急速に復興の道を歩もうとしているロセンの町並みは、以前の実態を知る者から見れば意外なほど賑わっていた。浮かれている、とでも評せばいいのだろうか。ロセンが暗愚王ペウダの支配から解放されてしばらくしても、お祭りムードが抜けきらないのである。
大きな布の塊を抱えた若い娘が、壁に貼られている紙を見て足を止めた。一緒に歩いていた友人の娘を呼びとめ、しげしげとそれを見る。
『カルラ劇団 新たな劇団員を迎えた我等がカルラ劇団は、来る一ヵ月後、ディンガルの偉大なる支配者のために劇を上演します! タイトルは『黄泉の乙女』。主演は何とあの『赤き旋風』ラシェル・ルー! 一般公開も予定しているので、請うご期待!』
二人は顔を見合わせて、どんなものだろうかと話し合っていた。しかし突然、その顔の側をぬっと太い腕が通る。
腕は紙を乱暴に引き剥がすと、そのまま持って行ってしまった。驚いて娘たちが振り返ると、青いローブ姿の男がその貼り紙を凝視していた。
ローブ越しにでも分かる筋肉質な体と、高い身長。娘達は息を呑んですごすごと歩み去って行く。
男はそんな事には構いもせず、しばらく立ち止まって紙を眺めた後、さっと踵を返した。
オイフェはゼリグからその貼り紙を受け取るや否や、力いっぱいビリビリに破り捨てた。息も荒くその残骸を憎憎しげに見やって、ツンとそっぽを向く。
ロセンで一番高い宿屋の一室だった。ゼリグは身にまとっていた青いローブを脱いで自分の持ってきた張り紙の残骸をじっと眺め、ドルドラムがベッドに腰かけてやれやれと首を振る。
オイフェはそんな二人の様子すら気に入らず、憤然と体をベッドに横たえた。
「カルラ――彼女、まだ諦めてなかったのね……」
口惜しげにそう言って、オイフェは天井を睨んだ。
ドルドラムはため息を吐き、
「こりぬ奴じゃな、オイフェは」
「何でよ」
オイフェは機嫌悪くドルドラムを睨みつけた。
ドルドラムはその、竜をも射殺せそうな視線を平然と受け止めて言葉を返す。
「また以前のように、妨害工作するつもりかね?」
烈火のような声が弾けた。
「気に入らないのよ!」
オイフェはさっと身を起こし、ドルドラムとゼリグを順番に睨んだ。
「カルラ――! あの、取り澄ました笑顔も、ネメア様に対する打算まみれの発言も全部ね。おまけにあの、無限のソウルが主演ですって? これは、私たちに対する嫌がらせでしょう?」
「最初の主役をノイローゼにさせたのはお前だろうに……」
ゼリグが小さな声で言葉をはさんだが、オイフェにきっと睨まれてすごすごと口ごもる。
オイフェは舌なめずりするように言葉を吐いた。
「いいわ。私への挑戦、しっかと受け取ったから……覚悟しなさい、ラシェル・ルー!」
オイフェはここぞとばかりに憎しみの炎を燃やした。
その背後でドルドラムとゼリグがやれやれと首を振った。
「へっくしゅんっ」
ラシェルは買い物袋を抱え直して、鼻の辺りをこすった。
「……やだ、風邪かな」
額に手をやって見るが、特に普段より熱いということもない。ラシェルは妙な顔をした。風邪でなければ噂話でもされているのか。
ロセンの、平民街である。辛うじて破壊を免れた民家が数多く立ち並んでいるが、あまり活気はなかった。手の空いている者は復興の手伝いをしに行っているのだろう。
ラシェルはいつものクロースに剣帯、そこに下がった一振りの剣といういでたちで歩いていた。その腕一杯に買い物袋が抱えられている。
カルラに頼まれた買い出しの帰りだった。
ラシェルは歩きながら、人使いの荒い少女だと内心ため息を吐く。そもそも今回の劇だって、彼女のパワーとシャリの口車に乗せられた形だ。
もしかして、共謀していたりしないだろうか――と、彼女は二人の姿を思い浮かべた。
……すっごい仲良さそうな気がするのは気のせいだろうか。
「ん……?」
ラシェルは、不意にもう一度鼻がムズムズするのを感じた――いや、ムズムズというよりこれは、
「煙い……」
煙特有の、息苦しい臭気が辺りに満ちている。
ラシェルは胸騒ぎを感じ、足を早めた――と、前の方にある一件の家から煙が立ち上っている。ラシェルは買い物袋を取り落として、見向きもせずに駆けだした。
近づくと、一軒の家から炎が吹き上がっていた。悪趣味なデコレーションのように窓という窓から炎が噴き出し、近くにいるだけで熱気に汗が滴り落ちる。
人だかりができていた。一列に並んでバケツリレーをしているようだったが、すさまじい火勢のせいであまり効果をなしているとも思えない。ラシェルは何か手伝えることがないかと辺りを見回した。
「助けてぇ! お願い、お願いだからぁ!」
悲痛な叫び声に目をやると、一人のふくよかな女性が取り抑えられていた。髪を振り乱し、鬼気迫る形相で、必死に家の中に手をのばそうとしている。
ラシェルは駆け寄った。
「どうしたんですか?」
「坊やが、坊やがまだ中にぃ!」
ラシェルは聞くなり、後先考えずに家のへと飛び込んだ。どよめきの声が後ろから追いかけて来たが、ラシェルは見向きもしなかった。
暑い。そこかしこから炎が上がり、天井まで嘗め尽くしていた。どうやら玄関のようだが、全体が真っ赤に染まって何が何やら分かったものではない。汗が落ちる。
ラシェルは咳き込みながら、叫んだ。
「誰か! 誰かいる!? いるなら返事――」
と、どこかから小さな泣き声が返ってきた。ラシェルは迷わず声のする方へ駆け込んだ。
どうやらそこは、寝室だったらしい。もはやどこを通っていいのかも分からないほど炎が蔓延している。
それでもこらえて進むと、扉の近くに一人の少年が倒れているのを見つけた。ぐったりとして意識がない――さっきの声が最後の力だったらしい。
ラシェルはとりあえず炎を避けながら少年の所まで行くと、背負った。剣帯を一旦外して少年の腰に回し、固定する。
そのまま、頭を低くして煙を吸わないようにしながら、小走りに外へ向かう。
すると、すぐに玄関が見えてきた。少年の母親が、涙に頬を濡らしてラシェルを見ている。ラシェルは大丈夫、というニュアンスを込めて頷き返し、――
――そうとした丁度その時、悲鳴のような音をたてて梁が斜めに傾いだ。そのままラシェルの方に倒れかかってくる。ラシェルは咄嗟に子どもを抱きかかえて床に伏せた。風が唸りを上げて吹きつけた。
――もう駄目だ――
思ったその瞬間、それにも勝るような――まるで雷が落ちたかのような轟音が響き渡った。次いで、すぐ側を何か重いものが倒れる音がする。顔を上げると、雷にでも撃たれたかのように黒焦げになった梁が、ラシェルのすぐ脇でぷすぷすと煙を上げている。
後、少しずれていたら――
ラシェルはぞっと青ざめ、それから我に返って子どもを抱き上げると外に飛び出した。
「坊や!」
ラシェルは子どもを引き渡し、口の中で小さく呪文を唱えた。精霊がラシェルの周りに集まってくる。
「――キュア」
白い光が瞬いた。金髪の少年が母親の腕の中で、薄っすらと目を開ける。
歓声が上がった。何度も礼を述べてくる母親に苦笑いで返したラシェルは、荷物袋を拾いに行こうと踵を返し、
「……ん?」
不意に、遠くに見える影が気になった。
真っ黒なローブを着た、いかにも挙動不審な姿。……チラリと覗いた顔は、ラシェルにとって見覚えのあるものだった。
「ヴィアリアリ……どうしてこんな所に?」
王妃エリスの密偵である。カルラの居城、ロセンにロストールの間者とは、どうもきな臭い。カルラの嫌疑と何か関係あるのだろうか?
ラシェルはそのまま、ゆっくりと近づいて行った。彼女は何か一人ごとをつぶやいている。
「ここじゃ目立つかな……」
そう言うなり、彼女はすたすたと歩いて行ってしまう。
ラシェルはその後をこっそりとつけた。
火災現場では、未だに必死の消火が続けられていた。
母親は息子の肌に残った黒い煤をハンカチでぬぐい、自分も消火活動に加わるため、リレーの先頭に立つ。
危うい所で命の助かった少年は、その様をぼーっと眺めながら疲れてウトウトしていた。
「まったく……」
と、その時突然、金髪の少年の横に、一つの影が生まれた。
少年はびっくりして振り返る。
いつの間にか、年の頃なら十五、六の、真っ黒な服を着た少年が立っていた。
黒い服の少年は、まるで初めてその存在に気づいたかのように金髪の少年を振り向くと、にっこりと微笑んだ。
なぜか少年の背を冷たいものが駆けた。
「せっかく助けてあげたのに、さっさと行っちゃうなんてひどいよね。ラシェルはさ」
黒服の少年は軽い声でそう言うが、金髪の少年は、底の知れない恐怖のあまり小刻みに震え出した。
「ホント、ひどいよねぇ……」
黒服の少年は、そう言って、ハッとするほど艶然とした頬笑みを口に乗せた。無造作にもう一人の少年の頭を撫でる。
少年はとたんに泣き出した。
黒いローブのヴィアリアリを追いかけたラシェルは、公園までやって来ていた。ちなみに、この先には宮殿しかない。これはいよいよ怪しい――
ラシェルが思っていると、ローブ姿は噴水の少し手前ですっと立ち止まった。
ラシェルも合わせて止まる。
と、またもローブ姿が何かをつぶやき――
突然、ものすごい量の蒸気が吹き上がった。辺りの木々から一斉に鳥が飛び立ち、たむろしていた人々が何事かと目を瞠る。
ラシェルはしまった、と思った。目くらましだ。
案の定、蒸気が晴れて見ると、ヴィアリアリの姿はきれいさっぱり消えていた。
尾行に気づかれていたらしい。
ラシェルは内心、舌打ちしたい気分で、足早に噴水へと近づいた。何か手がかりでも残っているかも知れない。
ラシェルが噴水の中に手を入れようとしたその時、
「アハハ。うまく撒かれちゃったね」
「シャリっ……?」
ラシェルはびっくりして振り向いた。その拍子に、手から水滴が飛ぶ。
シャリはラシェルが向けた疑問の視線には構わず、ゆっくりと噴水に近づいて、手のひらで水をすくった。
「てだれだね」
彼は手を傾けて、キラキラと輝く水をこぼした。
「……彼女、カルラに会いに来たんじゃないかな?」
シャリは、ハッとするような、透徹した眼差しをラシェルに向けた。
ラシェルは顔を背ける。
「……別件かも知れないじゃない。第一、ロストールが何で……」
「例えば」
シャリはラシェルの言葉を遮り、滔々と語り出した。
「カルラがロストールに寝返ろうと考えているとして、ロストールに信用されようとしたら何が必要?」
「え?」
「いいから答えてよ」
「……信用されたかったら、手土産でしょ。ディンガルの将の首とか持って行けば、――!」
「そう」
シャリは短く言葉を切って、目を輝かせた。
「もしかしたら、劇にかこつけて、ネメアか誰かの首を取ろうとしてるのかも知れないよ」
「そんな馬鹿な」
ラシェルは一言で切って捨てながらも、胸騒ぎを抑えられずにいた。
「ロストールみたいな、放っておいても滅びるような国に、カルラが寝返る訳ないわ」
シャリは口をつぐんだが、その瞳はまだ妖しく輝いていた。
そんなはずはない、とラシェルは思う。だが、素直に笑い飛ばせない自分がいた。
ネメアの不吉な読みは、今ここに来て、現実味を帯び始めていた。