何者かに妨害工作を受けてから三日ほどが経った。
今やすっかり稽古場と化した広間の中央で、ラシェルが赤い髪を振り乱しつつ仁王立ちしている。その眼差しは煮えたぎる地獄の釜めいてぎらぎら輝き、周囲で稽古を続ける一同を睨んでいた。
システィーナ(シャリね)が、ウルグの暗殺を狙う男爵(脇役はユーリス)に、自分の思いを打ち明けるシーンである。
裾の代わりに布を腰に巻きつけたシスティーナ(しつこいようだけどシャリのこと)は、憂いを帯びた瞳でうつむき、胸に手を当てた。
ため息を落とす。
「ああ、この思い、どうしたらいいんだろう? どんなに愛しく思っても、僕たちが結ばれることはないのに……」
「甘い!」
「え?」
ラシェルは飢えた獣のような目でずんずんとシャリに歩み寄り、目の前でいかにも威厳たっぷりに腕を組んだ。
「シャリ、前々から思ってたけど、まさか『僕』だの『だろう?』だのの口調のまま演技する気じゃないでしょうね」
「どーでもいーけど、鼻息荒いよラシェル。女の子なのに」
「女の子にならなきゃいけないのはあんたよ!」
ラシェルは『ぐわしっ』とその肩を掴んで、ガクガク揺さぶった。
「私はウルグなの! 破壊神なの! そしてシャリは、もう今日からシャリだかチャリだか何て名前は捨てなさい! 今日からあなたは――」
珍しく蒼白になり、呆然と聞いていたシャリは機械的に「……あなたは?」と先を促した。
「花も恥らう十七歳の乙女、システィーナよ!」
『……』
微妙な沈黙が落ちた。誰もが僅かに視線を逸らし、内心『システィーナ十七歳って誰が決めたんだよ』とか、『花も恥らうって、死語なんじゃ……』などと思っていたが、ラシェルの気迫に誰も何も言えない。
「と、とにかくさ」
シャリはほとんど生まれて初めて恐怖らしい恐怖を感じながら、おどけたように腕を広げた。
「ホラ、稽古続けようよ。せっかく皆、セリフ暗記し終わったんだし……」
「じゃ、セリフ通りにやってよ」
ラシェルはシャリの肩から手を離すと、他の面々を見渡した。
「皆も、もっと気合入れて行きましょうよ。舞台に出られるなんて、そう滅多にある事じゃないんだから」
『本音ぜってーちげーだろ』と誰もが思ったが、やはり口には出さない。
再び苛烈な演技指導をし始めたラシェルを尻目に、出番のないアイリーンとレルラとナッジが顔をつき合わせてこそこそ視線を交わした。
「ちょっと、調子に乗りすぎじゃないかなぁ……」
ナッジが心細げに言う。アイリーンがしたり顔で頷いた。
「そうね……ドレス破られてからずっとああだもん」
「僕の役目取られたぁ〜……」
その傍らで、レルラがしくしくと泣き始める。会話を中断された二人は一瞬だけレルラに視線を向け、それから二人同時に向き直った。
「最初から、おかしいとは思ったのよ」
「何が?」
レルラとナッジがきょとんとアイリーンを見る。
彼女はいかにも意味あり気な視線を二人に飛ばし、まるでけしからんことでも口にするかのように、しかめっ面で囁いた。
「だって、ウルグの敵、ソリアスを信仰するネメア様のために、ウルグが準主役な劇だなんて……いかにも嫌がらせじゃない」
「ああ、なるほどね」
「そこに来て、ラシェルがシャリをシスティーナ役にしたでしょう? シャリって、何でもシスティーナの伝道師とか言う怪しげな秘密結社の幹部らしいわよ。システィーナの伝道師がシスティーナ役なんて……これはもう、何か妙だわ。何者かの思惑が絡んでいるに違いないでしょう」
アイリーンはそう断言して、反応をうかがうように二人を見た。
レルラとナッジは顎に手を当てて「ふむむ」と唸る。最初に口を開いたのはレルラだった。
「でもさ、いずれにしてもアレはないよねぇ」
三人は後ろを振り返った。ラシェルが、何やらシャリの髪をみつあみにしようとして嫌がられている。
『……ハァ』
一斉にため息をつく三人。
「そこ!」
ラシェルはシャリの髪から手を離し、三人を振り返って指を突きつけた。
「さぼってないで、とっとと作業に戻ってよ!」
『へーい』
三人はすごすごと解散した。その様はあたかも、横暴な女海賊とその手下である。
さて、ウルグがシスティーナに求婚する場面である。
さながら騎士のように雄雄しい顔をしたラシェルが一歩前へ出ると、完全に自分に酔った瞳で叫ぶ。
「共にあろう! 末期の時まで――って、アレ?」
ラシェルは目をぱちくりさせて、我に返った。気がつけば、さっきまでそこにあったシャリの姿がないのである。
ラシェルは隣に座ってうきうきと眺めていたユーリスを振り返ると、
「シャリ、どこに行ったの?」
と尋ねる。ユーリスは何やら自分の妄想に夢中だったのか、話しかけられると飛び上がった。
「えっ、いやっ、サボッてませんよ!」
使い物になりゃしない。
「……もういいわ」
ラシェルは他の面々を振り返って、シャリを探しに行く旨を伝えると、廊下に出た。
この古い城の廊下は、広間以上に古びていて、どことなくこもった匂いが立ちこめている。
ラシェルはシャリの名を呼びながら歩き出し、――不意に腕を掴まれてビクッとなった。反射的に剣に手をかけて振り返ると、
「しーっ、静かに」
シャリが唇に人差し指を当て、きらきらしたいたずらっぽい顔をラシェルに向ける。
ラシェルは剣にかけた手を離し、内心安堵に息をつきながら向き直った。
「どうしたの?」
「ほら、あれ見てよ」
彼はそう言って、窓を指差した。ラシェルが鎧戸の隙間から覗く外を覗き見ると、……いつぞやの黒いローブ姿が歩いている。
「ヴィアリアリ……? 王宮の方に向かって行くみたい……」
ラシェルは小さく言って、訝しげな視線をシャリに投げた。
「でも、どうして……」
「後つけてみようよ」
ラシェルは渋い顔をした。
「でも、稽古が――」
「何言ってんの? 依頼のこと、忘れちゃった?」
「……それはそうだけど」
「じゃ、行こうよ。冒険者の名折れだよ、ラシェル」
うまく口車に乗せられたような感はあったが、ラシェルは渋々頷いた。
古城から出た時には、すでに黒いローブ姿が点のようにしか見えなかった。抜き足差し足忍び足でその後に続きながら――通行人に変な目で見られた――、ラシェルとシャリは後をつけた。
近づくにつれ、体格や歩調などがはっきりしてくる。ラシェルは、やはりヴィアリアリだ確信した。
彼女はロセン王宮の、分厚い壁の前でふと立ち止まると、辺りをきょろきょろし始めた。
慌てて木の影に隠れるラシェル。シャリがなぜか棒立ちになってるのを見て、慌てて引きずり込みながら、彼女は鋭い目でヴィアリアリの様子を観察した。
そのヴィアリアリは、驚いたことに何か、先に尖った爪のような物がついた縄を上空に放り投げるや否や、うまく壁に引っ掛かったのを確認して、身軽に登り始めた。彼女は壁の天辺まで登ると、引っ掛かった爪を外して、向こう側に飛び降りる。
「……すごっ」
ラシェルは小さく感嘆の声を上げ、木の影から出た。
「どうする? 私たちは。あんな風に乗り越えるのは無理よ」
「めんどいから、普通に門から入ろうよ」
シャリが消極的な顔で消極的なことを言うので、ラシェルは半ば怒りを込めて彼を睨んだ。
「駄目よ。今カルラに警戒される訳に行かないでしょ? 秘密裏に潜入しなきゃ」
「言うのは簡単だよね。で、どうやって?」
ラシェルはしばらく、聡明そうというよりはずる賢そうな顔で宙を睨んでいたが、不意に手のひらを拳で打った。
「よし、アレで行きましょう」
シャリの顔は引きつっていた。
否、『シャリの顔は引きつっていた』などという表現がいかにも陳腐で、手垢にまみれ、ありきたりであるかを知らぬつもりではないが、あえて言おう。
シャリの顔は引きつっていたのである。
というのも、彼は半ば無理やり服を脱がされて今の服を着せられていたのだし、それは全く彼の本意とする所ではなかった。いやもう着せ替え人形かと。何度問いかけたい衝動に駆られたか知れないが、何か激しく身の危険を感じたため何も言えなかったシャリである。
ラシェルは自分の腕に満足して、その姿を眺めた――
すなわちメイド姿のシャリをである。
「時代はメイドさんだわ!」
「嫌だよそんな時代。生まれたくないよそんな時代」
シャリは半ば虚ろになりつつある顔で、自分の膨らんだ袖とか裾とか、清潔そうなエプロンとかを眺めた。絶望がそこには広がっていた。
「っていうか君が着ればいいじゃん。何で僕なのさそもそも、何がしたいんだい?」
シャリは絶望的な顔でラシェルにそう問いかけた。
ラシェルはしたり顔で何度も頷いて、
「私じゃ無理よ。それに、演技の肥やしになるでしょう」
「無理って……だから、一体僕に何をさせる気?」
ラシェルは満面の笑みでそれに答えた。
「門衛をそのかっこで篭絡しちゃってね☆」
……
……イタい沈黙が流れた。
「………………あのさ、」
「言いたいことは分かってるわ」
ラシェルは自身満々にそう言って、言葉を継いだ。
「門衛がロリでメイド好きかっていう問題でしょ?」
「いや違うし。そもそもそれ以前の問題だし」
ラシェルはシャリの言葉を都合よく聞き流し、王宮の門を指し示した。
「さぁ行きなさい。大丈夫、あなたはかわいいわ」
「かわいいなんて言われても、嬉しくないんだけどなぁ」
ラシェルはきょとんとした。
「じゃあ、何て言って欲しいの? まさかダンディとか、カッコいいとかナウいとか言って欲しい訳?」
「最後の何気に死語だよ。僕は、そうだな……」
シャリは考え込んで、やがて期待するような目をラシェルに向けた。
「残酷とか、サディストとか悪魔とか言ってくれると嬉しいなぁ」
「……シャリって……」
ラシェルはちょっと視線を外した後、気を取り直してシャリの背をドンと押した。
「さぁさ、さっさと行って、あの門衛どけといてよ。その隙に私が――って、何よその手」
「……ラシェルも一緒に来てくれるよね?」
シャリの華奢な手がラシェルの服を掴んでいる。
ラシェルは顔を強張らせて、その手を振り払おうとした。
「やめてよ。どうして私が――」
「まさか、僕一人で行かせたりしないよねぇ」
「ちょっ、だから――」
「もし僕の操に何かあったらどう責任取ってくれるの?」
「いや、操って――」
「ねえ、ラシェル」
「……ええい、分かったわよ」
ラシェルは何かに負けた気分で肩をすくめた。
「一人より二人の方が、効果あるかも分からないし」
シャリがにっこりした。
ロセン王宮の門衛は、暇をもてあましていた。
そもそも門衛などただのお飾りに等しいのである。忍び込もうとする者だって滅多にいない。何せここは――あのカルラの――居城なのだから。
と、門衛は眉をひそめた。
かなり遠くから、メイドらしい二人組がやってくるのである。
一人は小柄な美少女と言った風なのに、艶然とした微笑みをたたえていた。もう一人は溌剌とした感じの美人で、活発な印象が強い。まるで月と太陽のような二人組だった。
しかし門衛は、一度見たら忘れないような容姿にも関わらず、その二人に見覚えがなかった。そもそも着ているメイドドレスだって、ロセン王宮のものとは違う。
不意に警戒心が沸きあがり、門衛は居住まいを正した。
「……何用だ?」
横柄に言うと、赤い髪の美人が何か言う前に黒い髪の美少女が微笑んだ。
「私たち、職を探してますの」
美少女がそう言うと、赤髪の方がぎょっとした顔で黒髪を見た。黒髪は無視した。
「実は私たち、さる名家にお勤めしていたのですけど、この戦乱の世でございましょう? 戦渦に巻き込まれて、ついにこのような地まで流れて参りました」
門衛は、しとやかに喋るその美少女を改めて見た。
ほっそりした肢体に、レースのふんだんについたドレスを着て、上から純白のエプロンをかけている。夜のように黒い髪は艶やかで、顔は繊細な彫り物のように完璧な造形をしており、存在自体が神秘的だった。ドレスの裾から覗く足は華奢で小さく、これは掛け値なしの美少女だと門衛は思った。
美少女は首を傾げる。黒い絹糸のような髪がさらさらとこぼれ、肩に広がった。
「駄目でしょうか?」
「い、いや――だがそういう決まりは、」
「だめ……ですか?」
美少女の目に光る物が走った。ふるふると震え、細い手を口元にあて、上目遣いに見ている。
ちなみに赤髪の方は、もはや引きつった顔でそれを眺めているのみだった。
門衛は狼狽して後退しつつ、
「いや、だが――」
「あぁ……」
美少女の頬から、透明な涙が一筋流れて白い頬を切り裂いた。そのまま、彼女は顔を覆ってしまう。細い肩が小刻みに揺れ、か細い嗚咽の声が辺りに響き渡った。
門衛は自分が世界で一番の極悪人になったような気がした。
「な、何も泣かなくても――」
赤い髪の美人が一歩前に出て、ふっと遠い目をした。
「ここで断られたら……私たち、行く所がございませんの。他でも、心ない方に騙されてこの子は……」
そう言いながら、彼女は優しく黒髪の頭を撫でる。嗚咽が大きくなった。
門衛はあまりの事に半ば混乱しながら、
「……わ、分かった分かった! メイドの口を紹介してやるから、泣かないでくれ! 頼むから!」
伏せた顔が、ずっと意地の悪そうな笑みをたたえていたことを、門衛はついに知らぬままだった。
「いやー、ちょろかったね」
ほくほく顔でシャリが言った。
王宮の、廊下である。待っているようにと言われた部屋を抜け出したラシェルとシャリは、廊下をすたすたと歩いていた。
一旦中に入ってしまえば誰も疑わず、二人に声をかけて来る者すらない。
ラシェルはぐったりしながら、すでにしとやかさなどどこかへすっ飛んだシャリをしげしげと見た。
「……できるんじゃん……演技……」
「え? 何のこと? ウフフアハハ!」
「雰囲気まで変わってたわよ。何で、その演技力を劇で使ってくれないかなぁ」
ラシェルはぽりぽりと頭を掻きながら、ため息を吐いた。
「まぁ、いいじゃん。結果オーライってことで」
「っていうか、似合いすぎよその服……」
「ラシェルだって似合ってるよん」
「お世辞にしか聞こえないわ」
ラシェルはツンと顔を背けた。シャリは何か言おうと――
「では、カルラ様はまだ……」
――して、口をつぐむとラシェルの腕を引っ張った。壁に張り付いて、廊下の様子をうかがう。
狭い廊下で、黒いローブ姿のヴィアリアリとメイドが何か話していた。メイドが立ち去ると、ヴィアリアリは辺りを見回してから、歩き出した。
二人は顔を見合わせて、こっそりその後をつける。
よどみない歩調のヴィアリアリが向かった先は――
「……カルラの部屋?」
「うん、カルラの部屋だね」
彼女は汚い字で『カルラの部屋』と書かれた扉を押し開け、中に消えた。
「うっわ、怪しー。ロストールの間者が、カルラの部屋に入って行くなんて」
「いよいよ、嫌疑が固まって来た感じね。後は証拠を手に入れれば」
……二人は再び顔を見合わせると扉に近づき――
「なーにやってんの? 二人共」
ラシェルは飛び上がった。振り向くと、呆れ顔のカルラが立っているではないか。
シャリはラシェルを促して真っ直ぐ立つと、へらへらと微笑んだ。
「やあカルラ。奇遇だね」
「そそそ、そうね、奇遇ね」
ラシェルも便乗する。
カルラは二人の顔を順に見ると、腰に手を当ててため息をついた。
「全く、なかなか戻って来ないから何やってるのかと思えば……メイドさんごっこ? 特殊プレイはお家でやってちょーだい」
「演技の練習! してたのよ。ね、シャリ!」
「まぁね。ほら、うまくなったでしょ?」
「そしたら、メイドと間違えられて……ね、シャリ!」
「あー、うん。間違えられてね」
カルラは肩でも凝ったのかもみながら、
「何掛け合い漫才してんのよ」
と半眼になって言った。
ラシェルは慌てて視線を宙に飛ばし、思いついて言った。
「さ、じゃあ稽古に戻んないと。ね、シャリ」
「そうだねラシェル」
二人は手をつないでそそくさとカルラから離れ、――角を曲がった瞬間、すごい勢いでお互いから離れた。
「シャリがもたもたしてるからよっ」
「僕のせいなの? ラシェルこそ、冒険者のくせにバック取られるなんて、それでも冒険者?」
「うっさいわね! シャリこそ、ホントに気づいてなかったの? 実は、気づいてて黙ってたんじゃないでしょうね!?」
「あ、ひっどいなー。君こそ、ひっどいフォローした癖に。あれじゃ、まず間違いなく怪しまれたよ」
「そんなん、しょうがないじゃない……!」
二人はしばらくにらみ合い、それからほとんど二人同時にそっぽを向いた。
とんだシスティーナとウルグもいたものである。