宿の一室だった。
オイフェは、憤然とベッドに腰掛けて、中空を睨み据えた。険しくしかめられた眉、組んだ腕、いかにも不機嫌そうなオーラが漂っている。
ドルドラムはいつものことだと自分に言い聞かせて、かたくなに武器の手入れをしていた。
沈黙が部屋の中に漂っている。
ドルドラムはついに耐えかねて、彼女を振り向くと、仕事に疲れた中間管理職のような顔で声をかけた。
「どうしたオイフェ、機嫌でも悪いのかね」
「悪い?」
神経質そうにオイフェの眉が歪んだ。
「悪いなんて、かわいらしいものだったらよかったんだけれどね。――最悪よ」
オイフェはぎりぎりと、怒りを込めて歯ぎしりした。
「あれだけ隙を突いて邪魔してやってるって言うのに、まだ誰一人倒れないんだもの」
「今度の相手は冒険者、以前のように都合よくは行くまいて」
オイフェの行動の是非を棚上げして、ドルドラムはしみじみと言った。自分のこういう口調が、相手に感銘を与えると知っているのである。
オイフェは何か言い返そうとしたが、その前に部屋の扉が勢いよく開いた。
ゼリグである。彼はひょいと身をかがめて扉をくぐり、むっつりと押し黙ったまま入ってくると、オイフェと目を合わせて何故か沈黙した。
「……? 何かあったの?」
オイフェが聞くと、ゼリグはこめかみの辺りに汗を滴らせて一枚の羊皮紙を、恐る恐る差し出した。
異様な空気に、ドルドラムが外に出たそうにしている。ゼリグは一人だけ逃がしてなるものかと、その肩を強烈に握った。
羊皮紙を受け取ったオイフェは、しばらく表情を消してその内容を検分するように眺めていたが、次第に俯き、ぷるぷると震え出した。
ドルドラムが、恐る恐る覗きこむ。
◆◆◆◆◆
迷子のダークエルフを探してください!
うちのダークエルフがいなくなってしまいました。
名前は確か、えーっと、あまりにもどうでもいいから忘れちゃったよ……
えっとオイルとかオイッスとかです。
色が赤くて、今にも腐って闇落ちしそうなんです! 助けて!
(不幸にも、と書いて消してある)見つけた方は、
三日後、お城の前の公園まで(ぶるってなかったら)一人で来てください。
報酬 −10ギア
依頼人 ラシェル・ルー
追伸 あ、武器持ってきてね。どうせ何持ってきても無駄だろうけど。
◆◆◆◆◆
「ギルドで見つけたんだが……」
ゼリグは律儀に言いかけたが、オイフェが次第に顔色をなくし、それから真っ赤になったのを見て口をつぐんだ。
オイフェは羊皮紙を床に叩き付け、散々踏み潰した挙句、鬼か悪魔の形相で火をつけると、灰すらも執念深く蹴りつけ始めた。
「オイルって誰だ! 私は油か! オイッス? むしろ遠くなったわ! しかも闇落ちしそうって、とっくにお前らのせいで闇落ちしてるわこのボケ! 誰が助けるか! 報酬−10ギアって一体どういう事よ、払えっての私に、えぇ!?」
怒りのあまり自分のキャラすら放棄して喚き散らし、文句を言いに来た宿の主人を一睨みで退散させ、屋根の上で寝ていた猫がその声を聞いて屋根からずり落ち、たまたま近くを通った鳥がバタバタと地面に落ちた。
ドルドラムはオイフェが怒りを吐き出し切って、ゼェゼェと肩で息をしているのを見て(もっともこの場合、吐き出しきったのは怒りではなく息かもしれないが)、顎をなでながら興味深そうに目を細めた。
「どう見ても決闘の申し込みだろう」
ゼリグが珍しく相槌を打った。
「三日後か」
「で、行くのかね、オイフェ」
二人がオイフェを振り向くと、彼女は「フフフ……」と不気味な笑いをもらしながら立ち上がり、目を光らせた。
「いいでしょう……受けて立つわ。どうせ、神器のことでももめてたのよ。こんなもんを書いたあの女を、ぎったんぎったんにしてやる!」
オイフェのその言葉を聞いて、ドルドラムとゼリグは思わず顔を見合わせた。
「これは、明らかにラシェルが書いたものじゃないと思うがね」
「奴は聞いていない」
実際、オイフェは二人のそんな会話などまるきり無視して、怒りに闘志を漲らせていた。
「いい手が、あるって言うから、任せてみれば……」
ラシェルは短く言葉を切ってそう口にするのが精一杯だった。青ざめてプルプルと震えながら、シャリの持ってきた羊皮紙を握り締めている。
夜、宿屋でぐーすか寝ていたラシェルは叩き起こされて廊下に出ると、この羊皮紙を渡されたのだった。
……とうのシャリに。
「……こんなもん、作ってたとはね……」
ラシェルはやっと言って、自分を抑えようと努めた。何と言っても、彼女はシャリが何かを企んでいると承知で放置していたのである。責任がないとは言えない。
が。
「会心の出来だよ。そう思うでしょ? 僕、徹夜しちゃったんだから、ちょっとは褒めてもらいたいなぁ」
――ぷち。
ラシェルの中で何かが切れた。
「もー……」
「もー? どうしたの、突然牛になったりして」
「――もう許せん……! ど・こ・ま・で、ふざければ、気が済むのよあんたはぁ!!」
ラシェルは突然、驚くほど機敏にシャリの首を引っつかむと、もはや涙目で思いっきり前後に揺さぶった。
「アハハ愛が痛いよラシェル」
「もう絶対許さないんだからぁ! 絶対、責任取ってもらうからね、ええ、取ってもらいますとも!」
「責任? そんなの知らないよ。君がOKしたんだし、僕は悪くない」
「……あのね、私は確かに、あんたに任せるってあの時言ったけど、まさかこんな、馬鹿みたいな方法取るなんて思っても見なかったわ……!」
「へー、それはご愁傷様」
「お前のせいだろうがー!!」
ラシェルはいよいよ酸欠で青ざめだしたシャリから手を離すと、後は全く省みずに背を向けて、壁にゴツンと額をあてた。
「ああ……神様……ラシェルをお救いください……このバカを生贄に捧げてもいいですから」
「それじゃ邪神だよ」
「うるさい、黙ってて! ……多くは望みません、ただこのバカをどっか遠い北の果てにでも追いやってくださるなら何だってします……」
「アハハ、面白いね。いつからそんなに信仰心、厚くなったの? 真剣に祈ってるところにすっごーく悪いんだけど、ちょっと嘘くさいよ」
「黙れって言ってるで――」
「いいんじゃない? 行って来なさいよ、決闘」
「カルラ!?」
ラシェルはびっくりして振り返った。カルラが眠そうな顔で立って、あくびしている。
「何でこんなところに……」
「んなことどうでもいいでしょ。近くを通りかかったら声が聞こえたってだけ」
ラシェルは思わず、疑いの眼差しで彼女を見た。また、ヴィアリアリか誰かと密会していたのではと思ったのだ。
だがカルラはそんな眼差しに気づいているのかいないのか、相変わらず眠そうなまま、言葉を次いだ。
「いいチャンスでしょ。ま、アンタがオイフェに勝ったら、嫌がらせも消えるでしょうし?」
「そう言われると、反論はできないけど……」
ラシェルはそう言って口ごもった。
「ドレス破られたの、あんなに怒ってたじゃん。怒り心頭なんでしょ? 行って来なさいよ、責任は私が取るからさ」
「いいですね、それ!」
「ユーリス、いつの間に……」
ユーリスが目をきらきら輝かせて立っている。眠気はすっかり吹き飛んでしまったようだ。
「決闘なんてすっごく素敵! わたし、どきどきしてきちゃった! ラシェル様、がんばってくださいね!」
「いや、まだ行くとは――」
「それがいいよ」
シャリが相槌を打った。
「それに、相手はもうすっかり乗り気だよ! がんばってね!」
シャリはなぜか心底楽しそうにそう言って、――駆け去った。
「ちょ、逃げるつも――」
「あー眠い。そろそろあたし帰るわ」
「え、カルラ、だって話は――」
「じゃあ、わたしも休ませてもらいますね」
ユーリスはドアの向こうに消える直前、振り向いてにっこり笑った。
「わたし、ラシェル様の勇姿、楽しみにしてますね!」
無慈悲な音をたてて、扉が閉まる。ラシェルの目は点になっていた。
「……え、なに、結局、私行かなきゃいけないの?」
誰も聞いていなかった。
そして運命の三日後――
ラシェルは朝起きるなり、そのことを思い出して憂鬱になった。もう皆稽古場に向かったのか、他のベッドに人影はない。ラシェルはのそのそとベッドから這い出すと、顔でも洗おうかとドアノブに手をかけ――
「……!?」
ラシェルは目を剥いた。ガタガタガタ。何度ドアノブを引いても開かない。
「え、え、何!?」
ラシェルは思わず焦って、何度もドアノブを引っ張ったり体当たりしたが、さながらドアではなく壁だった。びくともしないのである。
「え、えええええ!!??」
絶叫が響き渡った。
一方オイフェは、吹きすさぶ風の中、公園の中央で仁王立ちしていた。険しい顔で弓を手に持ち、緊張したようにぴんと背をのばしている。
通行人ですら、彼女の姿を見たとたん、迂回路を探し、ないと分かるとすごすごと顔を隠して通り過ぎて行くのだった。
オイフェはそんな通行人たちを冷たい目で睨んでいた。だが次第に時が過ぎて行くと、彼女の頬が不愉快に引きつり始め、いかにも苛立たしげに腰に手をあてるようになる。
さすがに、オイフェはつぶやいた。
「どれだけ私を待たせるつもりなの……?」
声に怒りがにじんでいる。そうこうしているうちに、先日の憤りが再び彼女の中に蘇った。
「ええい、見てなさい、後で絶対に……!!」
「彼女なら、来ないよ」
オイフェはハッと振り向いた。
黒い服の少年が、いつの間にかオイフェの真後ろに立っている。髪が風になびいて無機質に揺れた。
「来ない……? どういうこと」
シャリはにっこりした。
「だって、今頃ラシェルは――」
「しゃ〜……り〜……」
その時、地獄から這い出る亡者のような声が辺りに響き渡った。
オイフェが押し殺した悲鳴を上げる。
今や髪を振り乱し、木の棒を杖代わりにして、足を引きずりながら歩いてくるのはラシェルだった。顔やら服やらに煤がこびりつき、今にも倒れそうに見えるが、目だけが執念深く光っていた。
「ラシェル!?」
しかし一番驚いたのはシャリらしかった(もっともその驚きはやや大げさで嘘くさかった)。
「そんな! ドアを開かないようにして、しかもドアを開けたら上から水が降ってくるように細工して、廊下は氷づけにして歩けないようにした上、宿の主人をイシュバアルとすり替えておいたのに!?」
「殺す気か!!」
ラシェルは杖を放り投げて喚いた。
「ドアが開かないからファイアで火をつけたら火事になるし、外に飛び出そうとしたら水が降ってきてその上氷があるから滑るし、ようやく一階にたどりついたと思ったら変な竜がいるんだから死ぬかと思ったわよ!」
「…………よく生きてたわね」
オイフェは腰が引けた様子で言った。
ラシェルはぞんざいに礼を言って、シャリに向き直ると、詰め寄った。
「さぁどう釈明してくれるのかしら? え? まさか笑って『ゴメンねー』で済まされるとでも思ってるんじゃないでしょうね!?」
まさしくゴメンねーと言おうとしていたシャリはちょっと狼狽して、アハハととりあえず笑った。
「いやー、だって、万が一のことがあったら困るからさ。宿でおとなしくしててもらおうと、」
「邪竜の方がよっぽど危険だっつの! 万が一になりかけたわよ! HP1でぎりぎり勝ったからよかったものの、死を覚悟したんだからね死を!」
ラシェルは訳の分からないことを喚きつつ、ぎらぎら燃える目をシャリに向けた。
「邪竜とアンタと、どっちの方が強いか試してみましょうか? シャリ……」
「まぁ、そう怒らないで落ち着いてよ。良かったじゃん、よっ! 竜殺し!」
「……」
ラシェルは無言で剣を抜いた。殺る気満々である。
「ホラ、だってさ、ね、それよりオイフェとの決闘が――」
「いや、いい」
「え?」
シャリはぽかんとした。オイフェは青い顔で首を横に振る。
「私の負けでいい。邪竜と一騎討ちして勝つような女と決闘する勇気はない」
「……だって。これで心置きなく戦えるわねシャリ」
「いや、だからさ、まさか、邪竜と戦うなんて思わなかったんだよ、てっきり逃げると……」
「ボス戦だから逃げられなかったのよ、シャリ。氷で滑ってそのままの勢いでぶつかっちゃったからね」
「笑顔が怖いよ、ほら、もっといい顔して、ね?」
「うふふ」
ラシェルはにっこり笑って、剣を構えた。
「大丈夫、痛みは一瞬だから」
〜しばらく お待ちください〜
「いやー、悪いわね、おごってもらっちゃって」
酒場で、ラシェルとオイフェは向き合っていた。
オイフェは引きつった笑いを浮かべて、煮物を示して見せる。
「き、気にしなくていいわ。今までのお詫びだと思って……」
ラシェルはカラカラと笑った。
「ヤダなぁ、そんなこと気にしてないのに! ドレス破られたこととかね……アレ私が縫ったんだけどね……」
「あああ、こ、このシチュー美味しいわよ。ラシェル、遠慮しないで食べてね」
「ごめんねー、あ、美味しい!」
ラシェルはそう言って微笑んだ。
オイフェは結局この後、財布がすっからかんになるまで付き合わされたのだった……