「おお、我が父よ、偉大なる神よ」
ラシェルは絶望的な悲嘆と共に叫んで、膝をついた。
「あなたはかくも残酷なるか。なぜ私を苦しめる? その御手で慰めては下さらぬのだ……こんな運命があなたの望むところとすれば、恨みますぞ、父よ!」
――と、ラシェルはそう言って立ち上がり、フラリフラリと歩き出した。その様は夢遊病者のそれに似ていた。そのまま退場しようと歩を進め、――
彼女は、こんな事になるとは予想だにしていなかったのだが、その時突然何かに足を取られて転倒した。
「ラシェル!」
とたんにその場を包んでいた一種侵しがたい空気が霧散し、カルラ達が駆け寄る。
助け起こされた彼女は、風船のように腫れた自分の足首を押さえ、青ざめながら、
「大丈夫」
毅然として答えた。
カルラの陰謀がいよいよ明らかになってから、三日が経った。
ラシェルはより演技に集中し始めたし、シャリは反対にカルラの嫌疑の方に夢中らしく、稽古中でも考え込んでいる事が多い。
ラシェルが転んだのは稽古にもいよいよ熱が入ってきた昼の事で、彼女は不意に途切れた集中に、熱狂の名残を感じながら立ち上がると、びっこを引いて隅に向かった。
「休憩にしよう」
彼女の様子を見たレルラが言って、張り詰めていた緊張が一気に和らいだ。にぎやかしくなる。
広間の隅に移動したラシェルは、ぼおっと険しい眼差しで宙を睨んでいた。どうしたらもっと完成度を高められるかと、終わりのない思考の迷宮に入り込んでいたのだが、それというのも彼女は今やすっかり演技の虜になっていたのだった。
だからもしもこの時、この事件にシャリが絡んでいなかったら、彼女はカルラの嫌疑など忘れて、旅芸人になると言い出したかも知れない。
が、シャリはそこにいたし、今もラシェルの様子を危ぶんで近づいていくところだった。
「やあ、ラシェル。どう? 具合は?」
シャリはそう言って、ラシェルをまるで初めて見る人間か何かのようにまじまじと見た。
ラシェルは顔を上げると、軽く手を上げてそれに答え、後はまるでほっぽりだして相手にしようとしない。
シャリは仕方なくその隣に腰かけると、彼女がその話題を望んでいないと知っていながら、むしろ嬉々として切り出した。
「ねぇ、どう思う?」
「何が」
ラシェルは仕方なく返事をしたが、どこか億劫そうだった。
「この間見た光景だよ。ヴィアリアリがカルラの部屋に入ってくの、見たでしょ?」
「ええ、見たわ」
「どういう事だと思う? ぜひ君の意見が聞きたいなぁ」
と言いつつ、シャリはまともな言葉が返ってくるのを期待した訳でもなかった。実際、はぐらかされた時の言葉も用意してあったし、いつ言おうかとタイミングをうかがっている状態だった。
だがラシェルは何の気まぐれか不意に考え込み、今日初めて演技以外のことに目を向けた。
「……そうね……怪しい事は確かだけど、確かな証拠を掴んだとは言いがたいわ」
「へぇ? じゃあ、君はあの暗示めいた一件をどう捉えてるの? まさか、ヴィアリアリとカルラが個人的なお友達だとでも思ってるんじゃないよね」
「……普通に考えたら、共謀して、ネメアに害を及ぼそうとしてる……と考えるでしょうね」
「で、君の意見はどうなの?」
シャリは興味津々と言った風にラシェルの気忙しげな顔を覗きこんだ。
ラシェルはそこで初めてまともにシャリの目を見ると、
「人にばっかり聞いてないで、自分の意見も言ったらどう?」
と答えたっきり口ごもってしまう。
シャリはなんとなく詰まらなさを感じながら、特に断る理由もないので口を開いた。
「君が今言った一般論と同じ見解だよ。共謀してるんじゃないかなぁ。あの二人。でもね、面白いと思うのは――」
「思うのは?」
突然、ラシェルはこの件に対しての興味を取り戻したようだった。食いつくような眼差しをシャリに向けている。
「もしも共謀の内容が、ネメアに害を与えるところにあるんなら、カルラってホントに大胆だよねぇ。調査しに来たって分かってるラシェル達を劇団員にしちゃうんだから」
「共謀って言うのがきっと、関係あるのよ。この劇と、その計画に」
「どうしてそう思うの?」
ラシェルは自分の思考に夢中になって、熱のこもった口調で説明した。
「だって、じゃないとおかしいじゃない――あなたの言う通り、カルラが私たちを引き込むはずないのよ。だけど、それでも私たちに声をかけたってことは、そうせざるを得なかったからよ。計画のために劇が必要なのに、役者が一人としていなかったら、計画そのものがポシャする。それを恐れたから、私たちを利用したのよ」
「まぁ、カルラはそういう大胆なところがあるしね」
シャリはまるでカルラの親しい友人のようなセリフを口にすると、恥ずかしげもなくにっこり微笑んだ。
「ラシェルでも、まともに物が考えられたんだね」
ラシェルはとたんに我に返り、ジト目になった。
「……死ねと言って欲しいの?」
シャリは大げさに手をつき出して、まるで汚れたものでもくっついているかのように激しく首を横に振る。
「滅相もない! そんな事言われたら、僕傷つくなー」
ラシェルはへっと吐き捨てて、そっぽを向いた。
「何よその棒読みセリフ。いいわよ別に。あなたが私をどう考えてたのか、今のセリフでよーっく分かったから」
「あっ、言葉の揚げ足取りはよくないよ。性格悪くなるよ」
ラシェルは、だんだん興奮しながら目を剥いた。
「あのね! あんたに性格の事でとやかく言われたくない――」
「きゃあ!」
不意にほとばしった悲鳴。ラシェルは冒険者の癖で腰に手をやったが、そこに剣はない。
アイリーンが尻餅をついて、驚いた顔で床のある一点を指し示していた。
ラシェルは慌てて近寄ろうとして、足の痛みに顔をしかめた。
「肩貸そうか?」
「性格の悪い女の子は、素直じゃないの」
こんな時でもからかうような色の消えない声でシャリは言ったが、ラシェルはにべもなく断って足を引きずりながら向かった。
カルラが跪いて、アイリーンの指差した床を調べている。やがて彼女は何かを拳に握り締めて立ち上がった。不快そうに歪んだ顔で、カルラはそれを皆に見えるよう掲げる。
「こんなもん見つけたんだけど」
「それ……石?」
ラシェルは半ば呆然とカルラが掲げた、ちょうど手のひらほどの石を眺めた。
「……朝掃除に来た時は、そんなものなかったわ!」
アイリーンが断定的な口調でそう言って、ナッジがそれを裏付けるように口を開いた。
「僕も、朝衣装作るので来てたけど、そんなものあったら気づくと思うな。だってちょうど、その辺りで作業していたし」
「……じゃ、誰かが故意に、隙を狙って投げ込んだって事? 誰かを怪我させるように?」
ラシェルは不機嫌そのものと言った顔で周囲を見回した。
「……そうなるね」
「許せないです!」
レルラの考え深そうな、沈んだ声に被せるように、ユーリスが叫んだ。目は怒りに燃え、拳をぐっと握り締めている。
ラシェルはその様子を見て、自分のために怒ってくれるのかとしんみりしかけたが、次いだ、
「わたしが転んで、怪我でもしたらどうするんですか!」
の一言に涙も枯れ果てた。
「まさか、このメンバーの誰かがやったの?」
ラシェルは不意にそう声を上げた。
とたんにざわめきが走るかと思いきや、視線は一点に集中する。
「……何で僕を見るのかな」
シャリがさすがに引きつった顔で、視線を注いでくる周囲を見渡しながら低く言った。
「僕がやったって? そんな無駄な事、どうして僕がやらなきゃいけない? 意味がないよ。着眼点は悪くないと思うけど」
特に軽蔑めいた視線を投げるラシェルを見ながらシャリは言ったが、ラシェルはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向くだけだった。
「きっと、いつもの嫌がらせよ」
アイリーンが立ち上がって服の埃をはたき落としながら、ため息と共に言った。
「前のメンバーでも、こんな事日常茶飯事だったんだから。主役は、ついにノイローゼになって……」
「ノイローゼ!?」
ラシェルはきっとなって、カルラに詰め寄った。
「ノイローゼって何よ。謎の奇病だって言ったじゃない」
「い、いや、あはは……まぁ、そこはそれ、ほら、さすがにそんな事言ったら受けてもらえないかな……なんて思って」
「奇病だろうとノイローゼだろうと大して変わりゃしないわよ!」
ラシェルは地団太を踏みそうな勢いで怒り、カルラの肩を掴んで揺さぶった。
「という事は、あなたの事だから、そんな大事になったなら調査させたでしょう!?」
「いや、それは……そうなんだけどね、」
「誰なの? 教えて、教えなさい! でないと首絞めてやるから……」
ラシェルが恨みがましく言うと、カルラは引きつりつつも笑顔のままでまぁまぁと両手を突き出した。
「落ち着いて、ね、ラシェル――」
「言いなさい……」
ラシェルはすでに据わった目でカルラの首に手をすべらせた。
あまりの鬼気迫る形相に、他の面々も唖然としてこの喜劇を見守っている。
カルラはこの事を話した事で得られる利益と不利益を計算して、……不意にどうでもよくなった。まさしく何もかもどうにでもなれという心境で、彼女はにんまり笑った。
「――ん〜ふふ、実は、オイフェなのよねぇ」
「オイフェ!?」
ラシェルは相手が話す気になったのを悟って、我に返ると手を離した。
「そ……だから言えなかったのよ、不祥事でしょ? 身内で争うなんて」
「オイフェだけ?」
「あー、いやいや」
カルラはパタパタと手を振った。
「ドルドラムとゼリグも共犯らしいのよ。オイフェだけならともかく、ネメア様のパーティーじゃない? ヘタな事はできないし。だから証拠を掴んでから訴えようと思ってたんだけど」
「オイフェ……」
カルラは歯切れ悪そうな顔をしたが、ラシェルはすでにそんな話など聞いてはいなかった。激しく地団太を踏みながら、歯を食いしばる。
「許すまじ! この恨みはらさでおくべきか! 卑劣、あの卑劣漢め! こうなったら、皆で乗り込んで拳で決着つけるわよ! ねぇナッジ! あんただって、せっかく作った衣装破られたの気にしてたでしょ!」
「いや、僕は鎧が無事だったから――」
「黙りなさい! 私は、一晩かけて作ったドレス破られたんだから。それに、怪我までさせられて――」
「運が悪かっただけじゃ……」
レルラが口を挟んだが、これは完全に失言だった。ラシェルが燃える眼差しをレルラに向けて詰め寄ったのである。
「じゃ、あの連中には非はないの? ねぇ?」
「いや、そこまでは誰も……」
「じゃ、これ以上の妨害を阻止するためにも、やっぱり皆で――」
「ねぇ、」
とそれまで黙っていたシャリが不意に口を開き、未だに踏み鳴らしているラシェルの足を指差した。
「足、痛まないの?」
沈黙が落ちた。
ラシェルは無言で膝をつくと、うんうん唸り始める。
シャリはそれを見て、ちょっと微笑んだ。
「ねぇ、それも魅力的だけどさ、もっといい方法があるよ」
言いながら彼が取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。