の劇について話し合っていた。
「カルラ様じきじきの演出だって言うからな」
「音楽も、カルラ様作曲らしいわ」
「それに、主演のシスティーナ役がすっごい美少女だって」
「ああ……ウルグ役の人、凛々しいわ」
言われ放題だが、そんな風評を知らぬまま、緊張に顔を強張らせているのはラシェルだった。
天蓋でできた舞台袖に、一応の控え室のスペースが確保されている。ラシェルは今や、重たくて黒い鎧を身にまとっていた。短い黒髪のカツラをかぶり、化粧をほどこした彼女は美しかった。というか、むしろ――しごくもったいないことに――凛々しかった。
身長は少し足りないくらいだが、何せ相手役がシャリである。問題ない。
ラシェルは濁った鏡を覗きこんで、不安そうにカツラの位置を直した。
「……うー」
唸って見る。鏡の中にぼんやりと映り込む彼女の姿が不細工に歪んだ。
「……あー」
自分の顔を引っ張ってみる。これは後ろにいた化粧係のユーリスに止められた。
「もう、せっかくの化粧が落ちちゃうじゃないですか! シャリさんはもう、スタンバッてるって言うのに……きゃ、ネメア様!」
ユーリスが飛び上がって退いた。
布をくぐって顔を出したのは、獅子帝のいかめしい皺だった。もとい顔だった。
「ラシェル」
彼は一言だけラシェルの名前を呼ぶ。
何かと思って近づいて来るのを見ていたラシェルは、ネメアがいつになく神妙な顔をしていることに気づいた。
「……調査の事だが」
「あ、あれね。報告した通り、どうも何か企んでるみたいよ」
「……嫌な予感がするのだが」
ラシェルは大らかに笑った。
「大丈夫よ。ちゃんと考えてるから」
「……本当だろうな。何やら、死よりも恐ろしいことが待ち構えているように思われてならない」
「あっははは。大丈夫だって」
「……シャリの性格が移ったようだな、ラシェル」
「あっははは……ハっ!?」
ラシェルが我に返って青くなった頃には、ネメアの姿ももうなかった。
「ラシェルー」
カルラがひょこっと顔を出した。
「そろそろ午前の部、開演すっからねー」
ラシェルはいよいよか、と気を引き締めた。
心臓がバクバクと脈打っている。緊張で胃がふわふわしているような気がする。たとえ自分が出演する、なんてことが信じられなくても、時は待ってくれたりしない。
舞台には、すでにセットがそろっていた。岩の重厚な作りまで再現したかのような、バルコニー。
それを覆い隠すように立つ、木々。
カーン、と鐘が三回鳴る。
ざわざわしていた客席が、静まり返った。
いよいよ、幕が開く。
『原題 システィーナとウルグ 脚本 カルラ・コルキア』
『黄泉の乙女』
舞台は夜だ。心に染み渡るような、静かで心地よい音楽が流れ出した。
星々の祝福を受けたような黒髪の少女が、石造りのバルコニーに立っている。
彼女は手すりに細くて白い肘を乗せ、薄紅色の唇から吐息を落とした。
「……この身を焦がす思いが、心が、どうか愛に変わるなら」
再びため息をついた拍子に、長い黒髪がしとやかにすべった。流れて行く水のように清らかな髪に光が当たり、幻のように揺らめいた。
彼女はそっと、目を閉じる。
まさしく象牙のようになめらかな肌が、月明かりにみずみずしく輝いている。震える長いまつげは、その美しい瞳を彩る花弁のようだった。その唇は、さながら小さな薔薇だった。清楚な色合いをしていながら、口付けを求めるように妖しく光を放つ。
「……ウルグ様」
その唇が、震えるような声をつむいだ。かすかで、今にも消え入りそうな声。だけれども、その声には真摯な思いがこもっていた。それは夜の闇に、いかにも悲しげに響き渡り、名残惜しげな余韻を残して消えた。
愛しい人への、叶わぬ恋をかの人は思っているのだった。
「……どうか」
白い頬を、涙がすべった。
真っ白な神殿。否、そこは王城だった。
真っ赤なビロードでできた道の脇に、そわそわと華美な身なりの人間たちが控えている。
ビロードの続く先には、たった一つ、彼のためだけに用意された玉座があった。
そして今、その道を堂々と歩いてくる人間がいた。否、人間ではなかった。
鴉の羽のように、複雑な色彩をした黒い髪。ぬらりと光る、黒の鎧。堂々と腰に下げた、一振りの剣。
彼は王者、神であった。
「勝利、おめでとうございます!」
彼は鋭い視線を臣下たちに飛ばすと、どっしりと玉座に腰掛けた。なおもねぎらいの言葉は続く。だがウルグはどことも知れぬ虚空に視線を飛ばし、何事かを考えている様子だった。
「ウルグ様」
一人の家臣が、踊るように近づいてくる。
彼は気もそぞろな様子で、それに目をやった。片膝をついて、顔を伏せている。豊かな金髪の、年若い大臣だった。
「何だ。言って見ろ、アルハザード」
家臣は少し視線を上げた。狡猾そうな瞳が、妖しい光を放つ。
「……皆ねぎらっているのです。どうぞ言葉を掛けてやってください」
「今それどころではない」
神は忌々しそうに腕を振った。
「これは、これはいかがしたことか。……ウルグ様ともあろうお方が? バイアス様の弟で、天空神のご子息であらせられるあなた様がそのような発言を」
アルハザードは失笑めいた笑いを吐いた。
彼がそう言った瞬間、周囲の動きと音楽が止まる。
アルハザードは前に出て、観客に向かって毒づいた。
「この、忌々しい愚王め。このような者が神だなどと、何の戯言か? 俺は認めぬ、認めぬぞ……」
アルハザードはそのまま歩き去る。
再び流れ出す音楽。
ウルグが立ち上がった。
「我は失せるとしよう。今宵の宴では、招かれざる客、いや招かれざる主君のようだからな」
ウルグは、周囲が止めるのも聞かずに颯爽と歩き去った。まさしく、彼の向かうべき場所はあそこ以外にないのだった。
再び、バルコニー。
幾重もの布が重なってできたような、見事なドレスの少女。動くたびに、さらさらと心地よい絹すれの音が響いた。
彼女は滴り落ちる涙もそのままに、夜空を見上げていた。
「ウルグ様……ウルグ様、どうしてあなたはウルグ様なのですか」
彼女は優雅な仕草で、空に華奢な腕をのばす。
「あなたがその身分を、神という身分をお捨てになるのであれば、わたしはもう、今日からシスティーナではありません。ああ、どうしてあなたは神なのですか。いえ、あなたは神などではありません。だって、あなた様の神に、瞳に、神の刻印でもあるというのですか。ああ、神が何だと言うのでしょう。この身が、せめて人でなかったら!」
「その言葉、」
精悍な表情で、ウルグが木々の間から姿を現した。剣に軽く手を置いて、自然な調子で微笑む。
「確かにお聞きいたしました。あなたが私を神でないと言うのなら、今日から私はもう、ウルグではありません」
「まぁ! どうして、どうやってこんな所までいらしましたの。ウルグ様……そうですわね? 夜が深くて見えないけれど、そのお声はウルグ様」
「答える名前は、たった今より捨て去りました。システィーナ。システィーナと、お呼びしてもよろしいでしょうね?」
ラシェルはそう尋ねながら、シャリが一瞬だけ、ニヤリと笑ったのを見た。
そして彼女は、いかにも悲しそうに目を背ける。
「……嫌ですわ」
「は? ……と、言うと……我が姫、何とすれば、許してくれるので」
ラシェルはとたんにしどろもどろになった。幕の影で、カルラがぎりぎりと台本を握り締めているのが見える。
彼女は唾を飲んだ。
「ああ、ウルグ様。あなたの愛を、お見せになって。でなければわたし、その名で呼ばれることに耐えられませんの……」
「耐えられないって、何に耐えられないんだろうな」
「原作にこんなシーンあったっけ」
「オリジナルなんじゃねーの?」
観客席が少しざわめく。ラシェルは焦ってカルラを見た。
カルラは何やら口ぱくで伝えようとしている。
『イ ケ イ ケ ゴ ー ゴ ー 』
…………ゴーサイン出しやがった。
ラシェルは心中で悪態をつきながら、背をピンとのばした。
「そうは言っても、あなたの怒りに触れるのが怖い。私にどうぞ助けをください、我が乙女よ」
シャリは微笑んで、ドレスの袖で口元を隠した。
「ああ、でしたらわたしに対する愛を、その口で、そのお言葉で語ってくださいな」
ラシェルは、驚きのあまり仰け反りそうになった。……のを必死でこらえた。
ちなみに、ラシェルは、こういうアドリブが極端に苦手である。
「……ええと」
冷や汗をかくウルグ。すでに仮面なんぞ砕け散って粉々である。
しかし、度胸だけはあるのがラシェルの取り柄だった。
「そのように、言われても……私は生来口下手で、あなたのお気に召すかは分からない。それでもいいなら」
「お気持ちこそが重要です」
ラシェルはキリっとした顔つきに戻った。
しかしそれはどちらかと言うと、傲岸不遜なウルグの顔ではなく、颯爽とした冒険者、ラシェルの顔。
「あなたが私の目の前に現れたその時、あなたは私にとって好ましい立場ではなかった。このような感情を抱くなど、思っても見なかった」
シャリは黙って聞いている。
観客がまたざわめいたが、ラシェルは生来の度胸で無視した。
「だが、私はあなたと共にあると心が安らぐ自分を感じる。あなたが愛しい。どうぞその名を呼ばせて欲しい」
シャリが悲しそうに微笑んだ。
「……よろしくてよ」
「ありがたい。あなたの許しこそ、我が喜びなれば」
「それよりも、今日は何をしにこのような場所へ? ここへ来るのは、さぞかし大変でしたでしょうに」
システィーナはいたわるように、ウルグに言った。
しかしウルグは、苛立たしげに首をふる。
「我にばかり言わせておいて、あなたはどうなのだ。その愛、戯言か、それとも真実か」
「……まぁ、乙女の告白を立ち聞きしておいて、言う言葉がそのひどいお言葉でしょうか」
「すみません。ただ私は臆病ゆえに、不安なのです、姫よ」
「まぁ、神が、臆病だなんて。それにしても、あなたはまるでわたしの名前を呼んでくださらないのですね」
ウルグは真剣な眼差しを、システィーナに向ける。
「あなただからこそ、です。システィーナ」
「……では、言いましょう。嘘偽りなく。言葉に対する保障が無為だとしても、わたし、あえて真実であると言いますわ」
「聞こう。その言葉こそを待ち望んで止まないのだ」
詩を朗読するように、声をひそめてウルグがつぶやく。
「わたし……わたしも、あなたが愛しいのです」
「ああ、システィーナ」
ウルグは歓喜に打ち震えながら、バルコニーの上にいる想い人に手をのばした。
「もしも私を信じてくれるなら、この腕の中に飛び込んで欲しい。きっと受け止めてみせる、あなたの愛と共に」
「ウルグ様……あなたなら、信じられます。あなたにわたしの全てをゆだねて、ここから落ちるのもいい」
そう言うと、システィーナは目をぎゅっとつむって、バルコニーからまっさかさまに落ちた。
ウルグはそれを危ういところで抱きとめる。羽毛を抱きとめたような、軽い音しかしなかった。
「……まさか、私を残して行こうなどとは思いませんね? システィーナ? あなたがいなければ、私は……」
システィーナはふるふると首を振って、その先を言わせない。
「あなたはわたしの心をも、受け止めてくださったのでしょう」
「……行きましょう。末期の時まで、共に」
二人はうっとりと見つめ合いながら、手を取り合って歩き去った。
ロマンチックな曲が流れる。